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1章(5)
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パッとしない毎日だった。執筆活動も、大学生活も、平々凡々。これといって抜きん出ている才能があるわけでもない。刺激的な日々を運んでくるような友人もいない。奨学金と印税を食いつぶすだけの生活。
碧はこのアパートを気に入ってもいないが、引っ越しを決めるほど嫌というわけでもなかった。なにより隣が空室なのがありがたい。しばしば執筆に行き詰まっては深夜に咆哮を上げる生活を送っていても、誰も咎める人がいないのだから。
その日も碧は、書きかけの原稿を放り投げて枕をひとつ殴った。凡人の自分がいくら時間をかけてもいいものは書けやしないとわかっているのに、毎晩のように夜ふかしをしては出来のよくないものと向き合うはめになる。
時刻は午前二時を回っていた。
「こんなものを書いたって……!」
叫び、印刷した原稿を力任せに引き裂く。自分はいつもこうだ。どんなに頑張っても、上には手が届かない。自分に才能がないのはわかりきっている。それでも上を見て、手を伸ばして、天才に食らいつこうともがいてきたのに。
「僕のなにがだめだって言うんだよ!!」
何度繰り返したか、わからない問い。わからない、なにも。自分のどこがだめなのか、なにが引っかかっているのか。担当編集に送ったメールは一ヶ月以上、無視されている。いつまで経っても二作目の話は来ない。あいつはもう、ずっと先に行っているっていうのに――。
その時、部屋のインターホンが鳴った。手からバラバラと引き裂かれた原稿が落ちる。聞き間違いか? 今は真夜中だ。こんな時間に訪問販売の営業でも、宗教勧誘でもないだろうに。
誰が来ようと、どうでもいい。もし強盗かなにかだったとしたらドアを開けた瞬間に刺されるかもしれないが、それでもよかった。小野碧の生涯は、そんなものだったということだ。
碧は鍵を回し、ドアロックを外して玄関ドアを開けた。
「どちらさま?」
隙間から相手を窺う。相手の顔がすこし上にあって、見上げる形になる。見慣れない顔だ。というか、交友関係が狭い碧にとって見慣れた顔というのは同期の赤崎くらいしかいない。
碧と同じ歳か、すこし若く見える青年は寝間着にサンダルの格好で廊下に立っていた。不機嫌が顔に貼りつけてある。青年は碧の顔を見ると、あからさまに嫌そうな顔をした。
「俺、隣に住んでる者ですけど」
「隣? 隣は空き部屋じゃなかったのか?」
「二週間前に引っ越してきたんです」
青年は碧の顔をじっと見た。まるで未知の生き物を見るような目で。それから大きな手のひらで髪の毛をくしゃくしゃとかき回す。
「あの、夜になったら叫ぶのやめてもらえませんか。うるさいんで」
ああ、なるほど。苦情を言いに来たのか。
「これは失礼」
ひとまず謝っておこうと碧が口にする。青年の顔が、また見たくないものを見るように歪む。
「隣はてっきり、空き部屋だと思っていたものだから」
「仮に空き部屋だったとしても、夜中にアパートで叫ぶのは非常識でしょ」
青年の主張はもっともであった。非常識かどうかを問われたら、非常識かもしれない。しかし。
「他人の常識が僕にとって非常識であるように、僕の常識が他人にとっての非常識になりうることもあるという――」
「はあ?」
青年は明らかに呆れていた。そして碧の話についていけないというように、首を振った。その顔をじっと見る。自分は、どこかで彼に会ったことがあるはずだった。
「ところで君」
さっさと部屋に戻ろうとする青年に声をかける。そのまま無視されるかと思ったが、意外にも青年は振り返った。面倒ごとは避けたいと顔に書いてあるが、無視して立ち去るよりも話を聞いたほうが早いと思ったのかもしれない。
「新陽大の一年生だろう?」
「そうですけど……それがなにか」
ここらのアパートには新陽大の学生が多く住んでいる。若者を見たら、八割は新陽大の学生だと思っていいくらいだ。
碧はなにかに突き動かされるように、廊下に出た。裸足のまま出てしまったせいで、足裏に砂利とひんやりとしたコンクリートの感触がある。
「僕は新陽大文学部の三年生。小野碧だ。君は?」
「……経済学部の、十束旭陽です」
十束旭陽。やはり自分は、彼のことを知っている。けれど、表に出すべきではない。今は、まだ。
「十束くん。隣人同士、仲良くしようじゃないか」
碧が伸ばした手を、旭陽がおずおずと握り返してきた。碧の細くてなよっこい手とはちがい、がっちりとした男の手だった。
真夜中の邂逅を終え、自室に戻る。足の裏についた砂利を、玄関で軽く払った。旭陽はもう、自分の部屋に戻ったのだろうか。きっと碧を見て、変な奴だと思っただろう。
碧はもう叫ばなかった。引き裂いた原稿をかき集め、ゴミ袋に突っ込む。インスタントのコーヒーを淹れて、パソコンに向き合った。書かなくてはいけない。自分は、書くことから逃げられない。逃げることは許されない。
「面白くなりそうだ……」
