あなたが読むかぎり

川原源明

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第3章 トオミサマ ―視線の檻―

第49話 読めない語りの構文

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 理久は、自分のノートの一頁を破り、黒インクのペンを取り出した。

「“読めない語り”ってどうやるの?」

 ひなたが尋ねた。

「簡単に言えば、“意味が成立しない語彙構造”を使う。記号、断片語、構文エラー、造語。これらを織り交ぜて、記述を“知覚させるが理解させない”ように設計する」

 理久はペンを走らせた。

《 ∅lmv=tār■ex >|∂kμʃ :θəʊŋ|∴=記号∥ 》

 まるで暗号。アルファベット、記号、数学的記法、IPA音声記号までもが混ざっている。

 それは文字でありながら、言葉として機能しない。だから“読まれても意味に到達できない”。

「これを、“語られたもの”として残す。意味は不要。必要なのは、“語りの痕跡”としての存在」

 ひなたは頷く。
 “語り”は意味の伝達だけではない。存在の痕跡=構造の生成。
 だからこそ、“読めない語り”は意味を閉じつつ、構造を持つことができる。

「これ、私もやっていい?」

「もちろん。むしろお前がやらないと意味がない。“見せられた側”として、お前が構文を持ち替える必要がある」

 ひなたは、震える指先でペンを取った。
 彼女のノートには、以下のような奇妙な文が記されていく。

《 あのねま るいおぱぬ。さむえ、にらふう。ひとわ、なまえをむいで、みてたの 》

《 ら、ら、ら、みみ、みえ、なわのくち。とおくから、ぬるくみえる。みちゃだめ、ぜったいに、かえってこれないよ 》

 リズムだけが残り、文法は崩れ、内容はわからない。
 だが、“なにかが語られた”という実感は確かにそこにあった。

 その瞬間、部屋の空気が変わった。

 外からの視線──あの“トオミサマ”の気配が、ほんの少し、後退したように思えた。

「効果が……ある?」
「ああ。言語構造の“接触面”が切断された。意味が伝達されなければ、感染ルートが閉じる。今この部屋は、“視線の流入口”が限定された構造になってる」

 理久は新たな紙を取り出した。

「次はこれを、“視られている対象”の中心に置く。見せることで、逆に“見られた痕跡”を明示し、“トオミサマ”にとって構造的な飽和を起こさせる」

「どういうこと?」

「トオミサマの構造は、“見る/見られる”の一方通行。だが、“視線の痕跡を返す”ことで、自己視認ループが起きる可能性がある。見る側が自分自身の視線に巻き込まれれば、構造は自己矛盾を起こす」

 ひなたは息を呑んだ。

「じゃあ──私たちが視せられた痕跡を、向こうに“返す”ってこと?」
「そう。“あなたに視られたことを、私たちも“構造として記した”。──さあ、次はこれを置きに行く」

 彼らは、資料閲覧室を抜け、再び校舎の裏側へと向かった。
 例の“教室”──最初に影が現れた黒板の前に、構文を記した紙を貼る。

 誰かが見れば意味不明だろう。
 でも、視線そのものを操る存在には、“語られたこと”が決して無視できない。

 ひなたが、そっと紙を黒板に貼り付けた。

 そのとき、背後から声が聞こえた。

「それ、なに?」

 振り向くと、女生徒──朝、椅子から落ちたあの子が立っていた。
 顔は真っ青で、だが目だけは異常なまでに澄んでいた。

 ──いや、違う。

 その瞳は、“人の目”じゃない。
 焦点が合っていないようで、合いすぎている。空間全体を網羅しているような──視覚そのものの目。

 理久が、紙の構文を指差した。

「これは、“視られた側”の言語記録だ。君が見たものも、ここにあるかもしれない」

 女生徒は、一歩前に出た。
 その瞬間──彼女の背中が、あり得ない長さで歪んだ。

 背骨が伸びるように、背後に“白い影”が現れる。

 ぽ、ぽ、ぽ、ぽ……

 教室の空気が音もなく引き裂かれ、視界の端に“高すぎる何か”が立っていた。

 ひなたは震える指で、自分のノートを握った。
 構文はまだ完成していない。

「理久、これじゃ足りない──!」

「ああ。次は、“語られなかった部分”を書け。語られなかった“沈黙”を。意味も音も、ない語りを」

 “読めない語り”の最後の形──黙読されない語り。
 それが、この視線構造を解体する鍵になる。

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