【完結】トワイライト

古都まとい

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1章(2)

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「部活を辞める?」

 旭陽の一言を聞いた水泳部の監督は、驚きで目を見開き、素っ頓狂な声を出した。
 監督が驚くのも無理はない。なにせ、旭陽は今日がはじめての練習日だ。はじめて部活に顔を出し、はじめて先輩たちに挨拶したその足で、監督に「部活を辞める」と宣言した。

「君はたしか……」

 旭陽の顔を見た監督が、記憶をたどるようにくるりと視線を彷徨わせる。

「推薦組だろ? あの道上みちがみ隼人はやとと同郷で、君自身もかなりいい成績を残してきていると聞いている」
「はい。道上とは同じスイミングスクールに通っていました。一度もあいつに勝ったことはありませんが……」

 監督の口から道上隼人の名前が出たことで、旭陽の表情が曇る。できればその名前は、あまり聞きたくないものだ。
 道上とは幼馴染で、幼い頃から同じスイミングスクールに通い、ライバルとして比べられてきた。旭陽が着実に縮めたタイムを、道上は一歩で飛び越えてしまう。スイミングスクールの中でも、彼はずば抜けて天才だった。旭陽はずっと、道上の背中を追いかけてきたのだ。いつか、その背中を一度でも追い越せる日があると信じて。

「まだ本格的な練習もしていないだろう? どうして辞めたいと思ったんだ」

 監督の疑問はもっともだ。旭陽は本当のことを言うべきか、迷った。けれど、監督の顔を見て思い直す。本当のことを言っても、理解してもらえるとは思えない。

「飽きたんです、水泳に。せっかく大学に入ったんだから、もっと別のことをしたくなって」
「別のことって?」
「それは……」

 返答に窮する。本当は水泳を捨ててまでやりたいことなど、旭陽の中にはなかった。ただ、プールから離れたい。もう泳ぎたくない。そう思っているだけだ。

「あのな、十束」

 監督が椅子の上でもぞもぞと姿勢を変える。そばに立つ旭陽を見つめる目には、すこしだけ憐憫が含まれているようだった。

「十束がうちに入学できたのは、泳ぎが上手いからだ。うちの名を背負って、競泳の世界で結果を出してくれると思ったからだ。スポーツ推薦ってのは、そういうことなんだ。わかるよな?」
「……はい」
「辞めたい原因が怪我じゃないなら、もうちょっと考え直してくれ。なぜ自分がここに入学できたのか、忘れるな」

 監督が椅子の向きを変えて、旭陽に背中を向ける。旭陽はしゃきっと伸びたその背中に一礼をして、部屋を出た。


◇ ◇ ◇


 大学からアパートまでの帰り道、旭陽はぐるぐると監督の言葉を頭の中で反芻していた。監督の言うことは正しい。自分は学力で大学に入ったわけではない。純粋に、水泳の腕で入学を許可されたのだ。大学の名前を背負って大会に出て、結果を出すこと。それが旭陽に求められていることなのもわかっている。

「それができないんだよ……」

 込み上げてきたのは、自分に対しての不甲斐なさか、諦観か。どれだけ求められても、自分にはもう周囲の期待に応えられるような技量も、熱量もない。こんなやる気のない奴が部活にいたって、周りの学生の士気を下げるだけだろう。だからいっそのこと、部活を辞めてしまおうと思ったのだ。
 自分はもう、競泳の世界では生きていけない。ここが、競技人生の終着点だったのだと思って。

「……は?」

 アパートの階段を三階分登って、旭陽は目に飛び込んできた光景に、一瞬思考を停止させられた。
 自分の部屋の前で、誰かが仰向けで大の字になって倒れているのである。
 旭陽はそろそろと廊下を進むと、そっと倒れている顔を覗き込んだ。黒縁眼鏡に、ボサボサの黒髪。この前見たばかりの首元が伸び切ったTシャツ。そうだ、隣室に住むあの変な男だ。

「あのー……」

 旭陽はためらいながらも、その肩に触れ、揺さぶった。薄い胸が規則正しく上下しているところを見るに、死んでいるわけではなさそうだ。寝ているだけなのか?
 隣人は旭陽に肩を揺すられ、「うーん……」とわずかな呻きを漏らして寝返りを打った。なぜ、こんなところで寝ているのだろうか。興味はあるが、彼が起きて避けてくれない限り、旭陽は自分の部屋に入ることができない。隣人の身体を踏み越えることにはなんの抵抗もないが、寝ている場所がドアと近すぎて、たとえ隣人を踏み越えたとしてもドアが開きそうにないのだ。

「ちょっと、起きてくださいよ。ここ、あんたの布団じゃないから」
「ん……?」

 何度か呼びかけて、ようやく男は目を覚ました。寝起きのぼんやりとした表情で、旭陽のことを見上げている。

「ああ……なんだ、君か」
「なんだじゃないですよ。俺ん家の前で寝ないでください」

 隣人の男――小野碧が、大きく伸びをして上半身を起こす。ボサボサの頭を両手でかき回すものだから、髪の毛がさらに荒れてまるで鳥の巣のような様相になる。

「なんでこんなところで寝てるんすか」
「気になるかい?」
「気になるってか、純粋に邪魔だったんで」
「そうかそうか、これは失敬」

 碧が立ち上がったことで、旭陽はようやく自室の玄関ドアに鍵を差し込んだ。今頃、同期たちは練習をしているのだろうか。浮かんできた想像を、頭を振って追い出す。

「十束くん」

 碧に呼びかけられ、旭陽は鍵を差し込んだまま隣を見る。

「君は見るからに暇そうだ。すこし、話をしようじゃないか」
「なんですか、急に」

 碧が旭陽に向かって手招きをする。
 旭陽は渋々、ドアから鍵を引き抜き、碧に近づいた。

「これはとある、小説家の話だ――」
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