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掌上
しおりを挟む『おーねーがーいいいい、いーかーなーいーでええええええ』
今日もマリカとニノの声が屋敷中に響き渡る。
ラティマの家で数日寝て過ごし、すっかり回復したライラを待っていたのはラティマ医師の娘と息子、マリカとニノだった。
ライラが元気になって来た、というのを察した2人は大人達に怒られてもずっとライラの部屋の扉を少し開けてその様子を伺い、日々その距離を縮め、ライラと過ごす時間を段々と増やし、今やライラの右腕にマリカ、左足にニノが絡まっている。
特に、ライラの引越しが決まってからは幾らカメリアに叱られても、2人はライラから離れなかった。
ここに住んでいい、ここにずっと居ればいい、と家主の許可も無いのに子供達は連日ライラにそう言い続ける。
だが、それにラティマ家の大人達は頷けない。
なぜなら、キアラ皇女殿下直々に、ライラの引っ越しの話が来たからだ。
フィデリオでも無く、次期女帝となって帝国を治める、第一皇女…
それには、計り知れない大きな意味がある。
『そなたに仕事と住居を与えよう。余の妹の教育係…いや王国の言葉やしきたり、あらゆる事を教えて欲しい』
最高級の素材で出来たソファに腰掛けた女神は、ゆったりと煙管を燻らせライラにそう言った。
トロメイから帰って来てから、ライラがキアラに謁見するまでには少し間が空いてしまった。
熱も引き、そろそろ連絡をせねば、と思っていた頃、宮殿から厚く上等な便りは届いた。
ウーゴが冷や汗をかきながらライラに便りを届け、ウーゴはライラがそれを開くまでテコでも動かなかったので、仕方なくライラもそれをすぐに開封した。
要約すると、風邪は治ったのか、顔を一回見せに来い、そんな内容だ。
皇室の刻印が押された紙に、滑らかな美しい文字が綴られ、キアラ殿下のサインもしっかり印されたその便りは、ウーゴが冷や汗をかくに相応しい物で、ライラも同じような緊張感を感じた。
直ぐに手筈は整えられ、ライラはキアラに謁見した訳だが、意外だったのは案内された部屋にはキアラしか居なかった事だ。
てっきりフィデリオやレオが居るものと考えていたが、キアラは薄いピンク色のフワッとしたドレスの上に、濃茶の薄く鞣された革のドレスを纏って、彫刻の女神像さながらであった。
革のドレスには細やかで美しい模様が一面に施されており、世にも珍しい代物だ。
世にも珍しい…というより、エルメレにも王国にも、同じものは2つとして無いだろう。
実際ライラは見たことも無いものだった。
ドレス1枚で、御身が一体何者であるのか、この天上人は示している。
忘れるな、とライラの目に焼き付かせるように。
部屋に入って早々、簡単な挨拶を交わし、体調の事を聞かれ、そしてすぐに話は本題に入った。
『我が妹は、末子だ。故に、父上も殊更可愛がっておられる。妹の母が、父上の寵妃であられるのも理由かもしれぬが…』
キアラはフーッと息を吐いた。
どうやら今日は妙なものを吸ってはいないらしい。
妹の姫君に…王国の事を…?
まさか…嫁がせる気なのか?
もしくは婿でも取る気なのだろうか?
寵妃の娘で、皇帝陛下が溺愛する末子…
宮殿から一歩でも遠い場所へ嫁がせる気があるようにはライラには到底思えなかった。
婿を取るとして…
王国からエルメレの風習に合わせられる血統尊き紳士が果たして何人居るのだろう…
キアラの表情からは何を考えているのかはライラは読み取れない。
ただ、ライラのトロメイでの働きは及第点を貰ったらしい。
王国からの厄介な手土産は多少使えると踏んだのだろう。
『聞きたいことがある顔だな。なんなりと申して良いぞ』
キアラがライラを上目遣いで見つめる。
『恐れながら…』
とライラが言った時、扉をノックする音がした。
キアラが許可を出すと、すぐに扉は開かれる。
そこには中性的なこれまたえもいわれぬ美しい男性が入って来た。
『ノア、ご苦労であった。ちょうど良い、紹介しよう。ライラ、我が側室の1人…オナシス卿だ』
オナシス卿は朗らかな笑みを浮かべてライラに挨拶をする。胸元まで伸びる栗色の髪が、フワッと揺れた。
『ライラ様のお噂は伺っております。
無事にお戻りになられて良かったです』
人の心を惑わす美しさだ、とライラは思った。オナシス卿には、するりと懐に入り込むような、不思議な魅力がある。
女性のような柔らかい顔立ちだが、それも色香となりスラリとした体躯に似合っていた。
