滲んだ空の下、台本の空白に君を書いた。

羽澄ゆえ

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Scene.3 - 梅雨の虚構

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 翌日の土曜日は、梅雨とは思えないほどの快晴だった。
 久しぶりにアラーム音で目が覚め、カーテン越しでも感じる眩しさが部屋に差し込んでいた。平日よりも三十分遅くにセットしたアラームを止めて、そのまましばらくスマホを操作するが、それも一瞬で終わってしまう。いつもなら、朝起きると陽葵からメッセージが送られていることが多い。毎日送られてくるのではないが、昨日のこともあって連絡がないことが気になって落ち着かない。アプリを閉じて、また開いても通知が残っているのは公式メッセージとグループだけだ。
 準備を済ませてリビングに行けば、今日もお母さんは弁当を作ってくれていた。久しぶりの晴れだからか、お母さんはご機嫌で誰が見てもわかるほど笑顔だ。

「そういえば、今日は晴人が帰ってくるんだって」

 今日は仕事が休みのお母さんは、いつもよりものんびりとした朝を過ごしている。晴人というのは私のお兄ちゃんだ。今は大学四年生で一人暮らしをしている。お母さんがご機嫌な理由は晴れだけではなく、このこともあったのだろう。

「そうなんだ。泊まってくの?」

 パンを食べながら尋ねる。実家に対して泊まるという表現は少し違和感があるが、たまにしか帰ってこないお兄ちゃんはもうレアな存在に感じるのだ。

「いや、夕方には帰るんだって。もっと長くいればいいのにね」
「そうだね」

 パンを大きく頬張りながら、こっそりと安堵する。夕方に帰るのなら会うとしても短い時間だろう。合わない確率の方が高いかもしれない。
 お兄ちゃんが苦手なわけでない。お兄ちゃんがいるときのお母さんが苦手なだけ。お兄ちゃんと私の二人兄妹で、多分お母さんはお兄ちゃんが可愛くて仕方ないのだと思う。私よりもずっと自由でお気楽な人なのに、注意しているところなんて見たことがない。幼いころから、少しテストで良い点数を取れば褒めてもらえていたし、ヤンチャをしても甘く受け入れられていた。
 私だって愛されていないわけではないとわかっている。毎日朝早くから弁当を作ることだって大変だと知っているし、希望した高校に通えているのも両親のおかげだ。それでも、何でも許されるお兄ちゃんに対して、私は可愛くあろうとすることも否定され、良い成績を求められていることが嫌になってしまう。愛されているとわかっているから、そんなお母さんを否定することは許されない気がして辛くなる。

「行ってきます」

 今日は迎えのチャイムはならない。土曜なのだからお母さんはそれに違和感を持っていないだろう。一人で玄関を出ると、外の眩しさに目を細めてしまう。一日中晴れ予報の今日は傘も必要ない。念の為にリュックに入れた折りたたみ傘の出番もきっとない。傘がなければ、もっと近くを並んで歩けるのに……昨日のことを思い出して、また胸がざわついた。

 いつもと同じ制服が、今は衣装として存在している。先輩はアナウンスし、手を使い緞帳が上がる様子を表している。緞帳が上がりきったタイミングで、高瀬先輩がセリフを言う。

「なんか、ここ秘密基地みたいだよな」
「秘密基地って何よ。こんな校舎裏秘密でも基地でもないじゃない」

 スイッチが入ったように纏う空気が切り替わる先輩たち。それに続くようにして、私たちもセリフを紡いでいく。
 普段は空間の広がった稽古部屋に、今は校舎裏ができている。五人の生徒の日常を切り取ってみているような、そんな舞台が広がっているのだ。そして、五人の前には大きな水溜まりが残っている。
 六十分の演目は、案外あっという間に過ぎていく。セリフに不安もなくなり、ここ数日になってやっと他の人にまで意識を向けられるようになった。
 一人、また一人と校舎裏を去っていく。気がつけば二人だけになっていた。

「みんな、自分勝手ですね。何も言わずに来なくなるんですから」

 由梨の震えた声に優斗が答える。二人しかいない校舎裏でも、水溜まりは変わらずにあり続ける。

「俺は、いなくならないよ。ここが俺の居場所だから」

 優斗の言葉をきっかけに、由梨は自分の気持ちを言葉にする。徐々にその言葉は強くなっていき、怒っているような、八つ当たりのようなそんな感情が溢れていく。
 この日を境に、由梨は校舎裏へは行かなくなる。校舎裏には優斗一人だけだ。
 私は稽古部屋の端で優斗を演じている高瀬先輩を見つめる。今まではこの時間は最後のセリフを確認していて見ている余裕なんてなかった。正面からではない、同じ目線で見る彼の演技は、言葉にしない感情まで見えてくる気がする。
 最後の日まで校舎裏にいる優斗、遅れて登場する四人。居場所であり逃げ場だった校舎裏と完全にさよならをする。

「五十八分でした」

 音楽がフェードアウトした後、照明の先輩がスマホのストップウォッチを止めた。大会ではない自分たちだけの公演は正確に時間を守らなくても良いが、それでもきっちりと六十分を目指している。
 体の緊張が解れたように、一瞬で軽くなった感覚だ。それぞれ気になった部分を共有し合い、改善していく。上手くいったと思っていても、少しの違和感を改善すればさらに良い舞台になっていく。みんなで舞台を創り上げているのだと実感する。
 先輩たちに「今までで一番、感情的で良かったよ」と言われ、そこに私自身の感情も乗っかっていた気がして曖昧に笑ってしまった。

