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2.完璧な婚約者
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「パティシエ根本のデザートね。直ぐに用意するよ」
穏やかに微笑むような表情を見せながら、玲さんが柔らかな声で囁く。
何でも言うことを聞いてくれる理想的な婚約者だ。
一目惚れして玲さんに初恋のような感情を抱いたはずなのに、私の心はどんどん彼から離れて行った。
それは、彼のせいだけではない。
私の家庭も彼と婚約した後、不幸が続いた。
それゆえに私の心はいつも不安定になった。
彼と婚約した半年後には父の不倫が発覚した。
母の若い頃とそっくりな20代前半の一般人との不倫は、母の自尊心をズタズタにした。母はその頃から異常にまでSNSのフォロワーに依存するようになった。自分を称賛してくれる人間の言葉だけに耳を傾けて悦に浸っている姿は病的だった。
私たち家族は驚くほどのスピードで崩壊し始めた。
元々、物凄い仲良し家族という訳ではないが、そこそこ居心地の良い家庭だったはずだった。
しかしながら、父は愛人宅に入り浸り始め、母は自分の不幸を認められずSNSに依存。
兄は家庭に嫌気が差して、自分の優秀さを武器に海外に逃亡した。家から逃げる程の能力も持たない私は地獄に止まるしかなかった。
「玲さんって本当に気が利かないよね。自分では気が利く良い男のつもりなんでしょ。そんな使えないのに、よく専務なんかやってるよね。しょっちゅう私のところに来てて暇そうだし、本当はまともな仕事なんか任せて貰ってないんじゃないの?」
何も言い返して来ない事を分かりながら、わざと私は彼を怒らせようと毒を吐いた。
その瞬間、彼の目が鋭くなった気がして私は身震いした。
「そんな意地悪な事を言わないで、まぁ、これでも飲んで待っててよ。水分、補給⋯⋯」
玲さんが、また口角をあげて穏やかな笑顔を作っている。
彼から手渡されたのはペットボトルに入ったスポーツドリンクだ。
「はぁ、玲さんって本当に不躾な人⋯⋯。紳士的にクリスタルのグラスに注いでくれても良いのに、この私にタコみたいにペットボトルに吸いつけって? その一手間もかけられないって、どんな教育を受けてきているんだか⋯⋯」
私は再び毒を吐きながらペットボトルに口をつけた。
本当は喉がカラカラで死にそうだった。
このような絶望的な私を見捨てずに毎日見舞いに来てくれる玲さんにお礼を言いたかった。
でも、口から出るのはいつも憎まれ口だ。
素直になって感謝など言ったら死ぬ病気でも患っているのかもしれない。
それくらい私は彼の前では悪態ばかりついてしまっていた。
優しく微笑んでいるように見えて、いつも冷たく怒っているような彼に恐怖していたのか彼の前では虚勢を張っていた。
「あ、あれ?」
何だか意識が朦朧としてくる。
私はそれ程に衰弱していたのかもしれない。
私を見下ろす玲さんの目が冷たさを隠す事をやめたかのように睨みつけている。
「柏原凛音⋯⋯お前は本当に人として終わってるな。顔だけは好みだったから躾るだけだと思ったのに⋯⋯」
私を非難する玲さんの声は本物か幻聴かも分からない。
悪態ばかりつき傲慢で家族にも友達からも距離を置かれる自分が詰んでいる事なんて自分自身が一番分かっていた。
私は薄れゆく意識の中で、HIROの屈託無い笑顔が見たいと願った。
♢♢♢
目を開けるとお手伝いさんが百本近くある大きな真っ赤な薔薇の花束を抱えている。私はどうやらダイニングルームにいるらしい。朝日が差し込むテーブルの上に朝食が用意されている。
「凛音お嬢様、素敵な赤い薔薇の花束が婚約者の曽根崎玲様より届いてますよ。17歳のお誕生日おめでとうございます」
私は目の前にあるエックベネディクトに思いっきりフォークを突き刺した。
真っ黄色な黄身が漏れ出してきて、私は唐突に17歳の誕生日のことを思い出した。
朝食をとりにダイニングルームに向かうと、愛人宅に入り浸っている父はおろか母までも帰っていなかった。
