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第四章 目覚めた力の使い道

9.これから

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 で。

 私は今、息ができなくなっている。

「鼻から息をすればいい。いい加減慣れろ」

 これは誰かな、と思う。

 ギルバートだよね。知ってるけど。時々独り言をぼやくときはいつもこんな元の口調ではあったけど。それをよく聞いてはいたけど。
 それを向けられると話が違う。
 しかも俺様な口調なのにそんな甘く言われると、耳がもぞもぞする。吐息が肌に触れるたび、ぞわりと粟立ってどうしようもなくなる。

 やっと唇が離れて、ぷはっと不器用に息を継げば、にやりと笑った顔が迎えた。

「だからすぐに顔が真っ赤になるんだ。それじゃもたんだろう」

 それは息のせいだけではない。なんて言わないけど!

「城に着くなり、なにを――」

 荒くなってしまう呼吸をなんとか収めてギルバートをきっと睨むと、より楽しげに笑みが吊り上げられた。

「おまえの父親との約束は果たした。やっとこの城の当主として、妻を丁重に出迎えたんだが」

 私達は既に結婚の届を出している。
 約束だからとそれだけは十八歳になったその日に済ませた。
 それに先程家も出たし、執事のギルバートはおしまい、ということだろう。
 それはわかる。
 だけど頼む、待って。どうしても慣れない。

「それは確かにそうだけど、待ってよ、まだ」

 再び言葉は奪われた。
 ギルバートの手が私の顎を包むように支え、長い指は耳の後ろにまで伸びている。
 何故だかすごくくすぐったくて、思わずびくりと肩を揺らせば、一瞬だけ離れたギルバートの口元が、それはそれは嬉しそうに吊り上がった。

「待たない。十分に待った。約束の時を二か月を過ぎるまでもな」

 わずかの間だけ許された呼吸は再びギルバートの薄い唇によって塞がれる。
 初めて触れたときはあんなに冷たかったのに、今は私の熱が移ってしまったのか、同じ体温に感じる。
 だからこそやたらとその柔らかな感触が感じられてしまって、なんだか、もう、どうにも耐えられない。

 こんなの、慣れる日が来るのだろうか。
 そんな日は来ない気がする。
 ずっとずっと、こうしてギルバートに翻弄され続けるような、そんな未来が簡単に見えてしまった。

 これではいけない。
 いつもいつも振り回されてばかりは悔しすぎる。
 私は必死にギルバートの胸をぐいぐいと押して引き離すと、ややしてギルバートが物足りなそうに唇を離した。

「なんだ。言いたいことでもあるのか」

「ある! もう一つの約束の方! 契約の方よ。私の力を使うんでしょう? そっちの方が先にした約束よ。さあどうぞ、血でもなんでも持って行って! 私は何をすればいいの? 何を差し出せばいいの? 覚悟はできてるわ」

 矢継ぎ早に言って、ばっと両腕を開いてその身ごと差し出せば、ギルバートは信じられないことを言った。

「いや。やり方は俺も知らん」

 さらりと言われて、私は思わず目を見開いた。

「嘘でしょ。何で知らないのよ?!」

「結果として人間に戻ったという話はいくつも聞いてはいるが、詳細なやり方など吸血鬼の俺が知るわけがないだろう。そんなもんは一族の秘中の秘だろうが」

 慇懃に言われても腹が立つけど、こう高圧的に来られても腹が立つ。

「そうは言っても、お母様の日記みたいなものも何も残っていないし。ダメ元で祖父母の家に当たってみるくらいしか」

「いや。おまえの母の養父母は何も知らんようだ。そこは最初に調べた」

 さすが万能執事は抜かりない。

「じゃあ、どうしたらいいのよ」

「大丈夫だ。そのうちなんとかなるだろう」

「十年も待っておいて、そんな適当でいいの?」

「わからないものはいろいろとやってみるしかないだろう。時間はたっぷりある。これから一つ一つ試しながら、探っていけばいい」

「ギルバートがそれでいいなら、いいけど。心当たりとかもないの?」

「おそらく、接触が鍵なのだろうとは思っている。ヴルグもシェリアに触れると力が抜けていただろう」

 そう聞いて、ずっと疑問に思っていたことを思い出した。

「そう言えば、どうしてギルバートは私に触れても平気なの?」

「人狼は力に生きる種族だからな」

 なるほど。私に触れることで人狼としての力が弱まった結果なわけで、別にギルバートは吸血鬼になったことによって腕力が強まったわけではないから、触れても影響がなかったということか。

「そういうわけでいろいろとやってみなければわからんこともある。ここまで我慢したのだから契約を果たすまで付き合ってもらうぞ。文句はもう聞き飽きた」

 言ってる内容は執事だったときとあまり変わってはいない。だけど俺様な口調で俺様なことを言われると、なんていうか、すごい、あの……。
 まだ慇懃な執事の言葉で言われていた方がマシだった気がする。

