《短編集》グラシアース物語

文月・F・アキオ

文字の大きさ
3 / 17
Part 1. 青い瞳のあなた

強すぎる匂いは息苦しい

しおりを挟む

 拾いあげたナプキンを片手で持ち、軽くはたいて汚れを払う。すると、どこからか微かに芳しい香りがあがっていることに気付く。

「?」

 エリカは不思議に思って周囲を見渡すも、花壇に植えられた花ではないことは明らかで、それらしい樹木も見当たらない。訝しげに首を傾げて思案する。しばらくすると、嗅いだこともない芳香がどんどん強くなっているようで――

(なにかしら……なんだか落ち着かないわ。嫌な予感みたいな……)

 決して毒ではないと思う。それなのに胸が締め上げられるような感覚に不安が募る。キョロキョロと落ち着きなく周囲を見渡した。
 薬品などの人工的なものとも違う。それでも警戒した方が良いかもしれない。でも一体なにに? 発生源はどこ? それにしても凄まじい匂いである。ひとまずは職場に――建物の中に戻った方が良いかもしれない。
 だが、エリカの身に纏わりつくような甘い匂いは痺れを起こさせるようになり、だんだんと思考するのも億劫になる。全身に震えが走り、どんどん身動きできなくなるのだった。

(胸が苦しい。息が詰まりそう……)

 エリカは気付かないうちに地面に膝をついて屈み、胸をぎゅっと押さえていた。

「君、大丈夫か?!」

 誰かが焦ったような声を掛ける。それはあまりにも近い……本当に〝目と鼻の先〟から発せられた声。そのことに、エリカは内心で衝撃を受けていた。
 普段の彼女は誰かが近づいてくるのを視認する前に察知できるのに、先ほどから漂う異様な香りのせいでスッカリ判断能力が失われていた。
 甘いだけでなくスパイスも効いているような、体が痺れるようなきつい香り――しかし傍に立つ人物は鈍いのか、この充満する匂いを感じないらしい。なんともない様子で立って話しかけてくる。それともエリカの鼻がおかしくなったのだろうか。

 苦しいのか、なにかの病気なのか、と必死に問いかけてくる相手を見上げ、霞む視界に映す。これまで一度も見かけたことの無い、知らない男が焦った顔でエリカを窺っていた。
 その者は城内だけでなく街でもあまり見かけない服装をしており、話し方もたどたどしい。異国の人かもしれず、そんな人物が王城の敷地内にいるなんて怪しい。どう考えても、明らかに不審者だった。
 しかし、その不審者は本気でエリカの身を案じているようである。不安に揺れる瞳は海のように青い。ぼんやりと見つめながらそんなことを思う。
 触れるか触れまいかの距離で、エリカを気にかけている様子な彼に警戒心が緩んでいく。人を呼ぶか、医務室に運ぶかと尋ねるので、エリカはどうにか「必要ない」と示すために首を振って否定した。

 とにかく中に戻ろう――そう言うと立ち上がるために手が差し伸べられる。厚意に甘えようとして、エリカは驚くべきことに気がついた。
 あまりに濃すぎる香りに混乱して判断が遅れたが、諸悪の根源である濃密な匂いの元は、まさにその男であった。

「うっ……さわら、ないで……」

 エリカは両手で口と鼻を覆って塞ぎ、呻くように告げた。
 続けた言葉は全て本心ではあるが、ちょっとばかり配慮が足りなかったかもしれない。
 しかし、そんなことに気づく余裕があるはずもなく……そのせいで絶望に打ちひしがれる男の顔を見ることもなく、蹲ったまま必死に甘すぎる匂いと格闘していた。

 そんなエリカの〝離れて欲しい〟という申し出に従ってくれたのだろう。気づいた時には男は居なくなっていた。だんだん薄れて消える匂いとともに、エリカの思考力も回復していく。
 だが、強烈な香源の副作用はそれだけでは終わらなかった。あれほど苦しめられた濃密な香りがやっと抜けたというのに、なぜか言い知れぬほどの寂しさが込み上げる。
 再び落ち着かない気持ちになって、なにか大切なものを忘れているような錯覚まで起こる。謎の不安や焦燥感がくっきりと残るのだった。

「……なんだったのかしら。まさか新手の刺客? 匂いテロ? それとも海の向こうの国にあるっていう世界一強烈な匂いの果物でも食べたのかしら」

 ソワソワする気持ちを持て余しながら、そんなことを呟いて気持ちを紛らわす。
 ようやく立ち上がったエリカは、一拍遅れて休憩時間を取りすぎていることに気づき、慌ててもと来た道をたどって仕事に戻るのだった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

最愛の番に殺された獣王妃

望月 或
恋愛
目の前には、最愛の人の憎しみと怒りに満ちた黄金色の瞳。 彼のすぐ後ろには、私の姿をした聖女が怯えた表情で口元に両手を当てこちらを見ている。 手で隠しているけれど、その唇が堪え切れず嘲笑っている事を私は知っている。 聖女の姿となった私の左胸を貫いた彼の愛剣が、ゆっくりと引き抜かれる。 哀しみと失意と諦めの中、私の身体は床に崩れ落ちて―― 突然彼から放たれた、狂気と絶望が入り混じった慟哭を聞きながら、私の思考は止まり、意識は閉ざされ永遠の眠りについた――はずだったのだけれど……? 「憐れなアンタに“選択”を与える。このままあの世に逝くか、別の“誰か”になって新たな人生を歩むか」 謎の人物の言葉に、私が選択したのは――

『番』という存在

恋愛
義母とその娘に虐げられているリアリーと狼獣人のカインが番として結ばれる物語。 *基本的に1日1話ずつの投稿です。  (カイン視点だけ2話投稿となります。)  書き終えているお話なのでブクマやしおりなどつけていただければ幸いです。 ***2022.7.9 HOTランキング11位!!はじめての投稿でこんなにたくさんの方に読んでいただけてとても嬉しいです!ありがとうございます!

番が見つけられなかったので諦めて婚約したら、番を見つけてしまった。←今ここ。

三谷朱花
恋愛
息が止まる。 フィオーレがその表現を理解したのは、今日が初めてだった。

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

番ではなくなった私たち

拝詩ルルー
恋愛
アンは薬屋の一人娘だ。ハスキー犬の獣人のラルフとは幼馴染で、彼がアンのことを番だと言って猛烈なアプローチをした結果、二人は晴れて恋人同士になった。 ラルフは恵まれた体躯と素晴らしい剣の腕前から、勇者パーティーにスカウトされ、魔王討伐の旅について行くことに。 ──それから二年後。魔王は倒されたが、番の絆を失ってしまったラルフが街に戻って来た。 アンとラルフの恋の行方は……? ※全5話の短編です。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

いまさら謝罪など

あかね
ファンタジー
殿下。謝罪したところでもう遅いのです。

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

処理中です...