 一日練もあっという間で、今まで以上に本番を意識して稽古をした。十八時、部活終了の時間になる。
 
 電車を降りてまっすぐ家に帰るべきところだが、その足は重くて中々進まない。いつも通っているまにまにカフェは十八時閉店だ。今更行ったって意味のないことだとわかっていながらも、そちらへ向かう足は軽かった。
 一週間ぶりに見たまにまにカフェのドアにはCLOSEの文字がある。久しぶりの晴れで本来なら外にあるはずの看板も、既に店内にしまわれている。

「そうだよね」

 ぽつりと呟いて来た道を引き返そう思っていたところ、店のドアが開く。

「あれ、芽依ちゃん。制服珍しいね」

 出てきたのは手にほうきを持ったユキさんで、私に気づいて手招きをしてくれている。

「さっきまで部活で、今日は間に合いませんでした」

 ユキさんに近づくと、「ちょうどいいタイミングだよ」といい店内に入るように促された。こんな時間に訪れるのは初めてで、素直に入って迷惑じゃないかと考えてしまう。

「試作、作りすぎちゃって。よかったら食べてかない?」
「えっと……いいんですか?」
「いいのいいの! 今度看板に書いてもらうメニューだし、ぜひ食べてよ」

 店内に入り、促されるままにいつもの席へ座る。するとすぐに、初めて見るさくらんぼのタルトケーキが現れた。

「いただきます」

 フォーク越しにでも伝わるタルトのサクサク感に、ワクワクしながら口へ運ぶ。さくらんぼは甘酸っぱくて、タルト生地は香ばしくて、甘くて……口の中にいっぱいに広がる味に幸福感が高まる。

「美味しいです!」
「よかった」

 私の言葉にユキさんは表情を和らげた。いつも美味しいスイーツばかりだが、今日食べれると思っておらずその特別感がさらに美味しくしているようだ。

「それより、何かあったの?」
「何か、ですか?」
「そう。遅くに来るのは珍しいなって」

 フォークを置いてユキさんを見ると、ユキさんには「食べ続けていいよ」と笑う。

「……陽葵と喧嘩したんです」

 もう一口、ケーキを頬張ってから答える。

「喧嘩なんて、初めて聞くね」
「喧嘩って言うのかもよくわからないんですけど、初めてあんなに言い合った気がします」

 幼稚園からずっと一緒の陽葵。はっきりと記憶に残っているのは小学生になってしばらく経ってからだが、それでも記憶にある限り初めてのことだった。

「言い合える相手って、すごく大切だと思うよ。いなくなってからだと言いたいことも伝えられないんだから」

 紅茶を飲みながらユキさんは言う。これまで一緒に過ごしてきて、これからも当たり前に一緒だと心のどこかで思っていた。それなのに、今まで一度も言い合えていないことのほうがおかしいのかもしれない。

「そうですよね」
「ごめんね。良い解決策とか思いつかなくて」
「いや全然。私はただ、ユキさんに話を聞いてほしかっただけかもです」

 一口、また一口と口の中に運ばれるケーキは変わらずに美味しい。それでも一口目の感動にはどこか及ばない気がした。

 カフェを出て、今度こそはまっすぐ家に帰る。家に着けば、玄関にある見慣れない靴にお兄ちゃんがいるのだと悟る。

「ただいま」

 少し晴れかかっていた心がまた曇っていく。リビングに行けばソファーでだらりとしているお兄ちゃん。久しぶりに見たお兄ちゃんの髪色はまた変わっている。既に就活が終わっているため、髪色に縛られることもないのだろう。

「遅かったね。せっかく晴人も一緒にご飯食べられるのに」

 帰ってきて早々、私に気づいたお母さんは小言を言う。お父さんの帰りはまだ先だから、私の帰りを待っていたようだ。

「お兄ちゃん、夕方で帰るんじゃなかったの?」
「今日は泊まることにしたんだって」

 嬉しそうにするお母さんを尻目に手を洗い、着替えに行く。今朝は夕方で帰ると聞いていたお兄ちゃんが一日泊まるなんて、急に悪い知らせを受けた気分だ。
 お兄ちゃんが一人暮らしするアパートは一本電車を乗り換えればいける距離だ。特別遠いのではないのだから、もっと頻繁に顔を出せばいいのに。そしたらお母さんだって、こんなに大袈裟に喜ぶこともないのにと思ってしまう。

 食卓に並ぶのはお兄ちゃんの好きな揚げ物ばかり。あまり油ものを好まない私たちだけの日では目にすることのない光景だ。

「そういえば、この間陽葵ちゃん見かけたんだよな」

 がっつくように食べていたお兄ちゃんが思い出したかのように言う。

「陽葵ちゃん、すごく美人になってたでしょ?」
「そうだね」

 お母さんとお兄ちゃんの会話が遠く感じる。私も適当に相槌を打って、味もよくわからない食事を摂る。

「ご馳走様でした」

 一番に食事を終え、お風呂に入る。自分の部屋にこもってしまえば、聞きたくない言葉を聞くこともない。
 陽葵送ろうとしたメッセージを消し、アプリを閉じる。数時間前の決意は呆気なくなかったことになっていて、やっぱりダメなままだ。
 何かをする気にもなれず、何もかも放棄して寝てしまうことにした。部屋の明かりを消してベッドに入る。リビングの方から僅かに聞こえる話し声が、かなりうるさく感じて中々眠りに付けなかった。
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