 いや、そうでもない。
 頭の中で想像してしまって困った。
 それはそれで変な怪しさが倍増して耐え難い。

 再び手を伸ばしたギルバートに、私は「でもさ!」と慌てて言葉を続けた。

「結婚するってことは、あれでしょ、今後そういうこともあるわけで」

「まさに今からそうなるわけだが」

「いやちょっと予告やめて! 知りたくなかった! 知っててそれを迎えるのは恥ずかしくて耐えきれない!!」

 思わず顔を覆うと、ふっと笑った気配があった。
 こういう笑い方は、執事のギルバートと変わらない。

「逃げようが騒ごうがもう止められん。好きなだけ喚けばいい」

 慇懃さを失うと完全に悪役だけど。

「だから早まらないでってば! もし、その結果子供ができたらどうするの? 吸血鬼と人間のハーフってことになっちゃうの?」

 気になっていたことだ。
 もしギルバートが人間に戻るのがうまくいかなかったら、どうなるのだろうと。
 しかしギルバートは、「ああ」と何でもないことのように言葉を受けた。

「それは問題ない。吸血鬼の血は退魔師の血には勝てん。子は間違いなく人間として生まれるだろう。だから、今子ができたとしても何ら問題はないということだ」

 そう言ってギルバートが妖しく笑った。
 しまった。
 やぶへびだった。

「結婚式!」

 咄嗟に言葉を放てば、ギルバートの手がぴたりと止まった。
 訝しげに眉を顰められた隙に、言葉を継いだ。

「結婚式までは、ね! いくらお父様との約束が十八歳までだったからと言って、過ぎたらいいってわけでもないし。大抵は結婚式まではそういうのは待つものでしょう?」

 「まあ、な」と頷いたギルバートにほっとして肩から力を抜けば、ぐいっと腰を引き寄せられ、顎をくいっと持ち上げられた。

「だが。また先程のように他の男に気を許すようなことをしてみろ。そのときは覚悟をしておけ」

「なに? なんのこと?」

 困惑の目を向ければ、ギルバートが珍しくむすりと口を歪めた。

「笑っただろう。あのエセ王子に向かって」

 エセ王子って。本物だよ。
 確かに笑顔は時折作り物感がすごい時があるけど。

「いや、そりゃ数少ない友人との、最後のしみじみとした別れだもの。万感の思いだってあるし」

「私の前でなど滅多に笑ったこともありませんのに。相変わらず罪作りな人ですよ」

 急に執事の口調に戻って、ギルバートは私の肩をとん、と押し体を離した。

「な、なんで急に執事なの」

 戸惑ったけれど、何故だかほっとしてしまった。
 その私の微妙な表情の変化も読まれてしまったような気がする。
 ギルバートの口元には少しだけ複雑そうな笑みが浮かんでいた。

「こちらの私の方が、自分を律しやすいからですよ。こうして長年己の中の欲を抑え込んできたのですから」

 自嘲するように笑ったその顔に、なんだか胸が痛み、思わずギルバートの腕を掴んでしまった。

「ごめんね。結婚式までには、ちゃんと覚悟を決めるから。少しだけ、その、時間がほしいの」

「ええ。わかっていますよ。今はまだ環境が変わったばかりですし。いろいろと思うところもおありでしょうし」

 やはり中身は同じとは言え、長年耳慣れたこの口調に、固く強張っていたものがほぐれていくような気がした。

「うん。ありがとう」

 ほっとして笑みを浮かべれば、ギルバートはそれを確かめるように頬にそっと手をあて、それから同じように口元を緩めて笑った。

「私も焦りすぎました。ずっと欲しかったものが手に入ったものですから、つい自制心が効かなくなりました。ですが、今後はあまり気を抜かれないことですよ。結婚式はまだ先とは言え、私たちは戸籍上、既に夫婦なのですから」

 夫婦。
 その言葉に、一気に気恥ずかしくなった。
 それでも。
 私は力強く、「うん」と返した。

 その日、私たちは同じベッドで眠った。
 前に泊まったギルバートの部屋ではない。
 それよりももっと大きなベッドで、二人の寝室だ。
 何もせず、ただ抱きあって眠った。
 ヴルグが私に触れたことで一時的に力を失ったのなら、もっと長い時間触れ合っていることで吸血鬼としての力が消えるかもしれないと、試してみることになったのだ。

 この間このお城に来たときは目覚めたらギルバートがいた、って感じだったし、その後は私が熱を出してさすがに部屋を分けてくれたから、こうしてくっついて眠るのは初めてのことだ。
 ギルバートの私よりも低い体温が、同じ布団にくるまっているうち同じ温度になっていくのが心地よかった。
 キスのときもそうだったな、と思い出す。
 そして赤面して自滅したのだけれど。

 私は他人のぬくもりがこれほどに気持ちのいいものだということを、初めて知った。
 そういえば、私はなんだかんだと文句を言いながらも、ギルバートに触れられるのを嫌だと思ったことはなかったなと思い返した。ヴルグに腕を掴まれたりするのは嫌な感じがしたのに。

 私はたぶん、ずっとギルバートのことが好きだったのだと思う。
 だけど、好きになっても不毛だからと、フタをしたのだ。
 それでも結局、抑え込めるものではなかったけれど。

 そんなことを考えながら眠ったせいなのか、慣れぬ環境ゆえか、私はいつもよりだいぶ早く目を覚ました。
 そしてギルバートが眠る姿を、初めて目にした。
 静かに瞼を閉じるギルバートはとてもきれいな顔をしていて。
 カーテンからうっすらと漏れた明かりに、白い肌が透けるようで。
 私はずっと、それを見ていた。
 ギルバートが目覚めるまで、ずっと。

 さて、目覚めたギルバートが私の視線に気が付いたとき何が起こったかというと、それはここでは語らないでおこうかと思います。
 勿論、約束は守っていますよ。まだ。
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