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いったい、誰が想像するだろうか。
初めての相手が――異世界の老紳士だなんて。
気が付けば、乃亜は見知らぬ森の中にいた。
右を見ても左を見ても、視野に広がるのは木々ばかりである。
森は薄暗く、ときおり鳥が気味悪く鳴いている。
自分の身にいったいなにが起こったのか、乃亜はそれを真剣に考えなければならなかった。
真剣に考えなければならないほど――乃亜には現状が、理解できなかった。
何故なら、こんな森にいる理由がそもそも乃亜には思い当たらないからである。
こめかみに指をあてて、深く呼吸をする。落ち着く必要があると考えたからだ。
が、どれだけ深呼吸を繰り返してみても、不安と混乱が胸の鼓動を激しくするばかりで、いっこうに落ち着く気配が感じられない。
自分はどうして、こんな薄気味悪い森の中にいるのか。乃亜は記憶を遡る。
そう、たしか自分は、バイトに向かう途中だったはずだ。
いつもの通りにバイトへ向かい、それから――。
そこで、乃亜の心臓が一瞬、嫌な緊張に強張った。
通い慣れた道を歩んで、駅に向かう自分。
そんな自分を、突如襲ったものがあったのではなかったか。
すべてを思い出して、乃亜は目を見張る。血の気が引き、指先が恐怖と混乱によって震えた。
「そうだ……私……」
横断歩道を渡っている途中の乃亜に向かって、すさまじい勢いで迫ってきた鉄の塊。
そう、それは――。
「私……トラックに、撥ねられた……?」
生まれて初めて感じた衝撃と音。加えて、激痛を感じながら宙を舞ったのを覚えている。
乃亜は、思わず震えている自身の両手に視線を落とした。
「私、ひょっとして……死んじゃったの……?」
呟いてみたものの、しかし自分の両手は死んだ人間のそれには見えない。
いや、過去に死んだ経験がないので、死んだ己の手がどんなふうなのかはわからないけれども。
それでも、自分が森の中にいる理由は依然として不明である。
もしや、ここがあの世というところなのだろうか。ずいぶんと薄気味悪く、一般的なイメージとは乖離している気がするが。
そんなことを考えていると、突然ガサガサと草木をかき分ける音がした。
ぎくりとして、乃亜は緊張に肩を震わせながらそちらを見やる。
野生の獣だろうか。それとも、あの世らしく鬼や死神めいたものでも出るのだろうか。
不安と恐怖で動けないまま音の出所をじっと見つめていると、人影が木々の陰から現れた。
その人影は乃亜に気付くと、ぴたりと足を止める。
五十代くらいと思われる、男性だった。
鋭い眼光に、銀髪のオールバック。
背は高く、百八十はあるように見える。
青のチャイナ服に近いデザインの衣装を身にまとっており、その衣服から、細身だが筋肉質らしい体が見て取れた。
彫りの深い顔立ちは、海外の俳優を思わせる。漂う渋さが、それに拍車を掛けていた。
そんな男性が、乃亜をじっと見つめている。
未だ自身を襲う不安と恐怖から、乃亜はくちをひらくことが出来ない。
男性が、問い掛けてきた。
「……娘、何者だ」
「え、あ……わ、私……ですか……?」
「お前以外に誰がいる」
彼が鋭く両眼を細める。
乃亜は意味もなく辺りを見回しながら、おそるおそる答えた。
「あ、あの……私、乃亜っていいます。バイトに行く途中だったはずなんですけど、その、トラックに撥ねられちゃって……それで、気付いたらここに……」
胸の内で膨らんでいく不安に耐えきれなくなり、乃亜は勇気を出して相手に尋ねる。
「あのっ、ここ……どこなんですか……? おじさん、日本人じゃない……ですよね……?」
男性が、片方の眉を持ち上げた。
次いで視線を乃亜から外し、しばし思案する素振りを見せたかと思うと、改めて乃亜に向き直って訊く。
「……ここは、ガルニア国だ。お前がなにを言っているのかはよくわからんが……敵国のスパイではなさそうだな」
「ス、スパイ……? 映画の撮影かなにかですか……?」
言って、乃亜は周囲を見やってカメラを探したものの、それらしいものはおろか、スタッフさえも見当たらない。
男性は口許を手でおおって、またも考える様子を見せる。
乃亜は質問を重ねた。
「ガルニア国って、地図のどのへんなんでしょう……? すいません、私、そういうの疎くって。日本から、どれくらい離れてます……?」
日本からどれだけの距離があったところで、ここにいる理由に納得がいくわけではなかったが、問わずにはいられなかった。
男性は静かな眼差しで乃亜を見つめたあと、口許をおおっていた手を外して返答する。
「ニホン――などという国は、この世に存在していない。お前が未知の大陸から来たということであれば、話は別だが……」
「……はい?」
耳を疑うとは、こういう場面のことを言うのだろう。
文字通り、乃亜は己の耳を疑った。
日本が――存在していない。
そんなわけがない。日本が存在しないというのであれば、乃亜が過ごしたあの国はいったいなんなのだ。
もしや、日本だと乃亜が信じていただけで、本来の名前が別にあったのか――。
いや、そんなはずもない。
混乱が渦を巻き、脳内のあちこちで玉突き事故を起こして、乃亜の思考を停止させる。
そんな乃亜を見てなにかを察したのか、男性は浅くため息を吐いた。
「……どうやら、ワケアリらしいな。……ノア、と言ったか。お前、行くところはあるのか?」
「行くところ……?」
「もうすぐ日が暮れる。この辺りには狼も出るが」
「お、狼……?」
野犬なら出るかもしれないと考えたが、そんなものではなかった。
当然、狼と戦う能力など乃亜にはない。出会ったら最後、餌になるだけである。
「……行くところ……ないです……狼には食べられたくありません……」
「だろうな」
短く返した男性はそのまま乃亜に近付いてくると、乃亜の前で膝をついて顔を近付けてきた。
傍で見ると、ますます海外の映画俳優のように見える。
彼は続けた。
「儂はヴィクトールという。好きに呼べ。この近くに儂の家がある。お前が望むのなら、しばらく家に置いてやらんでもないが」
「ヴィクトールさん……の、おうち……ですか?」
「ああ」
ヴィクトールは立ち上がり、乃亜を見下ろしてあっさりと重ねる。
「狼どもに食われたいのなら、ここで寝ていろ。朝になる頃には、骨になってるだろうよ」
「お世話になります!」
乃亜は土下座をして頭をさげた。
小さく、ヴィクトールの笑った声が聞こえた気がした。
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