この日、母は父に対抗するかのように若いモデルと浮気をした。
スマートフォンを見ても誰からも誕生日祝いのメッセージは届いていなかった。
16歳の誕生日までは兄はどこにいてもお祝いのメッセージをくれていた。
寂しさに泣きそうになり席についたら、玲さんから真紅の薔薇の花束が届いていた。
私はその薔薇の花束を抱きしめると胸がいっぱいになり、朝食も食べずに部屋に戻って枕を噛んで声を殺して泣いた。泣き腫らした顔で学校に行く訳にも行かず、仮病を使ってお休みをした。
「お手伝いさんって佐藤さん? 鈴木さんだっけ? その薔薇いらないからあげるわ」
むせかえるような薔薇の匂いが嫌いだ。
玲さんは私に好きな花を尋ねてくれたこともない。
『とりあえずの薔薇』をプレゼントしてくる彼は、そもそも自分で花束を注文しているかも怪しい。
「斉藤です。あの⋯⋯本当に宜しいのですか? 1本350円以上はしそうな薔薇なのに」
斉藤さんは嬉しそうに目を輝かせ、艶々に輝く真紅の薔薇の美しさに見惚れている。
花を貰って嬉しいという感情が私にはないし、花を美しいと思う感性もない。
それならば、この花に価値を感じる斉藤さんが貰った方が良いだろう。
「そんな薔薇で喜んでくれるなら、どうぞ!」
「嬉しいです。実は今日、記念すべき20年目の結婚記念日なんです」
斉藤さんは私から横流しされた薔薇を夫にでもプレゼントするつもりなのだろう。彼女の思考が全く理解できないが、薔薇を抱きしめる彼女は幸せそうだ。
「それは良かった」
心からの言葉だった。
本当はどんな贈り物を送っても喜んでくれる相手がいる斉藤さんが羨ましかった。
私は時間を戻ったのかもしれないし、夢を見ているのかもしれない。
私は自分に都合よく、再び神が私にチャンスをくれたのだと結論付けた。
HIROが死んだのは私の17歳の誕生日から9ヶ月後だから、私には彼を救う事ができる。空っぽで虚しい私の心を埋めてくる彼は私のヒーローだ。ヒーロが死んだら物語は終わってしまう。
夢うつつの中、玲さんの本音を聞いたのを思い出した。
彼は誰も相手にされなくなった私にとって最後の砦だった。
今となっては、私にとっての彼は最後の砦でも未来を保証する保険でもない。
私は朝食をとり終えると、学校に向かった。
♢♢♢
真っ白な白亜の新校舎は学校とは思えない程、贅を尽くして建設されている。
大理石の床は今日も艶々に磨き上げられていた。私の祖父が創立70年祝いという体で学校に寄付した校舎だ。教師たちも生徒もその事実を知っていて、『くれぐれも柏原凛音を宜しく』と言う意味だと悟っている。
私はそれ程の賄賂がないと追い出されそうな悲惨な学業成績と問題行動が多い生徒だ。
「ご機嫌よう」
白い古風なセーラー服に身を包んだ上品ぶった子たちが、私を見るなり会釈してくる。毎日のように続くこの光景にうんざりした。
私は微笑みながら挨拶をしてくる子たちをことごとく無視する。それでも皆が私に挨拶をしてくるのは、私に「挨拶もできない」と言いがかりをつけられるのが怖いからだ。
私は教室の席につくなり、『スーパーブレイキン』のファンクラブの会報を開き眺めた。回帰前は周囲から赤点ばかりだけど、実は他言語はできるのではと思わせる為にアラビア語やらドイツ語の新聞を取り寄せて読んでいた。でも、今は他人の目なんてどうでも良い。どうせ心の中では皆私を笑っていると気づいていたのに彼らの目を気にしていた過去の自分が馬鹿らしい。
施設育ちの少年がブレイクダンスにハマって、スターを夢見て大衆を沸かせる。『みんなを楽しませたい!』と言う文言と共に、私と同じ年のHIROのドアップの写真が載っている。無邪気に笑う笑顔は年齢よりも幼く見えて、歯並びが少し悪くて八重歯があるのが可愛らしい。
(歯列矯正くらいしろよ⋯⋯芸能人なんだから⋯⋯)
微笑ましい気分でページをめくっていると、手元に影がかかるのが分かった。
「か、柏原さんって『スーパーブレイキン』のファンなの?」
震える声に反応して顔を上げると、ふわふわの肩までの天然パーマをした南野美湖(みこ)が頬を染めて私を見ていた。
