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緋色と灰の物語

8.勇気と蛮勇─Last&Long─

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 多くの存在が自分に応えうるものだと気付いたのは、姉が居なくなってからだ。ただ泣いていられないという環境が一因だったのは確かだが、それでもその心細さと恐怖は確かにモニカの力となった。今のモニカを満たしているのは恐怖では無く、勇気と万能感だ。そよぐ風も咲き誇る薔薇も己が望み「言葉」を傾ければ全てが自分に力を貸してくれる。そんな気がしていた。この全てが指先に踊る。モニカは自分ならこの状況を打開できると確信していた。

「この先だよ」

 モニカは光の指し示す方向をディア達に教える。その先に広がっていたのは立ち入り禁止となっている地下水路だった。堅牢な門の鍵は外され僅かに開いた扉が暗闇へと誘う。それは静寂の中に水の音を育み神話に準える冥界の入り口の様だった。

「誰か下に行ったみたいだね」

 ルクの言葉にディアは頷く。モニカの指し示す先にカリーナはいる。ならこの目先の暗闇の恐怖に立ち竦んでいる場合では無かった。ディアは放逐された棒切れを拾い上げる。それは武器足りえるかは怪しいものだったがそれでもないよりはマシだった。この暗闇の先、荒事になるかは分からないが、それでも心の何処かが教えてくれる。きっと思う様にはいかないだろう。と障害が現れる事を直感的に理解し、武器を取った。それにカニスという人物がカリーナを攫った可能性があるなら猶更だ。ディアは決意を固め、木の棒を強く握った。

「・・・ディア・・・」

 ルクはその様子を見て何処か複雑な面持ちで名前を呟く。一抹の不安が込められたその声はディアの耳に届くことは無く、ディアは門を開けてモニカと共に暗闇の中へと潜ってしまった。ルクの中にはまだ迷いが渦巻いている。それはこの暗闇の中へと潜る恐怖では無く、もっと別の・・・。しかしルクはそれを振り払い、自らもまたその暗闇へと身を滑らせた。今は迷っている時ではない。そんな言葉を己にかけ足を歩ませる。だが一抹の不安はルクの心に張り付いて剝がれてはしなかった。

 水の音が響く。巡る音の中に陰りに蠢く音が混じる。それは水辺に生きる命の鼓動か? それとも脈々と巡る命の源か? 何れにせよこの暗闇が内包しているものは彼等の意に反するものだった。少年少女が抱く生命危機からくる直感は存外、間違っていない様で下った先から漂う臭いは決して良いモノでは無く。何かが腐乱した様なその臭いは僅かなに漂う血の臭いと混ざり合い、死と直結した言葉にし難い恐怖を連想させる。修道院の地下に張り巡らされた水路は下水と腐乱した臭いに満ち溢れていた。

「っ・・・」

 勇ましかったモニカも少し言葉を失い、ルクは当然の様に生え伸びた薔薇の木の根に顔を顰めながらあたりを警戒する様に必死に視線を張り巡らせる。しかしディアは、いつもと変わらない様子で、恐らく生物の死体が発するであろう臭いすら気にした様子を見せないまま照らされた足元に作られた新しい足跡に視線を向けていた。

「見て、埃が掃けてる。この足跡を辿ればカリーナの所へ付くかも」

「う、うん」

 モニカは言葉を詰らせる。その姿勢は心強いと同時に何処かズレを感じるものだった。「ディアはどうして怖くないんだろう」そんな言葉は声になる事無く霧散した。淡く照らされた光を恐れて鼠が走り抜ける。

「・・・足跡が一つしかないね。カリーナよりもずっと大きい」

 ディアは二人の様子を気にする事無く、何処かこの空気感に成れた様子で話しを続ける。その何時もの調子のディアに、調子を合わせそれぞれの意見を述べた。

「でもこの光はこの先を指してるよ」

「間違いないの?」

 ルクの言葉にモニカは静かに頷いた。掲げる様に顔の前で淡く光る髪飾りを眺めながら僅かに照らされた足跡の先を見つめる。この光は確かに姉へと続いているとそれはモニカ自身がそう信じているが故に、その淡い輝きに反して強く確かなものとなって示す彼女だけの指針となっていた。

