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第3章 二人の覚悟
不透明な未来 i(Selina)
しおりを挟むすっかり日が昇ってから起き出したセリーナは、眠気が醒めるにつれて昨夜の出来事が鮮やかに思い出され、みるみると肌を火照らせる。
両手で顔を覆いながら、こぼれた吐息はいつになく甘かった。
「…………夢じゃない」
まるで夢の中で夢を見ていたように錯覚する、不思議な感覚が残っているのだが……彼女の左手には確かにあれが現実におこったことだと示す指輪がはめられている。セリーナの心臓はトクトクと高らかに鼓動していた。
その先のことを思えば嬉しいことばかりではないのだが、それでも改めて求婚された事実は嬉しかった。
今だけは目の前の幸せに浸っていたい、出立までの限られた時間を楽しみたい、忘れられないように思い出を心に深く刻みたい……そう思うセリーナは、明日の逢瀬が待ち遠しくて仕方がなかった。
その日が早く来て欲しいと思いながら、いつまでも明日にならないで欲しいとも思う。明日になれば、いつまでも今日が続いて欲しい……そんな風に願うのだろう。
帰るとき、窓枠に腰掛けて外へと飛び出す寸前で、ウィリアムはセリーナの唇を掠めるようにして奪って行った。
好きな人にされるそういう仕草の一つ一つがセリーナの乙女心を射止めてやまないのだが、彼は意図しているのだろうか……そうは見えないから、こんなにも揺さぶられてしまうのか。
セリーナは未来の夫の罪作りな態度が決して自分以外の女性を惑わすことがないようにと、願うしかなかった。彼方の国は男女問わず恋愛に積極的で盛んであると聞く……側に居られないセリーナに彼を引き戻す力はなく、奪われまいと戦うことも許されない。少しでも抑止力になるような物や誓いを携えさせて送り出すより他に方法がない。そしてその中で最も効果のありそうな誓約が、己の純潔を捧げることであった。
(明日、私はウィリアムと……)
彼をこの身に受け入れて、事実上の妻になる――結婚を確実にするために、既成事実を作ろうとしているのだ。決して褒められた行いでは無いのだが、不思議とセリーナは罪悪感に囚われることはなかった。
いつかは夫婦の契りを交わすと思っていた。そして間もなくそれが叶うと信じていたのだ。本来なら婚姻後の初夜に交わされるのが望ましいのだが、こうなってしまった今は、身体だけでも彼の妻になりたいと願っていた。
(こういうのを事実婚と言うのかしら……)
正式な婚姻予定の目処が全く立たないが、心と体を繋げて夫婦になる。この先どれだけ長く離れて過ごすことになろうとも、一度も会うことも話すこともできずに暮らしていくのだとしても、お互いをお互いの伴侶と心に定め、貞操を守って生きていくのだ。
セリーナは唐突に感謝した。政略結婚するのが珍しくない貴族の生まれでありながら、恋愛結婚が叶う未来を信じていられる稀有な環境に。添い遂げたいと思える相手に巡り合えた奇跡に。
これまでの思い出の全てがいかに恵まれた日々であったか……これらの与えられた幸運に報いるためにも、然るべき仕事を与えられた時、決して努力を惜しまないことを固く心に誓った。
そして、自分や周りの者が幸せになるために、苦境にあっても諦めず、知恵を絞って尽力したい……今まで以上にそう思った。
*
コンコンコン――――
「お母様、セリーナです。もう起きていらっしゃる?」
セリーナは父との朝食の席に現れなかったという実母の居室を訪ねていた。事実上の結婚を前に、どうしても母に頼みたいこと、聞いておきたいことがあったのだ。
母親のマリエッタはベッドから半分起き上がった状態でセリーナを迎え入れてくれた。近寄ってみると、まるで昨日の自分のように疲れを残した様子で、もうしばらくはベッドの中で過ごすらしい。昨日は父と共に昼過ぎに帰宅して、晩餐の時までは特に変わりなかったのだから、明らかに原因は昨晩から今朝にかけての――言わずもがな、であるだろう。
最も身近な既婚者の生々しい現実を目の当たりにしていると、少しばかり自分の身が保つのか心配になるのだが、おそらく彼女はセリーナよりも遥かに淑女らしく繊細で、活動量の少ない人なので、疲れやすい体質なのだろうと思う。いや、そうであると信じたいセリーナだった。
母親の体調を思って少しばかり躊躇ったセリーナだが、マリエッタがそんな彼女を促した。
「どうしたの? セリーナ、言ってごらんなさい?」
「……あのね、お母様。前に、私の結婚が決まったら譲りたい物があるって仰っていたでしょう?」
途端に母の表情がしゅんと萎んだ花のようになり、みるみる瞳が潤んでくる。
「ああ、セリーナ……辛いわよね。可哀想に。運命はなんて残酷なのかしら……ウィリアム様からお便りは? 彼はなんと仰って? きっと嘆かれているのでしょうね。あなた達の婚約がまさかこんな形で壊れてしまうなんて……」