彼女は良家の出ではないのでクラスメートから軽視されているが、成績優秀で真面目な私とは対極にいる子だ。
穏やかに微笑むような表情を見せながら、玲さんが柔らかな声で囁く。
何でも言うことを聞いてくれる理想的な婚約者だ。
一目惚れして玲さんに初恋のような感情を抱いたはずなのに、私の心はどんどん彼から離れて行った。
それは、彼のせいだけではない。
私の家庭も彼と婚約した後、不幸が続いた。
それゆえに私の心はいつも不安定になった。
彼と婚約した半年後には父の不倫が発覚した。
母の若い頃とそっくりな20代前半の一般人との不倫は、母の自尊心をズタズタにした。母はその頃から異常にまでSNSのフォロワーに依存するようになった。自分を称賛してくれる人間の言葉だけに耳を傾けて悦に浸っている姿は病的だった。
私たち家族は驚くほどのスピードで崩壊し始めた。
元々、物凄い仲良し家族という訳ではないが、そこそこ居心地の良い家庭だったはずだった。
しかしながら、父は愛人宅に入り浸り始め、母は自分の不幸を認められずSNSに依存。
兄は家庭に嫌気が差して、自分の優秀さを武器に海外に逃亡した。家から逃げる程の能力も持たない私は地獄に止まるしかなかった。
「玲さんって本当に気が利かないよね。自分では気が利く良い男のつもりなんでしょ。そんな使えないのに、よく専務なんかやってるよね。しょっちゅう私のところに来てて暇そうだし、本当はまともな仕事なんか任せて貰ってないんじゃないの?」
何も言い返して来ない事を分かりながら、わざと私は彼を怒らせようと毒を吐いた。
その瞬間、彼の目が鋭くなった気がして私は身震いした。
「そんな意地悪な事を言わないで、まぁ、これでも飲んで待っててよ。水分、補給⋯⋯」
玲さんが、また口角をあげて穏やかな笑顔を作っている。
彼から手渡されたのはペットボトルに入ったスポーツドリンクだ。
「はぁ、玲さんって本当に不躾な人⋯⋯。紳士的にクリスタルのグラスに注いでくれても良いのに、この私にタコみたいにペットボトルに吸いつけって? その一手間もかけられないって、どんな教育を受けてきているんだか⋯⋯」
私は再び毒を吐きながらペットボトルに口をつけた。
本当は喉がカラカラで死にそうだった。
このような絶望的な私を見捨てずに毎日見舞いに来てくれる玲さんにお礼を言いたかった。
でも、口から出るのはいつも憎まれ口だ。
素直になって感謝など言ったら死ぬ病気でも患っているのかもしれない。
それくらい私は彼の前では悪態ばかりついてしまっていた。
優しく微笑んでいるように見えて、いつも冷たく怒っているような彼に恐怖していたのか彼の前では虚勢を張っていた。
「あ、あれ?」
何だか意識が朦朧としてくる。
私はそれ程に衰弱していたのかもしれない。
私を見下ろす玲さんの目が冷たさを隠す事をやめたかのように睨みつけている。
「柏原凛音⋯⋯お前は本当に人として終わってるな。顔だけは好みだったから躾るだけだと思ったのに⋯⋯」
私を非難する玲さんの声は本物か幻聴かも分からない。
悪態ばかりつき傲慢で家族にも友達からも距離を置かれる自分が詰んでいる事なんて自分自身が一番分かっていた。
私は薄れゆく意識の中で、HIROの屈託無い笑顔が見たいと願った。
♢♢♢
目を開けるとお手伝いさんが百本近くある大きな真っ赤な薔薇の花束を抱えている。私はどうやらダイニングルームにいるらしい。朝日が差し込むテーブルの上に朝食が用意されている。
「凛音お嬢様、素敵な赤い薔薇の花束が婚約者の曽根崎玲様より届いてますよ。17歳のお誕生日おめでとうございます」
私は目の前にあるエックベネディクトに思いっきりフォークを突き刺した。
真っ黄色な黄身が漏れ出してきて、私は唐突に17歳の誕生日のことを思い出した。
朝食をとりにダイニングルームに向かうと、愛人宅に入り浸っている父はおろか母までも帰っていなかった。
この日、母は父に対抗するかのように若いモデルと浮気をした。
スマートフォンを見ても誰からも誕生日祝いのメッセージは届いていなかった。
