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2章(3)
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一ヶ月前――。
高校の卒業式を終えてすぐの三月中旬。大きな大会があった。四月から通う新陽大水泳部の監督やコーチも大会を見に来ると聞いて、旭陽はいつも以上に気合いが入っていた。
それだけではない。今回ははじめて、表彰台の一番高いところに登れるかもしれないのだ。
「道上隼人って、結局出んの?」
「さすがに無理だろ。怪我したの、年明けだろ?」
更衣室にいる時、たびたびそんな会話が聞こえてきた。
水泳は怪我がすくないスポーツとは言われるが、まったく怪我をしないわけではない。旭陽と同じクラブに通う道上隼人は一月に肩を怪我して、ここ最近はずっと練習を休んでいた。
原因は練習のしすぎだ。道上はクロールを得意としているが、クロールは肩に負担がかかる。旭陽も何度か、肩を痛めたことがある。その都度、練習で泳ぐ距離を減らすなどの対策を取ってなんとか切り抜けてきたが、道上は肩の痛みを無視するようにさらに追い込みの練習をしていた。そんなことをして、怪我をしないわけがない。
大会に出るたびに道上の一位の座を奪われている旭陽だが、今回ばかりは僥倖だ。
天才の道上隼人と、努力の十束旭陽。自分たちは常にそんなふうに比べられてきた。そして努力型の人間は決して天才には勝てないというのを見せつけるように、旭陽は一度も道上に勝ったことがなかった。水泳をはじめたのは、旭陽のほうが早かったというのに、だ。
「あれ……?」
更衣室内がにわかにざわついた。着替えを終えた旭陽も、周りの雰囲気に押されて入口のほうへ視線を巡らせる。
室内の視線を一身に集めてロッカーの間を歩いてきたのは、道上だった。ここにいるはずのない人の登場に、囁きだった声がどんどんを大きく、ざわざわとしてくる。
道上は、旭陽の隣に空いているロッカーを見つけ、足を止めた。左肩にかけていたリュックを下ろし、ロッカーを開ける。
「なんで、いるんだよ」
旭陽はなんとか、それだけを絞り出した。Tシャツを脱いだ道上が、ちらりと旭陽のほうを見る。右肩から肩甲骨にかけて、何枚も湿布が貼られている。
道上は出場しないんじゃなかったのか? そんな怪我で、泳ぐつもりなのか? 旭陽の頭の中を色んな思いがぐるぐると巡る。しかし、そのどれもが言葉となっては出てこない。
旭陽が黙っている間に、道上は肩に貼られた湿布をすべて剥がした。周りの雰囲気はまるで意に介さず、淡々と着替えを済ませていく。
「俺は出ないなんて、言ってない」
更衣室を後にする前に、たった一言。道上はそう零した。
◇ ◇ ◇
水の抵抗を受けながら、めいいっぱい手を伸ばす。
指先が、プールの壁に触れた。
最後の力を振り絞り、ぐっと身体を引き寄せる。
水中から頭を上げると、一気に会場中の音が波となって押し寄せてきた。力任せにゴーグルをずり上げ、水から上がるよりも早く電光掲示板を確認する。自分の体感では、なかなかいい線をいっていたと思う。すくなくとも怪我を押して出場した道上に負けた気はしなかった。
「……っ」
二秒。それが、道上との差だった。レーンが離れていたから気づかなかったが、道上は旭陽よりも、二秒も早く泳ぎきっていたのだ。怪我は完治していないというのに。
怠い身体を持ち上げ、水から上がる。
一位は道上、二位は旭陽だった。
表彰を終え、更衣室に戻っても悔しさすら浮かんでこなかった。普段なら悔しい、次こそは絶対に勝ってやると息を巻くのに、今回は心そのものがどこかへ行ってしまったかのようだった。
唇を噛む。更衣室で並んで着替えている時も、道上はなにも言わなかった。表彰の時も喜ぶことはせず、まるで自分が一位になることが当たり前だというように平然としていた。
「手負いの奴になら、勝てると思ったか」
道上の問いに、ふらふらと顔を上げる。
「俺は負けない」
バタン、とロッカーが閉まる音が頭の中で反響する。まだ荷物をまとめきっていない旭陽を置いて、道上が背中を向けて歩き出す。
「天才に、負けは認められない」
家に帰ってすぐ、旭陽はもらったメダルを捨てた。水着を洗濯に出すのも忘れ、大会の結果を尋ねてくる母親をかわし、自室に引っ込む。
二位。銀色。二位。銀色。そこに並ぶ表彰状にもメダルにも、一位も金色もない。それらはすべて道上の手に収まっている。
手を抜いたつもりはなかった。旭陽は今日も、いつもと同じように全力で泳いだ。ほぼ自己ベストを叩き出した。負けたくない。その一心で。
道上は天才だった。怪我をしていても、彼は負けなかった。
大学の入学式は、二週間後に迫っている。インカレの優勝校へ推薦が決まった道上には及ばなかったが、自分も水泳の強豪校へ行く予定だ。大学へ行って、がむしゃらに練習して、自分の競技人生すべてをかけて道上を超える。
思い描いていた理想は今日、音を立てて瓦解した。旭陽は、自分の心がバラバラに砕ける音を聞いた。
