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千李の前職
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酔い潰れた英文を客間に泊めた翌朝、木蓮が起きた時には英文は寧世宮を出ていた。
しばらくそっとしておきたいのは山々だが、体術の稽古をつけてくれる人を探していることは耳に入れなければならないだろう。
あまり気乗りはしないが、英文に会いに行くことにし、木蓮は昼食時に大星殿を訪れた。
ちょうど話し合いが終わったのか、執務室から続々と人が出てくる。
藍染に銀糸を使った刺繍を施した旗袍は、官吏の中でも身分の高い者が着るものだ。
最後の一人が出てから、開けっ放しの大星殿の扉に近づく。
守衛が木蓮を止めようとしたが、ちょうど大星殿から出ていくところだった千李が木蓮を見るなり声をかけた。
「木蓮、陛下に何か御用?」
「折り入って相談があって。今、忙しいかな?ダメそうならまた後で来るよ」
供もつけずにフラリと天子に会いに来た上、皇帝と並ぶ立場の皇后である千李にも親しげに話しかける様子を見て、守衛は木蓮が何者か察した。
木蓮に伸ばした手を引っ込めると、彼は深く跪いた。
「確かこれから徐貴妃の宮に出掛けると仰っていたわ。少しなら時間があるかもしれない。執務室まで案内するわ」
「ありがとう」
千李の申し出に甘え、木蓮は初めて英文の住まいである大星殿に足を踏み入れた。
真っ直ぐ伸びる廊下は歩くたびに少し床が軋み、今の季節が初夏であることを忘れるくらいひんやりとしている。
廊下の先には黄金を溶かして塗装した分厚い扉があり、門前に武装した兵士が二人いる。
彼らは千李を見るなり、直ぐ様扉を開き跪いた。
「皇后娘娘、何かお忘れ物でも……おや、仙女様?」
玉座と豪奢な文机の前で、王苒は英文の衣服を畳んでいた。
部屋の端の衝立の向こうで英文は着替えていたらしい。
「誰だ?」
「私です。陛下、木蓮が大星殿の前におりましたので連れて参りました」
衝立の後ろから、装飾が一切ない質素な服に着替えて英文が出てきた。
黒一色の旗袍は英文の白い肌と彼の気品を引き立て、いつもより幾分かキリッとした雰囲気を醸している。
「木蓮か。今日はあまり時間が無いから手短に頼む」
目が合った瞬間にさりげなく逸らされたが、昨日のことを考えると無理もない。
気まずい感情を忘れるよう意識し、木蓮は明るく言った。
「来月には恵泉寺に行かないとでしょう?その前に体術の稽古をつけてもらうようにって栄洛寺の住職に言われたの。それで誰か、私に体術を教えてくれる人を紹介して欲しいなって」
「なるほどな。皇后、月に何日かで良いから頼めるか?普段は静雲藍を師としてつける」
体術の師匠をつける話に、なぜ千李の名が出たのか。
意味がわからず、木蓮はただ目を丸くした。
やや間が空き、英文は得心したように手を叩いた。
「そうだ。木蓮は皇后が私に嫁ぐ前に何の仕事をしていたのか、知らないのだった」
「働いていたの?」
「ええ、肉体労働を少々」
うふふ、と軽やかに微笑む千李に、英文は呆れたような顔をした。
「そんな軽い経歴ではなかろう。千李は私に嫁ぐまで舜国十二将の総大将だった女傑だ。今は後宮の妃嬪の屋敷の警備をする後宮警護隊の隊長でもある。それに、私の即位以来弁理軍機大臣達に稽古をつけてくれている。戦うだけではなく、教えることに関しても一流の武人だ」
それを聞いて、今度は木蓮が納得したような声を上げてしまった。
初めて会った時から、千李が纏う氣について気になっていたのだ。
元軍人なら、戦場で敵と斬り結ぶこともあるだろう。
「私で良ければ喜んで。明後日から秀女選抜の複選が始まるから、明日しか空いていないのだけれど良いかしら?」
「あ、常に暇なんでいつでも大丈夫です」