「うん。さっきまで感じられなかったけど、お姉ちゃんを少しだけ感じるよ。」

 足跡は一つ、でもカリーナの大きさではない。そしてこの先に居るという答え。三人にある共通の経験が一つの答えを導き出す。それはカリーナが攫われたという答えだ。薄々と解っていたはずの答えが、漸くここで確信へと変わった。

「やっぱり、カニスって奴がカリーナを攫ったんだ」

「でもどうして?」

 理由は解らなかった。それにこんな場所に何があるのかも理解できないまま、三人は地下水路を下る。すると何かが耳に触れた。それは音だがけたたましく、不愉快な音。ぶんぶんと耳に劈くのは羽根の音だ。ディアはその存在が何かにすぐ気が付いた。そしてその後に漂う血の臭いは恐らく、辺りを充満する臭いの素だとも。モニカの持つ小さな光がその正体を照らす。それは蠅の群れだった。無数の蠅が何かに集っている。しかしその光を見て洞窟の奥で何かがギラリと光った。その鋭い眼光は獲物を見据えて唾液を滴らせる。それは巨大な鼠の群れだった。犬程はあろうかという巨大な鼠が、今しがた横たわったであろうワニの内臓に牙を立て捕食していたのだ。

「うっ・・・!」

 モニカは堪え切れず口元を覆った。小さな少女には恐ろしすぎるその光景は無理に絶えない物だ。鼠の群れはモニカの僅かな声に気が付き、一斉に首をこちらに捻る。一匹一匹が犬程もある鼠など、ディアは物語の中ですら聞いたことが無かった。そしてその恐ろしさたるやはワニをも喰らうという貪食ぶりだ。鼠達にとってディア達は紛れもなく餌なのだろう。ディアはモニカ達を背の後ろに隠しながらゆっくりと後退しながら、木の棒を持つ手を強く握った。そして嘶いた瞬間、鼠の群れが一斉にディア達に襲い掛かる。

「っ! このっ!」

 ディアは木の棒を飛び掛かって来た鼠に合わせて力強く振り下ろす。めりっと骨を砕く感覚と同時に仕留めたという確かな手応えがあった。しかし鼠は群れだ。野犬の様に素早く左右に躍り出るとディアを歯牙に懸けんとする。ディアは咄嗟にその場から少し下がり木の棒でその爪牙を避けた。

「うっ・・・!く・・・!」

 その攻撃は予想以上に重たく、ディアは実力に対して追いつかない身体は簡単に押し負ける。木の棒が噛み砕かれ態勢を崩した瞬間、四匹目の鼠が不意に飛び出し、ディアに強烈な体当たりを見舞う。

「ゔッ!ぁ゙ッ!」

 ディアはその一撃を避ける事が出来ずに直撃し、吹き飛ばされた。背中を強く打ち付け思わず内臓の中の物を吐き出しながらディアは地面に転がる。しかし鼠達はこの好機を逃さない。一斉にディアに向かって走り出し止めを刺そうとした時だった。

「させないっ!」

 飛び出したのはルクだった。ルクは迷わずにディアに飛び掛かる鼠に飛び付きその場に頭を掴んで地面に叩きつけ抑え込むと、ディアの持っていた折れた木の棒をその目玉に思い切り突き刺す。手を満たす不快な感覚に顔を歪めながらルクは残りの鼠を睨む。

「モニカ! 魔法を!」

 張り裂けんばかりに叫んだ。モニカはその怒気に充てられ一瞬怯むが直ぐに手を前に突き出し目を閉じて必死に魔法を想像する。この場を切り抜けるに最適な存在。この暗闇の中で蠢く者達が恐れるものであり、それは同時に故郷を焼いた猛き紅蓮。想像は纏まり、集束する。耐え難き忌々しい名をモニカは叫ぶ。その瞬間、創造は成された。

