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1章(1)
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築二十五年が経った灰色のアパートは、見ているだけで気が滅入ってくるようだった。
建物自体の古さだけではなく、周りのアパートと比べてもその外観は色彩を欠きすぎている。コンクリートの灰色と、寂れた室外機。それにベランダを囲う黒い鉄柵。
十束旭陽はゴロゴロと引いてきたスーツケースを持ち上げ、コンクリート製の階段を登りはじめた。スーツケースの中身は着替えが大半で、それほど重くはない。しかし階段は幅が狭く、何度か壁にスーツケースの角を擦った。
三階分の階段を登りきり、ようやく目的の部屋にたどり着く。コーポながしま303号室。家賃二万九千円のここが、今日から旭陽の城である。
来る途中、不動産屋に寄ってもらってきた鍵を鍵穴に差し込み、鍵を開ける。ドアを開けると、まず目に入ったのは床に置かれた「入居前クリーニング済み」と書かれた紙だった。内見をオンラインで済ませてしまったため、実際に部屋に入るのはこれがはじめてだ。
スーツケースを玄関の脇に寄せて、靴を脱ぐ。浴室とキッチンの前を通り過ぎ、まだカーテンも付けられていないリビングの中央に立った。内見で見た時よりずっと、日当たりがいいように見える。窓からは大きな校舎とグラウンドが見えた。おそらくこの近辺一帯の避難場所にもなっている中学校だろう。
旭陽はリビングの中央に立ち尽くし、意味もなく天井に取り付けられたシーリングライトを見つめた。新生活の高揚は、どこにもなかった。
◇ ◇ ◇
旭陽がこの春から通う新陽学園大学は、水泳の強豪校として知られている。三歳から水泳を習ってきた旭陽は、スポーツ推薦で大学への進学が決まった。
高校三年生の十二月。あの時はたしかに嬉しかった。国内でもかなり設備の整ったプールで毎日練習できること、インカレでも記録を残している選手の泳ぎを近くで見られること。
大学に行けば、自分の能力がもっと伸びるはず。そう、思っていた。あの試合に、臨むまでは。
「もういい加減にしてくれよ……」
旭陽は今夜、何度目かわからないため息を吐いた。枕元に置いていたスマホの画面をタップして時計を表示させると、時刻はすでに午前二時を回っている。
何度寝返りを打っても眠れないのは、隣室から絶えず聞こえる叫び声が原因だった。正確になんと言っているかが聞き取れるわけではないのだが、旭陽がベッドに潜り込む時間になると、しきりに壁の向こう側から男の叫び声が聞こえるようになった。それも、二週間は続いているのである。
最初は部屋に数人が集まってどんちゃん騒ぎでもやっているのかと思っていたが、よくよく聞くといつも聞こえてくる声は一人分だけなのだ。隣人はたった一人で、毎晩なにごとかを叫んでいる狂人である。
神経が図太く、どこでも眠れることを自負していた旭陽だったが、毎晩止まない奇行にさすがに音を上げた。眠れないことで日中の講義にも支障が出ている。
「もう我慢できない!」
旭陽はガバっと掛け布団を蹴飛ばすと、勢いをつけてベッドから起き上がった。こうなったら直接、隣室に文句を言いに行ってやる。
寝間着にしているジャージのまま、サンダルを突っかけて蛍光灯の明かりがちらつく廊下に出る。叫んでいるのは旭陽が住む303号室の右隣。302号室の住人だ。
302号室の前に立ち、旭陽は玄関ドアの横に取り付けられているインターホンのボタンを押し込んだ。しばらく反応はなかったが、やがて足音が近づいてきたかと思うと、鍵を外す音が聞こえ、それからドアが開く。
「どちらさま?」
