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3章(2)
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部屋に戻って濡れた服を着替えた旭陽は、玄関ドアの前に未だ隣人が居座っている気配を察知し、渋々廊下に出た。碧は着替えの済んだ旭陽を一瞥すると、手に持っていたバスタオルを差し出した。断るのも面倒で、タオルを受け取り、ガシガシと濡れた髪を拭く。
「温かいお茶でも出そう」
碧はそう言って、旭陽に背を向けた。当然、旭陽が自分についてくるものと思って疑っていない行動だった。
隣人がすこし偏屈な人間であるということを、旭陽は引っ越してからわずか二週間で思い知らされ、そこに自分の意思が介在できないことも心得ている。
隣室の玄関ドアを開ける碧の後ろについていく。お茶を一杯ごちそうになれば、碧の気も済むだろうか。さっさと終わらせて、荷造りに戻ろう。不動産屋へ解約の連絡も入れなければいけない。
「小野さん。俺、大学を辞めるつもりで――」
碧の後を追ってリビングへ入ろうとして、足が止まった。部屋の間取りは自分の部屋と変わらない。至って普通のワンルームだ。しかし、部屋を構成するものがまるでちがった。
そこかしこに本の山が築かれ、デスクトップのパソコンが置かれた机や、おそらく敷きっぱなしであろう布団の周りにはコピー用紙が散乱している。かろうじて部屋の真ん中に一本道のように足の踏み場があるが、それ以外は床のほとんどすべてを本とコピー用紙が埋め尽くしている。
「そんなところに突っ立っていないで、好きなところに座ってくれて構わないよ」
座る場所もないように思えるが、おずおずと足を踏み出す。爪先に触れたコピー用紙を一枚拾い上げると、そこにはびっしりと文字が並んでいた。どうやら小説の一部を印刷したものらしい。
キッチンから電気ポットのスイッチを入れた、カチリという音が響いてくる。旭陽はもう一枚、紙を拾い上げた。これも原稿の一部だが、先に拾ったものとは話がつながっていない。
「持って帰りたかったら、好きなだけ持っていくといい。どれも形にならなかった屑さ」
いつの間にか旭陽の後ろに立っていた碧が言った。部屋を見回す。
「ここにあるの全部、書いたけど捨てるものってことすか……?」
「そうだね。僕の場合は、捨てるもののほうが多いから」
どれも形にならなかったもの。碧の言葉が、深く心に食い込んでくる。
競泳は、練習すればタイムという結果が伴う。大会で入賞できなくても、自己ベストを縮められたら、それは成功だ。どんなに泳ぐのが下手でも、泳ぐ限り必ず結果を得られる。
一方で碧は、これだけ書いても結果を得られていない。ここにあるものはすべて、日の目を見なかったもの。誰にも知られることなく、いずれ葬り去られるもの。書いたものが形にならなかった時、どんな気分になるのだろう。
「……虚しく、ないんですか」
「虚しい?」
「だって――」
床に散らばった紙を一枚ずつ拾い集める。すこしも拾わないうちに、本一冊分にはなりそうなほどの厚みができる。
「これだけ書いて、なにも残らなかったってことじゃないすか」
パチッという、電気ケトルのスイッチが切れる音がした。碧がくるりと振り向き、キッチンに向かう。作り付けの戸棚からマグカップを二つ取り出し、紅茶のティーバッグを入れてから均等にお湯を注ぐ。
「たしかに、形としてはなにも残らなかっただろう」
両手にひとつずつマグカップを持った碧が、旭陽の前に戻ってくる。片方を差し出され、旭陽は空いた手でマグカップを受け取った。
「しかしすべてが無駄かと問われたら、答えはノーだ。形にならなくても、書き続けることに意味があると僕は思っている」
碧の言葉は、昔所属していたクラブのコーチの言葉を彷彿とさせた。
――勝てなくても、泳ぎ続けることに意味がある。
コーチはことあるごとに、繰り返しそう説いた。過去の自分はコーチの言葉を信じ、練習を続け、道上に挑み続けた。
すでにあの頃の気力は失われている。旭陽があの日失ったものを、碧は未だ心の内に持ち続けているのだ。
「なんでそんなに、頑張れるんだよ……」
旭陽は原稿の束をそっと床に戻すと、わずかにむき出しになっているフローリング部分に腰を下ろした。マグカップから立ち上る湯気から、ほのかに花のような紅茶の香りがする。
うつむいていたが、隣に人の体温を感じた。碧がすぐそばに座り込んで、ベランダに面した大きな窓を見つめていた。窓の外には旭陽の部屋から見るのとほとんど変わらない景色が広がっている。ちょうど下校の時刻なのか、向かいの中学校からパラパラと生徒が吐き出されているところだった。
「僕は、書くことしかできないからだ」
碧は窓の外を見つめたまま、ぽつりと言った。
「デビュー作が売れなかった後……もう止めようと思った。もう二度と、この人生で筆を握るものかと思った」
碧の淹れてくれた紅茶は、渋かった。けれど、旭陽はそれを小さく啜って話の続きを待つ。
「でも、止められなかったんだ。僕は書くことを止められない。魚がどんなに願っても陸で生活できないように、僕もなにも書かずに生きていくことはできない」
そっと盗み見た碧の横顔は、覚悟の決まった人の顔だった。もう後戻りはできないという、気迫にすら満ちていた。マグカップから口を離した碧が、ちらりと旭陽を見る。
「君が大学を辞めるというのなら、僕に止める権利はない。好きにするといい」