この広大な城の中で一番暇を持て余しているのはまず間違いなく自分だろうと思うと、木蓮は少ししょっぱい気分だった。
しばらくそっとしておきたいのは山々だが、体術の稽古をつけてくれる人を探していることは耳に入れなければならないだろう。
あまり気乗りはしないが、英文に会いに行くことにし、木蓮は昼食時に大星殿を訪れた。
ちょうど話し合いが終わったのか、執務室から続々と人が出てくる。
藍染に銀糸を使った刺繍を施した旗袍は、官吏の中でも身分の高い者が着るものだ。
最後の一人が出てから、開けっ放しの大星殿の扉に近づく。
守衛が木蓮を止めようとしたが、ちょうど大星殿から出ていくところだった千李が木蓮を見るなり声をかけた。
「木蓮、陛下に何か御用?」
「折り入って相談があって。今、忙しいかな?ダメそうならまた後で来るよ」
供もつけずにフラリと天子に会いに来た上、皇帝と並ぶ立場の皇后である千李にも親しげに話しかける様子を見て、守衛は木蓮が何者か察した。
木蓮に伸ばした手を引っ込めると、彼は深く跪いた。
「確かこれから徐貴妃の宮に出掛けると仰っていたわ。少しなら時間があるかもしれない。執務室まで案内するわ」
「ありがとう」
千李の申し出に甘え、木蓮は初めて英文の住まいである大星殿に足を踏み入れた。
真っ直ぐ伸びる廊下は歩くたびに少し床が軋み、今の季節が初夏であることを忘れるくらいひんやりとしている。
廊下の先には黄金を溶かして塗装した分厚い扉があり、門前に武装した兵士が二人いる。
彼らは千李を見るなり、直ぐ様扉を開き跪いた。
「皇后娘娘、何かお忘れ物でも……おや、仙女様?」
玉座と豪奢な文机の前で、王苒は英文の衣服を畳んでいた。
部屋の端の衝立の向こうで英文は着替えていたらしい。
「誰だ?」
「私です。陛下、木蓮が大星殿の前におりましたので連れて参りました」
衝立の後ろから、装飾が一切ない質素な服に着替えて英文が出てきた。
黒一色の旗袍は英文の白い肌と彼の気品を引き立て、いつもより幾分かキリッとした雰囲気を醸している。
「木蓮か。今日はあまり時間が無いから手短に頼む」
目が合った瞬間にさりげなく逸らされたが、昨日のことを考えると無理もない。
気まずい感情を忘れるよう意識し、木蓮は明るく言った。
「来月には恵泉寺に行かないとでしょう?その前に体術の稽古をつけてもらうようにって栄洛寺の住職に言われたの。それで誰か、私に体術を教えてくれる人を紹介して欲しいなって」
「なるほどな。皇后、月に何日かで良いから頼めるか?普段は静雲藍を師としてつける」
体術の師匠をつける話に、なぜ千李の名が出たのか。
意味がわからず、木蓮はただ目を丸くした。
やや間が空き、英文は得心したように手を叩いた。
「そうだ。木蓮は皇后が私に嫁ぐ前に何の仕事をしていたのか、知らないのだった」
「働いていたの?」
「ええ、肉体労働を少々」
うふふ、と軽やかに微笑む千李に、英文は呆れたような顔をした。
「そんな軽い経歴ではなかろう。千李は私に嫁ぐまで舜国十二将の総大将だった女傑だ。今は後宮の妃嬪の屋敷の警備をする後宮警護隊の隊長でもある。それに、私の即位以来弁理軍機大臣達に稽古をつけてくれている。戦うだけではなく、教えることに関しても一流の武人だ」
それを聞いて、今度は木蓮が納得したような声を上げてしまった。
初めて会った時から、千李が纏う氣について気になっていたのだ。
元軍人なら、戦場で敵と斬り結ぶこともあるだろう。
「私で良ければ喜んで。明後日から秀女選抜の複選が始まるから、明日しか空いていないのだけれど良いかしら?」
「あ、常に暇なんでいつでも大丈夫です」
この広大な城の中で一番暇を持て余しているのはまず間違いなく自分だろうと思うと、木蓮は少ししょっぱい気分だった。
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