ドアの隙間から顔を出したのは、旭陽と同じくらいの歳に見える男だった。黒縁の眼鏡をかけていて、伸びすぎた髪の毛は全体的にもっさりとしている。首元が伸び切ったTシャツは、だらりとしていて寝間着のようだ。身長は旭陽よりも低く、自然と男の仏頂面を見下ろす形になった。
「俺、隣に住んでる者ですけど」
「隣? 隣は空き部屋じゃなかったのか?」
「二週間前に引っ越してきたんです」
男があからさまに興味を滲ませて、旭陽の顔をジロジロと眺め回す。旭陽も、男の顔を無遠慮に見下ろした。こいつが毎晩大声を上げて、自分の睡眠を妨害し続けた人間なのかと。
「あの、夜になったら叫ぶのやめてもらえませんか。うるさいんで」
男は旭陽の訴えを聞いて、短く「これは失礼」とあまり反省の色も見えない調子で言った。
「隣はてっきり、空き部屋だと思っていたものだから」
「仮に空き部屋だったとしても、夜中にアパートで叫ぶのは非常識でしょ」
「他人の常識が僕にとって非常識であるように、僕の常識が他人にとっての非常識になりうることもあるという――」
「はあ?」
旭陽は目の前の男との会話を諦めた。話が通じるとはとても思えないのだ。とにかく、夜静かにしてくれたらそれでいい。
「ところで君」
踵を返し、自分の部屋に戻ろうとしていた旭陽の背中に向かって、男が声をかけてくる。旭陽は嫌々ながらも振り返った。眼鏡の奥の目が、旭陽の顔をまだ見上げている。
「新陽大の一回生だろう?」
「そうですけど……それがなにか」
男はドアの隙間からするりと廊下に出てきた。足元は裸足だった。
「僕は新陽大文学部の三回生。小野碧だ。君は?」
「……経済学部の、十束旭陽です」
「十束くん。隣人同士、仲良くしようじゃないか」
小野碧と名乗った男が手を伸ばしてくる。どうやら握手をしろということらしい。こんな変人が同じ大学で、しかも先輩なのかと思いつつ、旭陽はその生白い手を握り返した。仲良くする前に静かにしてくれ、と思いながら。
建物自体の古さだけではなく、周りのアパートと比べてもその外観は色彩を欠きすぎている。コンクリートの灰色と、寂れた室外機。それにベランダを囲う黒い鉄柵。
十束旭陽はゴロゴロと引いてきたスーツケースを持ち上げ、コンクリート製の階段を登りはじめた。スーツケースの中身は着替えが大半で、それほど重くはない。しかし階段は幅が狭く、何度か壁にスーツケースの角を擦った。
三階分の階段を登りきり、ようやく目的の部屋にたどり着く。コーポながしま303号室。家賃二万九千円のここが、今日から旭陽の城である。
来る途中、不動産屋に寄ってもらってきた鍵を鍵穴に差し込み、鍵を開ける。ドアを開けると、まず目に入ったのは床に置かれた「入居前クリーニング済み」と書かれた紙だった。内見をオンラインで済ませてしまったため、実際に部屋に入るのはこれがはじめてだ。
スーツケースを玄関の脇に寄せて、靴を脱ぐ。浴室とキッチンの前を通り過ぎ、まだカーテンも付けられていないリビングの中央に立った。内見で見た時よりずっと、日当たりがいいように見える。窓からは大きな校舎とグラウンドが見えた。おそらくこの近辺一帯の避難場所にもなっている中学校だろう。
旭陽はリビングの中央に立ち尽くし、意味もなく天井に取り付けられたシーリングライトを見つめた。新生活の高揚は、どこにもなかった。
◇ ◇ ◇
旭陽がこの春から通う新陽学園大学は、水泳の強豪校として知られている。三歳から水泳を習ってきた旭陽は、スポーツ推薦で大学への進学が決まった。
高校三年生の十二月。あの時はたしかに嬉しかった。国内でもかなり設備の整ったプールで毎日練習できること、インカレでも記録を残している選手の泳ぎを近くで見られること。
