【完結】トワイライト

古都まとい

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1章(4)

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「なんで俺にそんな話をしたんですか」

 廊下に突っ立って、長々と隣人の身の上話を聞かされた旭陽は、考える間もなくそう言った。彼は同情してほしいのだろうか。そのために旭陽を引き止め、不運な小説家の話をしたのだろうか。
 碧は先ほどより、多少落ち着きを払って旭陽の顔を見上げた。

「君が、なにかを諦めようとしているふうに見えたから」
「小野さんには……関係ないでしょ」

 碧の視線に耐えきれず、目を逸らす。眼鏡の奥で光る彼の目は、心の内まで見透かすような鋭さがある。

「もったいないとは思わないのか? 才能を持ちながら、それを見殺しにするような――」
「あんたになにがわかるって言うんだよ!」

 旭陽が掴みかかりそうになった手を、碧は最小限の動きでするりと避けた。自分を見る目に憐憫が含まれているような気がして、ますます苛立ちが大きくなる。

「どいつもこいつもまだできるだの、いつか勝てるだの、適当なこと言いやがって! 子どもの頃からあいつと比べられてきた俺の気持ちをわかったようなふりして……! もううんざりなんだよ! タイム縮めるためだけに泳ぐのも、天才と比べられんのも!」

 旭陽の叫びが、コンクリートに反射して廊下に響き渡った。肩で大きく息をする。見下ろした碧の顔は、驚くほどに変わらなかった。ただまっすぐに旭陽の顔を見つめている。

「満足かい? 言いたいことを好き勝手に言える瞬間は、実はそうそう訪れるものでもない」

 沸騰していた頭の芯が急速に冷えていく感覚があった。自分はこんなところで、隣人に苛立ちをぶつけるような人間だったのか。大学生にもなって、大人げないことをしたという後悔だけが旭陽の心に残った。
 握った拳が震える。壁のひとつでも殴りたい気分だったが、物に当たるのも振る舞いとして間違っている気がして、旭陽は握った拳をそのまま下ろした。
 重心を片脚にずらした碧が、壁に寄りかかる。

「あんたは、嫌じゃないんすか。中学生で本出した奴と比べられて」
「嫌だよ」

 碧がきっぱりと言い切る。

「嫌に決まっているじゃないか。だから僕は書き続けている。いつか必ず、夢見しずくを超えるためにね」

 二人の間に、ため息が落ちた。旭陽はすっかり身体からすべての気力を失いつつある。

「わかんねぇよ、あんたの言ってること……」

 なにがそこまで彼を掻き立てるのだろうか。自分がもし碧の立場だったら、とっくに作家なんてものは辞めている。天才と比べられ続けるほど、つらいものはない。そのことを旭陽は身を持って知っている。
 だからこそ、碧のやっていることは狂気だと思った。目の前の男は、二年間一度も芽が出なかったというのにそれでも書き続けているというのだから。

「勝負をしよう、十束くん」

 ふいに、碧が言った。まるで散歩にでも誘うかのような気軽さで。

「僕が二作目を出すのが先か、君が競泳の大会で入賞するのが先か」

 薄暗い廊下で、碧は左の肩を壁に預け、旭陽を見ている。

「俺がその勝負に乗るメリット、なにもないでしょ」
「そうだな。別に嫌なら断ってくれて構わない。君のプライドが、それを許すならの話だが」

 今度こそ、旭陽は碧を睨んだ。碧はいちいち旭陽の神経を逆撫でするようなことを言ってくる。まるで旭陽の性格を把握しているみたいに、的確に。

「どうする? 降りるなら今のうちだ。君がこの勝負に乗っても乗らなくても、僕はいずれ二作目を出すけれどね」
「……やってやるよ」

 碧の瞳に、苛立ちを抑えたような自分の顔が映っている。碧が満足げに、にやりと笑った。

「そうこなくっちゃ。負けず嫌いの、十束くん」

 この隣人といると、ペースが狂う。旭陽は碧を一瞥し、今度こそ自分の部屋に戻った。万が一にも追いかけて来られないよう、しっかり鍵とチェーンロックをかけた。
 自分のモチベーションが限りなくゼロに近いという点を除けば、碧の出した勝利条件はさほど難しいものではなかった。道上隼人に勝利すること、が条件なら速攻で断っていただろう。しかし、碧の出した条件は大会で入賞することだ。一位じゃなくていい。表彰台に登れさえすればいいのだから。
 大学入学後、はじめての大会は六月に行われる。あと二ヶ月。あと二ヶ月我慢すればいい。六月の大会に出て、さっさと入賞して部活を辞める。それがもっともスマートで、どこにも後腐れを残さないやり方のはずだ。

 旭陽は部屋の隅に備え付けられたクローゼットを開けた。もう二度と、手に取ることはないと思っていた競泳用の水着を引っ張り出す。部活を辞めるつもりなら実家に置いてきてもよかったのだが、そうしなかったのはたんにそこまでの決心がつかなかったからだった。
 二ヶ月だけとはいえ、まさかまたプールに戻ることになるとは。
 六月の大会は、そこまでハイレベルな戦いになるとは予想していない。自分で言うのもあれだが、成績はそこそこいいほうだ。自己ベストに近い数字を出せれば、入賞は容易い。
 隣の部屋から、バタバタと物音が聞こえた。
 負ける気はない。相手が二年間もくすぶっている作家なら、なおさらのこと。
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