「大丈夫よ、お母様。心配しないで。私たち、二人で一緒に乗り越えようって決めたのよ」
「そう……そうなのね。お母様も、きっとウィリアム様はあなたを選んでくださると思っていたのよ。でもお父様はあなたの先行きを思って決断なさった。けれど、決して無理にあなたを別の殿方へ嫁がせようとしているわけではないのよ。それだけは信じてちょうだいセリーナ……」
「ええ、お父様が私を思って決めてくださったことだと分かっているつもり……ありがとう、お母様」
「遠く離れていては不安に思うことも、辛いこともあるでしょう。けれど、自棄を起こしては駄目よ? 無茶な行動も駄目。私たちはあなたの幸せを心から願っているわ。だから、決して一人で抱え込まないで?」
悲しげに訴えてきておきながら、娘の令嬢らしからぬ振る舞いを許すまいと先手を打って警告してくる母親に、苦笑を見せるセリーナ。
おそらく母は自分がウィリアムに付いて行く――あるいは追いかける、などと言って駆け落ち――もしくは家出をしでかす心配しているのだろう。
セリーナも、さすがに国外に出奔できると思えるほど自分に自信があるわけじゃない……とはいえ、何度か頭を過ぎったことのある考えなので、一笑に付すことができなかった。
時には緩慢に見えるほど動作が緩やかで、お淑やかな母ではあるけれど、か弱そうな外見に反して抜け目のない人だと思う。そんな母には我が子のやりそうなことなどお見通しなのかもしれなかった。
「大丈夫よ、お母様。ウィルのことを信じて待つと決めたの。待ってる間にやってみたいこともあるし……だから、自棄なんて起こさないわ。安心して?」
「……わかったわ。あなたは私の自慢の娘だもの、私はあなたを信じてる」
母親は娘の両手をそっとつかんで額にあてると、あなたに幸運の女神が微笑みますように……そう言って柔らかに微笑んだ。
「セリーナが結婚する時に、私が母から譲り受けた物をあなたに譲りたいと思っていたのよ。子爵家の妻の証はジェームズのお嫁さんになる人に譲ることになるから……あなたには私の実家との繋がりになる物を受け継いで欲しかったの」
「お祖母様の……そんな風に受け継がれていく物があるなんて素敵ね。どんな物なのか聞いてもいい?」
「ふふっ、きっと驚くわよ。あなたが生まれる前に亡くなってしまったから、話したことが無かったと思うけれど……あなたのお祖母様は特別な力を持っていた人なの」
妙な言い回しだとセリーナは思った。変わった特技を持った人だったという意味だろうか。セリーナがよく聞かされて知っていることといえば〝自分の髪はお祖母様譲りの薄金色〟ということくらいだった。
「私と同じ髪色で、紫の目をした方だったのよね?」
「そうよ。愛情深くて、とても大らかな人だったわ。子供の頃の私は身体が弱くて病気がちだったのだけど、母が自ら厨房に立って滋養のある食事を一生懸命作ってくれたりしたわ。そういうところが、あなたに似たのかもしれないわね」
「お祖母様の特別な力って?」
「あなたのお祖母様は、危険なことが起こる前触れが分かる人だったの。偶然だって、仰っていたけれど……私は予知のような力だったと思っているわ。予言めいたことを話す人ではなかったけれど、母が不思議な行動をとったり、私たちにしてはいけないと警告した後は必ずと言っていいほど〝もう少しで危なかった〟という事故や事件が起こっていたわ」
「危険を予知する力……」
「信じられないって思うでしょう? 私の父や兄姉もそう言っていたわ。母もそれを否定していたし……でもね。母が亡くなる少し前に私に言ったの〝マリエッタ、あなたは大人になれば人並みの生活が送れるほど元気になるし、いつかきっと素敵な旦那様に出会えるから、その時が来るまで他人を羨まず僻まず素直な心で世の中を学び続けなさい。そうすれば必ず幸せになれるわ〟と……本当にその通り人生だったわ」
セリーナの母親は、うっとりと思い出すように語り続けた。
体の成長に合わせて少しずつ体力がついていき、やがて健康と呼べるようになった自分が、社交界デビューもせずに通い続けた王立図書館で運命の人――つまり父だ――に出会ったのだと。
自分の雑多な知識や本好きなところに興味を持ったのか、一冊の本をきっかけに話すようになった旦那様と親しくなり、堅苦しかった彼が心を開いて微笑んでくれるようになった時、自分がどれほど嬉しかったか――滔々と語られる出会いから恋人期間を経て結婚するまでの思い出の数々……
この惚気話を聞かされるのはもちろん初めてではない。だが、何度聞いても父の態度の何がそんなに母をときめかさせたのか……今ひとつ解らないセリーナだった。
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