しかし、と碧は続ける。強い意思が宿った瞳は、いっそ狂気ともいえるものだった。
「君が大学も、部活も辞めた時――この勝負の勝者は僕だ。僕は必ず、二作目を出す」
「温かいお茶でも出そう」
碧はそう言って、旭陽に背を向けた。当然、旭陽が自分についてくるものと思って疑っていない行動だった。
隣人がすこし偏屈な人間であるということを、旭陽は引っ越してからわずか二週間で思い知らされ、そこに自分の意思が介在できないことも心得ている。
隣室の玄関ドアを開ける碧の後ろについていく。お茶を一杯ごちそうになれば、碧の気も済むだろうか。さっさと終わらせて、荷造りに戻ろう。不動産屋へ解約の連絡も入れなければいけない。
「小野さん。俺、大学を辞めるつもりで――」
碧の後を追ってリビングへ入ろうとして、足が止まった。部屋の間取りは自分の部屋と変わらない。至って普通のワンルームだ。しかし、部屋を構成するものがまるでちがった。
そこかしこに本の山が築かれ、デスクトップのパソコンが置かれた机や、おそらく敷きっぱなしであろう布団の周りにはコピー用紙が散乱している。かろうじて部屋の真ん中に一本道のように足の踏み場があるが、それ以外は床のほとんどすべてを本とコピー用紙が埋め尽くしている。
「そんなところに突っ立っていないで、好きなところに座ってくれて構わないよ」
座る場所もないように思えるが、おずおずと足を踏み出す。爪先に触れたコピー用紙を一枚拾い上げると、そこにはびっしりと文字が並んでいた。どうやら小説の一部を印刷したものらしい。
キッチンから電気ポットのスイッチを入れた、カチリという音が響いてくる。旭陽はもう一枚、紙を拾い上げた。これも原稿の一部だが、先に拾ったものとは話がつながっていない。
「持って帰りたかったら、好きなだけ持っていくといい。どれも形にならなかった屑さ」
いつの間にか旭陽の後ろに立っていた碧が言った。部屋を見回す。
「ここにあるの全部、書いたけど捨てるものってことすか……?」
「そうだね。僕の場合は、捨てるもののほうが多いから」
どれも形にならなかったもの。碧の言葉が、深く心に食い込んでくる。
競泳は、練習すればタイムという結果が伴う。大会で入賞できなくても、自己ベストを縮められたら、それは成功だ。どんなに泳ぐのが下手でも、泳ぐ限り必ず結果を得られる。
一方で碧は、これだけ書いても結果を得られていない。ここにあるものはすべて、日の目を見なかったもの。誰にも知られることなく、いずれ葬り去られるもの。書いたものが形にならなかった時、どんな気分になるのだろう。
「……虚しく、ないんですか」
「虚しい?」
「だって――」
床に散らばった紙を一枚ずつ拾い集める。すこしも拾わないうちに、本一冊分にはなりそうなほどの厚みができる。
「これだけ書いて、なにも残らなかったってことじゃないすか」
パチッという、電気ケトルのスイッチが切れる音がした。碧がくるりと振り向き、キッチンに向かう。作り付けの戸棚からマグカップを二つ取り出し、紅茶のティーバッグを入れてから均等にお湯を注ぐ。
「たしかに、形としてはなにも残らなかっただろう」
両手にひとつずつマグカップを持った碧が、旭陽の前に戻ってくる。片方を差し出され、旭陽は空いた手でマグカップを受け取った。
「しかしすべてが無駄かと問われたら、答えはノーだ。形にならなくても、書き続けることに意味があると僕は思っている」
碧の言葉は、昔所属していたクラブのコーチの言葉を彷彿とさせた。
――勝てなくても、泳ぎ続けることに意味がある。
コーチはことあるごとに、繰り返しそう説いた。過去の自分はコーチの言葉を信じ、練習を続け、道上に挑み続けた。
すでにあの頃の気力は失われている。旭陽があの日失ったものを、碧は未だ心の内に持ち続けているのだ。
「なんでそんなに、頑張れるんだよ……」
旭陽は原稿の束をそっと床に戻すと、わずかにむき出しになっているフローリング部分に腰を下ろした。マグカップから立ち上る湯気から、ほのかに花のような紅茶の香りがする。
うつむいていたが、隣に人の体温を感じた。碧がすぐそばに座り込んで、ベランダに面した大きな窓を見つめていた。窓の外には旭陽の部屋から見るのとほとんど変わらない景色が広がっている。ちょうど下校の時刻なのか、向かいの中学校からパラパラと生徒が吐き出されているところだった。
「僕は、書くことしかできないからだ」
碧は窓の外を見つめたまま、ぽつりと言った。
「デビュー作が売れなかった後……もう止めようと思った。もう二度と、この人生で筆を握るものかと思った」
碧の淹れてくれた紅茶は、渋かった。けれど、旭陽はそれを小さく啜って話の続きを待つ。
「でも、止められなかったんだ。僕は書くことを止められない。魚がどんなに願っても陸で生活できないように、僕もなにも書かずに生きていくことはできない」
そっと盗み見た碧の横顔は、覚悟の決まった人の顔だった。もう後戻りはできないという、気迫にすら満ちていた。マグカップから口を離した碧が、ちらりと旭陽を見る。
「君が大学を辞めるというのなら、僕に止める権利はない。好きにするといい」
しかし、と碧は続ける。強い意思が宿った瞳は、いっそ狂気ともいえるものだった。
「君が大学も、部活も辞めた時――この勝負の勝者は僕だ。僕は必ず、二作目を出す」
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