ただ、不本意な事に、オナシス卿の姿形は、なぜか王国に居る無愛想で酷く歪んだ性質をお持ちの人物をライラに思い起こさせる。
不敬だ
あり得ない
思い起こす事自体が重罪だ
だが長い髪やその中性的な魅力は確かに共通した特徴といえる。
『ノアが来た故、私はこれで失礼する。必要な書類はノアが持って来た。わからぬ事はノアに聞くと良い。
…此度の事、特に帰路は災難であったな。警護を手薄にしたのは余とフィデリオの読みが甘かったせいだ。すまなかった…。
バルドリックからも其方には多く助けられたと聞いた。重ねて感謝申し上げる』
キアラは煙管を置き、すっと立ち上がると、レオに似た美しい虹彩を放つ目でライラを見下ろし、そう言った。
今までよりも、幾分柔らかな声色と雰囲気で、気を抜けば拝みそうな程キアラは神々しかった。
ライラは呆気に取られてとりあえず立ち上がり、深く、恭しく頭を下げる。
ライラにはアクイラ卿を助けた覚えは一度も無い…むしろ世話や迷惑を掛けてばかりだったが…
アクイラ卿はアクイラ卿なりに、信仰する女神様にそれなりに良き報告が出来たのだろう。
頭を上げた頃、既に扉は閉まり、キアラが出て行った後だった。
『馬車までお送りしましょう。道すがら、次のお引っ越し先とお仕事の話を簡単に致しますね』
謁見は終わり、オナシス卿に促され、ライラも後に続いた。
見れば見るほど麗しく、後ろ姿だけで誰だかハッキリと分かる光を放った人物は、耳に心地よい声でライラの引っ越し先の話をする。
だが、なぜ側室がこのような事をするのか…
簡単な知らせでも構わないし、烏滸がましくもフィデリオから聞く方が状況的にライラにはしっくり来る。
『…なぜ、私がかようなお話を、とお思いでございますか?』
オナシス卿はライラの方を向き、相変わらずの心地の良い声でそう言った。
心の中を見透かされた様で、ライラは一瞬ピクッと目を見開く。
『いえ、その…オナシス様程の方に…ただただ恐れ多く、キアラ殿下のご期待に添えるか、少し不安で…』
上手く口が回らないが、ライラはしどろもどろでそう答える。
『実は…キアラ殿下の妹君、ミリアム殿下へ私が手習を任されていたのです。
手習、とはいえ、最低限のマナーや立ち居振る舞いでございますが…』
確かにオナシス卿にご教授いただけることは多いだろう。立ち居振る舞いや醸し出す雰囲気、まさしく貴族や皇族…特に女性らしさ、といった表現し難いたおやかさのようなものは、この人そのものだ。
『ミリアム殿下は、新しき事がお好きなのです。なので、気分転換に、とキアラ殿下のご配慮で…』
要はミリアム殿下という方は手習さえ嫌で、その代わりに王国の事を…
オナシス卿でさえ無理ならばライラには不可能だ。
ライラの胸がズンッと重くなる。
気分転換…それも本当なのかは疑わしい。
貴人達の耳触りの良い美しい言葉の裏を読むのは、ほとほと骨が折れる。正しくライラの折れてるのかくっついてるにか分からない骨に、ピリっと痛みが走るのだ。
生き延びたいので、寿命を縮めたいとは思ってはいないが、生きるためには心身を尽くして寿命を削らなければならないらしい。
″口説くのに命を賭ける程愚かではありません…″
なぜ、今あの言葉を思い出すのだろう。
ラティマの家に帰ってからは会っていないあの人の言葉に、裏は無かった。
深く広い海を軽々と超えて来たあの人は、今何をしてるのだろう…
ずっと付けたままの、ライラの人差し指には歪んだ指輪が光る。無意識に、反対の手でその指輪に触れていた。
『…ベルナルディ卿はお元気ですよ』
その言葉に、ライラは肩をピクッと震わせる。
やはり、心の中を見透かしているのだろうか…
驚くライラの顔を見て、オナシス卿はふふっと笑みを浮かべた。
『…帰還されたあとの業務に追われてますが、もう直ひと段落されるでしょう。
余程早く終わらせたいのか、毎日無理を押してお進めになるので、周りが諌められる程です。一体、何故でしょうね?』
オナシス卿は相変わらずの笑みを浮かべて、とても楽しそうだ。
余りにも楽しそうなので、ライラも揶揄いを直に喰らってしまう。
ライラの頬と首が熱を持った。
『誠に、お2人共…嘘のつけない方達ですね』
またオナシス卿はふふッと麗しい笑みを浮かべた。
人の心を見透かすその能力で、レオの気持ちも全て知っているのだろうか?
少なくとも、全てキアラには筒抜けなのだろう…そう思うと、ライラは真っ赤になりながらも大きなため息を吐く。
全て、あの女神様の掌の上だ、と。
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