16歳の誕生日までは兄はどこにいてもお祝いのメッセージをくれていた。
寂しさに泣きそうになり席についたら、玲さんから真紅の薔薇の花束が届いていた。
私はその薔薇の花束を抱きしめると胸がいっぱいになり、朝食も食べずに部屋に戻って枕を噛んで声を殺して泣いた。泣き腫らした顔で学校に行く訳にも行かず、仮病を使ってお休みをした。
「お手伝いさんって佐藤さん? 鈴木さんだっけ? その薔薇いらないからあげるわ」
むせかえるような薔薇の匂いが嫌いだ。
玲さんは私に好きな花を尋ねてくれたこともない。
『とりあえずの薔薇』をプレゼントしてくる彼は、そもそも自分で花束を注文しているかも怪しい。
「斉藤です。あの⋯⋯本当に宜しいのですか? 1本350円以上はしそうな薔薇なのに」
斉藤さんは嬉しそうに目を輝かせ、艶々に輝く真紅の薔薇の美しさに見惚れている。
花を貰って嬉しいという感情が私にはないし、花を美しいと思う感性もない。
それならば、この花に価値を感じる斉藤さんが貰った方が良いだろう。
「そんな薔薇で喜んでくれるなら、どうぞ!」
「嬉しいです。実は今日、記念すべき20年目の結婚記念日なんです」
斉藤さんは私から横流しされた薔薇を夫にでもプレゼントするつもりなのだろう。彼女の思考が全く理解できないが、薔薇を抱きしめる彼女は幸せそうだ。
「それは良かった」
心からの言葉だった。
本当はどんな贈り物を送っても喜んでくれる相手がいる斉藤さんが羨ましかった。
私は時間を戻ったのかもしれないし、夢を見ているのかもしれない。
私は自分に都合よく、再び神が私にチャンスをくれたのだと結論付けた。
HIROが死んだのは私の17歳の誕生日から9ヶ月後だから、私には彼を救う事ができる。空っぽで虚しい私の心を埋めてくる彼は私のヒーローだ。ヒーロが死んだら物語は終わってしまう。
夢うつつの中、玲さんの本音を聞いたのを思い出した。
彼は誰も相手にされなくなった私にとって最後の砦だった。
今となっては、私にとっての彼は最後の砦でも未来を保証する保険でもない。
私は朝食をとり終えると、学校に向かった。
♢♢♢
真っ白な白亜の新校舎は学校とは思えない程、贅を尽くして建設されている。
大理石の床は今日も艶々に磨き上げられていた。私の祖父が創立70年祝いという体で学校に寄付した校舎だ。教師たちも生徒もその事実を知っていて、『くれぐれも柏原凛音を宜しく』と言う意味だと悟っている。
私はそれ程の賄賂がないと追い出されそうな悲惨な学業成績と問題行動が多い生徒だ。
「ご機嫌よう」
白い古風なセーラー服に身を包んだ上品ぶった子たちが、私を見るなり会釈してくる。毎日のように続くこの光景にうんざりした。
私は微笑みながら挨拶をしてくる子たちをことごとく無視する。それでも皆が私に挨拶をしてくるのは、私に「挨拶もできない」と言いがかりをつけられるのが怖いからだ。
私は教室の席につくなり、『スーパーブレイキン』のファンクラブの会報を開き眺めた。回帰前は周囲から赤点ばかりだけど、実は他言語はできるのではと思わせる為にアラビア語やらドイツ語の新聞を取り寄せて読んでいた。でも、今は他人の目なんてどうでも良い。どうせ心の中では皆私を笑っていると気づいていたのに彼らの目を気にしていた過去の自分が馬鹿らしい。
施設育ちの少年がブレイクダンスにハマって、スターを夢見て大衆を沸かせる。『みんなを楽しませたい!』と言う文言と共に、私と同じ年のHIROのドアップの写真が載っている。無邪気に笑う笑顔は年齢よりも幼く見えて、歯並びが少し悪くて八重歯があるのが可愛らしい。
(歯列矯正くらいしろよ⋯⋯芸能人なんだから⋯⋯)
微笑ましい気分でページをめくっていると、手元に影がかかるのが分かった。
「か、柏原さんって『スーパーブレイキン』のファンなの?」
震える声に反応して顔を上げると、ふわふわの肩までの天然パーマをした南野美湖(みこ)が頬を染めて私を見ていた。
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