「火よ!」

 モニカの指先で炎の渦が逆巻いた。それは小さな火球となり指先から離れると同時に勢いよく打ち出され、鼠の一匹に直撃すると勢いよく爆ぜる。爆炎は鼠の姿も影も攫ってしまうとその存在事跡形もなく消し飛ばす。爆ぜた火の粉を見てモニカはスカートの裾を強く握った。ルクはその様子を見て「・・・ごめん」と独り言ちる。しかしまだ戦いは終わっていない。最後の一匹の鼠が残っていた。その鼠は威嚇する様に歯を鳴らしよそ見をしたルクへと襲い掛かる。

「しまった!」

 しかしその歯牙がルクに届く事無い。起き上がったディアが折れた木の棒を鼠の口に押し込みその喉をズタズタに切り裂いたからだ。「ピギィ」と不細工な断末魔を上げて絶命する鼠がぐったりと倒れ込む。ディアはそれを投げ捨てるとルクとモニカの方へと振り返った。
「危なかった。皆大丈夫?」

「う、うん。大丈夫、ちょっと怖かったけど」

 モニカは自分の手を抑えながら喉を震わせる。彼女は既に自覚していた。それが緊急事態とはいえ、命を奪ったということに。巨大な鼠を前にしてあのワニの様になると思ったからこそ、ルクが叫んだからこそ、動けた気がしていた。だがそれでも奪ったことには変わりは無い。何にも言い難い罪悪感が胸を締め付けていた。

「ごめん、モニカ。君にまで戦わせちゃって」

「ううん、ルクのお陰で、わたし、ディア達を助けられたよ」

 モニカはそういって儚く笑う。ルクは二人の見えない所で握りこぶしを作りながら「そっか」と苦笑いを浮かべた。

「二人とも、ちょっと来て」

 ディアの声が響き、二人はディアの元へと駆け付けた。彼の前には鼠達が喰らっていたであろうワニの死体が転がっている。しかしその眉間にはダガーナイフが突き刺され、このワニが人為的に殺されたことが物語っていた。ディアはそのナイフを引き抜くと血の照り具合を見る。

「そんなに時間たってないかも」

「・・・わかるの?」

「うん。なんとなくね」

 ルクの言葉にディアは何時もの調子で答えてくれる。しかしそれはルクにとっては受け入れがたい事でもあった。そこにはルクの知らないディアが居る。今まで虐められて小さくなっていた様な、あの馬車の奥でずっと物言わずに放逐されていた少年はルクと出会うずっとその前から着々と牙を研ぎ、ルクにとっては無縁で在って欲しかった経験を沢山積んでしまっていたのだ。今まではその片理すら見せて来なかったというのに、今まで隠していた牙を剝いている様に思えてならなかった。

「そっか、ディアは守られるだけじゃないんだね」

 ルクは不意にそんな言葉が胸から溢れ出た。きっとディアは生きる為に培った戦闘の経験がある。そう踏んだルクは横たわるワニの牙を無理矢理引っこ抜いた。自分も今は戦うべきだと心を叱咤し迷いを振り払う。

「これ、無いよりマシじゃないかなって思ってさ。武器になりそうだし。ディアはそのナイフで良さそうだしね」

「これ、僕が持ってていいの?」

「ああっ! この中で一番戦えるのはディアだしね」

 その言葉にディアは息を詰らせた。確かにそうだ。自分はきっと一番戦える。その理由を認めればきっと自分が自分でなくなってしまう。そんな漠然とした不安が胸の中で根を張っている。

「そ、そんなこと・・・」

 だからそんなことないよと言われたくて、自信の無い振りをした。それはディアがルクについた初めての嘘だったかもしれない。だが、ルクは首を横に振った。

「あるよ。だから任せる。」

 その目は何処までも真っ直ぐで、ディアに自信を持たせようとしてくれる力強いものだった。ディアは期待に怯えている訳じゃない。ただ戦っていけばいくほど、あの日の光景があの日食べたものが、血肉としたものが身体に馴染んでいく様な感覚が嫌だった。