キーボードの上に手を置いたまま、碧は呟いた。突如、隣人として碧の生活に舞い降りてきた十束旭陽。
彼はもう一度、碧の平凡で、なんの取り柄もない、鬱々とした人生を変えてくれるだろう。
碧はこのアパートを気に入ってもいないが、引っ越しを決めるほど嫌というわけでもなかった。なにより隣が空室なのがありがたい。しばしば執筆に行き詰まっては深夜に咆哮を上げる生活を送っていても、誰も咎める人がいないのだから。
その日も碧は、書きかけの原稿を放り投げて枕をひとつ殴った。凡人の自分がいくら時間をかけてもいいものは書けやしないとわかっているのに、毎晩のように夜ふかしをしては出来のよくないものと向き合うはめになる。
時刻は午前二時を回っていた。
「こんなものを書いたって……!」
叫び、印刷した原稿を力任せに引き裂く。自分はいつもこうだ。どんなに頑張っても、上には手が届かない。自分に才能がないのはわかりきっている。それでも上を見て、手を伸ばして、天才に食らいつこうともがいてきたのに。
「僕のなにがだめだって言うんだよ!!」
何度繰り返したか、わからない問い。わからない、なにも。自分のどこがだめなのか、なにが引っかかっているのか。担当編集に送ったメールは一ヶ月以上、無視されている。いつまで経っても二作目の話は来ない。あいつはもう、ずっと先に行っているっていうのに――。
その時、部屋のインターホンが鳴った。手からバラバラと引き裂かれた原稿が落ちる。聞き間違いか? 今は真夜中だ。こんな時間に訪問販売の営業でも、宗教勧誘でもないだろうに。
誰が来ようと、どうでもいい。もし強盗かなにかだったとしたらドアを開けた瞬間に刺されるかもしれないが、それでもよかった。小野碧の生涯は、そんなものだったということだ。
碧は鍵を回し、ドアロックを外して玄関ドアを開けた。
「どちらさま?」
隙間から相手を窺う。相手の顔がすこし上にあって、見上げる形になる。見慣れない顔だ。というか、交友関係が狭い碧にとって見慣れた顔というのは同期の赤崎くらいしかいない。
碧と同じ歳か、すこし若く見える青年は寝間着にサンダルの格好で廊下に立っていた。不機嫌が顔に貼りつけてある。青年は碧の顔を見ると、あからさまに嫌そうな顔をした。
「俺、隣に住んでる者ですけど」
「隣? 隣は空き部屋じゃなかったのか?」
「二週間前に引っ越してきたんです」
青年は碧の顔をじっと見た。まるで未知の生き物を見るような目で。それから大きな手のひらで髪の毛をくしゃくしゃとかき回す。
「あの、夜になったら叫ぶのやめてもらえませんか。うるさいんで」
ああ、なるほど。苦情を言いに来たのか。
「これは失礼」
ひとまず謝っておこうと碧が口にする。青年の顔が、また見たくないものを見るように歪む。
「隣はてっきり、空き部屋だと思っていたものだから」
「仮に空き部屋だったとしても、夜中にアパートで叫ぶのは非常識でしょ」
青年の主張はもっともであった。非常識かどうかを問われたら、非常識かもしれない。しかし。
「他人の常識が僕にとって非常識であるように、僕の常識が他人にとっての非常識になりうることもあるという――」
「はあ?」
青年は明らかに呆れていた。そして碧の話についていけないというように、首を振った。その顔をじっと見る。自分は、どこかで彼に会ったことがあるはずだった。
「ところで君」
さっさと部屋に戻ろうとする青年に声をかける。そのまま無視されるかと思ったが、意外にも青年は振り返った。面倒ごとは避けたいと顔に書いてあるが、無視して立ち去るよりも話を聞いたほうが早いと思ったのかもしれない。
「新陽大の一年生だろう?」
「そうですけど……それがなにか」
ここらのアパートには新陽大の学生が多く住んでいる。若者を見たら、八割は新陽大の学生だと思っていいくらいだ。
碧はなにかに突き動かされるように、廊下に出た。裸足のまま出てしまったせいで、足裏に砂利とひんやりとしたコンクリートの感触がある。
「僕は新陽大文学部の三年生。小野碧だ。君は?」
「……経済学部の、十束旭陽です」
十束旭陽。やはり自分は、彼のことを知っている。けれど、表に出すべきではない。今は、まだ。
「十束くん。隣人同士、仲良くしようじゃないか」
碧が伸ばした手を、旭陽がおずおずと握り返してきた。碧の細くてなよっこい手とはちがい、がっちりとした男の手だった。
真夜中の邂逅を終え、自室に戻る。足の裏についた砂利を、玄関で軽く払った。旭陽はもう、自分の部屋に戻ったのだろうか。きっと碧を見て、変な奴だと思っただろう。
碧はもう叫ばなかった。引き裂いた原稿をかき集め、ゴミ袋に突っ込む。インスタントのコーヒーを淹れて、パソコンに向き合った。書かなくてはいけない。自分は、書くことから逃げられない。逃げることは許されない。
「面白くなりそうだ……」
キーボードの上に手を置いたまま、碧は呟いた。突如、隣人として碧の生活に舞い降りてきた十束旭陽。
彼はもう一度、碧の平凡で、なんの取り柄もない、鬱々とした人生を変えてくれるだろう。
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