もう泳げない。泳ぎたくない。どんなに頑張っても、肺の中の空気をすべて吐き出しても、天才には勝てないのだから。
高校の卒業式を終えてすぐの三月中旬。大きな大会があった。四月から通う新陽大水泳部の監督やコーチも大会を見に来ると聞いて、旭陽はいつも以上に気合いが入っていた。
それだけではない。今回ははじめて、表彰台の一番高いところに登れるかもしれないのだ。
「道上隼人って、結局出んの?」
「さすがに無理だろ。怪我したの、年明けだろ?」
更衣室にいる時、たびたびそんな会話が聞こえてきた。
水泳は怪我がすくないスポーツとは言われるが、まったく怪我をしないわけではない。旭陽と同じクラブに通う道上隼人は一月に肩を怪我して、ここ最近はずっと練習を休んでいた。
原因は練習のしすぎだ。道上はクロールを得意としているが、クロールは肩に負担がかかる。旭陽も何度か、肩を痛めたことがある。その都度、練習で泳ぐ距離を減らすなどの対策を取ってなんとか切り抜けてきたが、道上は肩の痛みを無視するようにさらに追い込みの練習をしていた。そんなことをして、怪我をしないわけがない。
大会に出るたびに道上の一位の座を奪われている旭陽だが、今回ばかりは僥倖だ。
天才の道上隼人と、努力の十束旭陽。自分たちは常にそんなふうに比べられてきた。そして努力型の人間は決して天才には勝てないというのを見せつけるように、旭陽は一度も道上に勝ったことがなかった。水泳をはじめたのは、旭陽のほうが早かったというのに、だ。
「あれ……?」
更衣室内がにわかにざわついた。着替えを終えた旭陽も、周りの雰囲気に押されて入口のほうへ視線を巡らせる。
室内の視線を一身に集めてロッカーの間を歩いてきたのは、道上だった。ここにいるはずのない人の登場に、囁きだった声がどんどんを大きく、ざわざわとしてくる。
道上は、旭陽の隣に空いているロッカーを見つけ、足を止めた。左肩にかけていたリュックを下ろし、ロッカーを開ける。
「なんで、いるんだよ」
旭陽はなんとか、それだけを絞り出した。Tシャツを脱いだ道上が、ちらりと旭陽のほうを見る。右肩から肩甲骨にかけて、何枚も湿布が貼られている。
道上は出場しないんじゃなかったのか? そんな怪我で、泳ぐつもりなのか? 旭陽の頭の中を色んな思いがぐるぐると巡る。しかし、そのどれもが言葉となっては出てこない。
旭陽が黙っている間に、道上は肩に貼られた湿布をすべて剥がした。周りの雰囲気はまるで意に介さず、淡々と着替えを済ませていく。
「俺は出ないなんて、言ってない」
更衣室を後にする前に、たった一言。道上はそう零した。
◇ ◇ ◇
水の抵抗を受けながら、めいいっぱい手を伸ばす。
指先が、プールの壁に触れた。
最後の力を振り絞り、ぐっと身体を引き寄せる。
水中から頭を上げると、一気に会場中の音が波となって押し寄せてきた。力任せにゴーグルをずり上げ、水から上がるよりも早く電光掲示板を確認する。自分の体感では、なかなかいい線をいっていたと思う。すくなくとも怪我を押して出場した道上に負けた気はしなかった。
「……っ」
二秒。それが、道上との差だった。レーンが離れていたから気づかなかったが、道上は旭陽よりも、二秒も早く泳ぎきっていたのだ。怪我は完治していないというのに。
怠い身体を持ち上げ、水から上がる。
一位は道上、二位は旭陽だった。
表彰を終え、更衣室に戻っても悔しさすら浮かんでこなかった。普段なら悔しい、次こそは絶対に勝ってやると息を巻くのに、今回は心そのものがどこかへ行ってしまったかのようだった。
唇を噛む。更衣室で並んで着替えている時も、道上はなにも言わなかった。表彰の時も喜ぶことはせず、まるで自分が一位になることが当たり前だというように平然としていた。
「手負いの奴になら、勝てると思ったか」
道上の問いに、ふらふらと顔を上げる。
「俺は負けない」
バタン、とロッカーが閉まる音が頭の中で反響する。まだ荷物をまとめきっていない旭陽を置いて、道上が背中を向けて歩き出す。
「天才に、負けは認められない」
家に帰ってすぐ、旭陽はもらったメダルを捨てた。水着を洗濯に出すのも忘れ、大会の結果を尋ねてくる母親をかわし、自室に引っ込む。
二位。銀色。二位。銀色。そこに並ぶ表彰状にもメダルにも、一位も金色もない。それらはすべて道上の手に収まっている。
手を抜いたつもりはなかった。旭陽は今日も、いつもと同じように全力で泳いだ。ほぼ自己ベストを叩き出した。負けたくない。その一心で。
道上は天才だった。怪我をしていても、彼は負けなかった。
大学の入学式は、二週間後に迫っている。インカレの優勝校へ推薦が決まった道上には及ばなかったが、自分も水泳の強豪校へ行く予定だ。大学へ行って、がむしゃらに練習して、自分の競技人生すべてをかけて道上を超える。
思い描いていた理想は今日、音を立てて瓦解した。旭陽は、自分の心がバラバラに砕ける音を聞いた。
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