「うん、危なくなったらモニカも・・・わたしも魔法で二人を助けるよ!」

 しかし、此処にいる仲間は誰もが、今はそれを肯定してくれている様な気がした。皆が助けてくれる。天秤に賭けるまでも無く、目下の目標はカリーナを取り返す事で、それはきっとディアが今心から望んでやっている事だ。モニカに泣きつかれたからではない。だから今胸の中心に問う。これは間違っていない。今はただ覚悟を決めて、ただカリーナを助ける事に注力するべきだと。だからそんな一抹の不安は全て飲み込んだ。

「・・・、ありがとう二人とも。凄く心強いよ。ありがとう!」

 ディアは力強く応えた。恐怖が無いと言えば噓になる。そしてこの力が忌むべきであると理解も出来ている。だが、その力を使ってまでも、カリーナを取り返したかった。
訴えかけてくる胸の鼓動と、ルクとモニカと・・・そして此処にいないカリーナに思いを馳せる。そしてようやく自覚した。

「嗚呼、僕は皆といたいんだ。ずっと何処までも・・・だから・・・」

「絶対助けるよ、カリーナ」

 そう決めた時、ディアの中にある小さな炎は確かに大火となって、心に絡みつく根を焼き払った。


——彼等の行く先にひたすら水路を進む一人の男がいる。
 カニスは焦っていた。自分の犯した罪を自覚したわけではなく、ただカリーナを手中に収めてからというもの、彼女に対して燃えていたであろう愛情が少しばかり靡いた気がしたからだ。冷静になってしまった。その都度自分に言い聞かせる。それは違う。自分は間違っていないのだと焚き付ける。自分は勇気を出したのだ。今ある全てを投げ出して一人の女性を取った。これを勇気と言わずしてなんというのだろうか?勇気という行動は何時だって善性であり、間違いでは無い筈だ。カニスは己にそう言い聞かせる。

「ボ、ボクは、間違ってない・・・そうだろう? カリーナ?」

 カリーナの返事はない。カリーナは彼の背でぐったりと項垂れ人形のようになっていた。ただ無理矢理身体に刻まれた反応になぞり、譫言うわごとの言葉で彼の言葉を「はい」とだけ肯定する。

「そ、そうだよね! そうだとも! アハハハ! そ、それにもう直ぐこの水路を抜ければ街だ! 街だよ! そこで二人で愛を育もう! ボクは子供が嫌いだから二人で良いんだ。ああ、でも今夜は沢山シよう! まだ君の全部を見れていないからね! ふへ、えへへ」
「はい。」

 無機質な声がただ、それを肯定する。カリーナの中にはただ肯定の言葉である「はい」だけが渦巻いていた。それ以外はもう何もない。何も考えたくなかった。何かを考えようとすれば直ぐにこの男の顔が浮かんでくる。自分はこの男のことが好きなはずなのに全く感情が湧いてこない。それどころか湧いて来るのは否定的な感情だ。考えれば考える程頭痛は強くなり、カリーナを苦しめる。だから考えないほうが楽だった。だからただ肯定する。好きにさせておけば苦しむこともそれ以上何か抱く事も無い。嗚呼しかしただ。この一分一秒全てが自分にとってはただの生き地獄であることには変わりなかった。
 そんな時、爆音が水路の狭い空間を伝い、耳を劈く。

「クッ! ま、まさかもう追手が⁉ 何故ここが!」

 その音にカニスは焦る。誰にも見付からない様に抜け出してきたというのにこうも早く見つかるなど想定の範囲外だった。そして来るべき者が来るように、先ほどの爆音から逃れる様に何かが後方から追いかけてくる。ドドドと地鳴りがする程のそれは爆音に怯えて逃げ惑う鼠の群れだった。小さな鼠達はカニスに目もくれず勢いよく股下を駆け抜ける。

「のわ⁉ な、なんだ⁉」

 その足元の鼠を避けようと足を上げた時だった。彼はそのまま体勢を崩し、その背からカリーナが零れ落ちる。「しまった」と手を伸ばしその手を掴もうとするが、その指先同士が触れ合うことは無く。ただ宙を掠めた。そして

「カリーナ!」

 カニスにとって世界一耳障りな声がカリーナの身体を抱き留める。勿論そこに居たのは

「ディィア゙ア゙ア゙ッ! 」

 カリーナを受け止めるディアの姿があった。
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