大学に行けば、自分の能力がもっと伸びるはず。そう、思っていた。あの試合に、臨むまでは。
「もういい加減にしてくれよ……」
旭陽は今夜、何度目かわからないため息を吐いた。枕元に置いていたスマホの画面をタップして時計を表示させると、時刻はすでに午前二時を回っている。
何度寝返りを打っても眠れないのは、隣室から絶えず聞こえる叫び声が原因だった。正確になんと言っているかが聞き取れるわけではないのだが、旭陽がベッドに潜り込む時間になると、しきりに壁の向こう側から男の叫び声が聞こえるようになった。それも、二週間は続いているのである。
最初は部屋に数人が集まってどんちゃん騒ぎでもやっているのかと思っていたが、よくよく聞くといつも聞こえてくる声は一人分だけなのだ。隣人はたった一人で、毎晩なにごとかを叫んでいる狂人である。
神経が図太く、どこでも眠れることを自負していた旭陽だったが、毎晩止まない奇行にさすがに音を上げた。眠れないことで日中の講義にも支障が出ている。
「もう我慢できない!」
旭陽はガバっと掛け布団を蹴飛ばすと、勢いをつけてベッドから起き上がった。こうなったら直接、隣室に文句を言いに行ってやる。
寝間着にしているジャージのまま、サンダルを突っかけて蛍光灯の明かりがちらつく廊下に出る。叫んでいるのは旭陽が住む303号室の右隣。302号室の住人だ。
302号室の前に立ち、旭陽は玄関ドアの横に取り付けられているインターホンのボタンを押し込んだ。しばらく反応はなかったが、やがて足音が近づいてきたかと思うと、鍵を外す音が聞こえ、それからドアが開く。
「どちらさま?」
ドアの隙間から顔を出したのは、旭陽と同じくらいの歳に見える男だった。黒縁の眼鏡をかけていて、伸びすぎた髪の毛は全体的にもっさりとしている。首元が伸び切ったTシャツは、だらりとしていて寝間着のようだ。身長は旭陽よりも低く、自然と男の仏頂面を見下ろす形になった。
「俺、隣に住んでる者ですけど」
「隣? 隣は空き部屋じゃなかったのか?」
「二週間前に引っ越してきたんです」
男があからさまに興味を滲ませて、旭陽の顔をジロジロと眺め回す。旭陽も、男の顔を無遠慮に見下ろした。こいつが毎晩大声を上げて、自分の睡眠を妨害し続けた人間なのかと。
「あの、夜になったら叫ぶのやめてもらえませんか。うるさいんで」
男は旭陽の訴えを聞いて、短く「これは失礼」とあまり反省の色も見えない調子で言った。
「隣はてっきり、空き部屋だと思っていたものだから」
「仮に空き部屋だったとしても、夜中にアパートで叫ぶのは非常識でしょ」
「他人の常識が僕にとって非常識であるように、僕の常識が他人にとっての非常識になりうることもあるという――」
「はあ?」
旭陽は目の前の男との会話を諦めた。話が通じるとはとても思えないのだ。とにかく、夜静かにしてくれたらそれでいい。
「ところで君」
踵を返し、自分の部屋に戻ろうとしていた旭陽の背中に向かって、男が声をかけてくる。旭陽は嫌々ながらも振り返った。眼鏡の奥の目が、旭陽の顔をまだ見上げている。
「新陽大の一回生だろう?」
「そうですけど……それがなにか」
男はドアの隙間からするりと廊下に出てきた。足元は裸足だった。
「僕は新陽大文学部の三回生。小野碧だ。君は?」
「……経済学部の、十束旭陽です」
「十束くん。隣人同士、仲良くしようじゃないか」
小野碧と名乗った男が手を伸ばしてくる。どうやら握手をしろということらしい。こんな変人が同じ大学で、しかも先輩なのかと思いつつ、旭陽はその生白い手を握り返した。仲良くする前に静かにしてくれ、と思いながら。
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