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22.恐れが消える時
「玲さんにクルーザーで海に落とされて殺された記憶があるの⋯⋯」
誰にも言えないような私の激白を聞くなり、兄は場所を鍵のかかっていた自分の部屋に移動させた。
確かに私の部屋はまだ盗聴されているかのうせいが残っている。
主人の不在が長かった兄の部屋には一切の生活感がない。元々、兄は非常に神経質な性格なので部屋は理路整然としていた。
兄は私をソファーに座るように促した。兄の留守中はメイドの掃除も入っていなかったのか、少し埃っぽく感じた。兄も同様に感じたようで、空中に舞って埃を手で追い払っている。兄は軽くため息をつくと、徐に口を開いた。
「それは2度目に太平洋沖で殺された記憶だ。1度目はパーティー会場の廊下で刺殺されている。俺とHIROとウェイターという目撃者がいた」
淡々と語り始める兄の言葉に背筋が凍る。私は自分の記憶にある以外にも玲さんに殺されていた。
震えがたまらなくなった私の隣に兄が座る。
そっと抱き寄せられ伝わってくる温もりに私は思い出せた断片的な記憶を話してみようと思った。
「私には私とHIROが恋に落ちたという話を聞いて、玲さんが涙を溜めて睨め付けてきた記憶しか⋯⋯」
私が思い出せたのは、HIROの提案に乗って玲さんに浮気をしたと嘘を吐いた時の玲さんの見た事もないような苦痛と悲壮感に溢れた表情だ。私はHIROの作戦がうまくいった事に驚きつつも、罪悪感に襲われた。玲さん程に無能な私を溺愛してくれる人はいない。度が過ぎる束縛くらい我慢するべきだったと反省した。
「その時、北京ダックをカットするナイフを添えた大皿をカートに乗せて通りかかったウェイターがいた。曽根崎はそのナイフで凛音を衝動的に刺殺した。その瞬間、時が戻ったのが1度目だ」
「私、その記憶はないわ。ただ、玲さんについては中学生の時に婚約した時から憧れと共に怖さを感じていた」
記憶がないが、玲さんは私を2度も殺しているという事だ。兄は非常に真面目で冗談を決して言わない。
私は二度も私を殺しながら、まだ私の婚約者であろうとする玲さんが怖くなった。
「思い出さなくて良い。凛音と曽根崎玲は側から見たら仲の良い夫婦だった。凛音自身も、まさか冷静沈着な夫が衝動的に自分を刺すとは思っていなかったのだろう。きっと、凛音の脳が心を守ために恐怖の記憶を封じている」
兄は私の瞳をじっと見つめ髪を撫でながら宥めるように語り出した。
私を見捨てたと思っていた兄の変わらぬ優しさに涙が止まらなくなる。
「お兄様は全部覚えているの?」
私の声は驚くぐらい掠れていた。
兄は私さえも忘れている『私が初めて玲さんに殺された記憶』を持っている。
「凛音が殺された時に俺が凛音を救いたいと強く願ったから、神様が記憶を残してくれたのかもな。時が戻ってから俺は曽根崎玲を徹底的に監視した。彼と中学生の凛音との婚約が成立してしまって焦ったよ。何とか婚約破棄させられないか動いたが難しかった。それで、曽根崎玲に監視をつけつつ、彼のイギリス留学中の行動を追ってみたんだ」
兄がロンドン支社に異動したいと言ったのは、てっきり父の不倫で柏原家が崩壊したから逃げたのだと思っていた。曽根崎家の権力は日本の至る所に影響を及ぼしている。兄はきっと手詰まりになるまで日本で私の為に動いてくれていた。
「私を守るため? 一人で戦っててくれてたの?」
兄の博樹は優秀なスーパーマンのような人間で、私は彼と自分を比べては自分は何もできないと劣等感に苦しんだ。
「凛音は俺にとって世界一大切な可愛い妹だ」
私は家から逃げ出したと思ってた兄が、自分の為に動いていた事に感動した。
時を超えて自分を守ろうとしてくれる兄もまた、HIROと同じように私のヒーローだ。
一週間後、兄は玲さんを断罪する準びを整えると柏原邸に呼び出した。玲さんは兄の姿を見るなり睨みつけた。
「曽根崎玲、凛音との婚約は解消して貰う。イギリス留学時代にお前がしたことは、間違いなく犯罪だ。妹をお前のような男に嫁がせる訳にはいかない」
兄はテーブルの上に玲さんが人を使い女性を暴行した証拠を並べた。痛々しい女性の傷跡の写真と、実行犯の証言。
玲さんはそれらを何の感情もないような表情で見ていた。
「曽根崎玲、ネットに晒して世間にお前を罰して貰う手段もとれるんだぞ。自分が万能だと勘違いするなよ。俺は妹を守る為なら何でもする。この件を公表しない代わりに凛音との婚約を破棄しろ」
玲さんはイギリス留学中ににも自分に言い寄って来た女性を他者に暴行させていた。
被害女性自身が顔出しで被害を公表した動画を撮影してあり、いつでも公表して良いと言っているらしい。
奈美子さんにしたような事を玲さんが他の女性にもしていた事に私は驚きを隠せなかった。
「玲さん、どうしてそんなことを?」
「鬱陶しく付き纏われたからだ。僕は凛音にしか興味がないのに! 僕は間違ってない」
「玲さんは間違ってるよ。一週間の期限で婚約破棄させてくれるんだよね。私は玲さんとは結婚できない。婚約を破棄してください!」
玲さんは私の言葉に見たこともない程に激昂した。
「なぜだ! 僕は誰より君を愛しているのに!」
玲さんに力強く両肩を掴まれ揺すられる。背の高い彼を見上げて彼の美しい顔を見ると、かつて彼を愛した記憶が蘇る。私は時を繰り返す前に本当に彼を心から愛して結婚した。
美しく優秀で私を溺愛してくれる完璧な男。溺れるように愛して結婚したはずなのに、過度な束縛に耐えられなくなった。そして、思い通りのならない私に我慢が効かなくなったのは彼も同じだ。
「自分に都合が悪い私は何度も殺す癖に! 愛してるなんて言わないで! 私は玲さんの事もう好きにはなれないよ! 私は玲さんのペット? 約束くらい守ってよ。人間扱いしてよ」
私は玲さんの腕を掴み訴えた。彼から私への気持ちは愛情ではない。彼からの私への感情は恐怖する程の執着心だ。
玲さんは渋々ながらも、婚約破棄に応じてくれた。
「お兄様、動画は公表しないで」
玲さんは私の言葉に顔をあげる。
「玲さんの為じゃないよ。被害者の女の子の為だよ」
私は玲さんの目を見てしっかりと自分の意思を伝えた。
玲さんが帰宅すると、私はソファーに崩れ落ちるように横たわった。そんな私を見て兄が静かに語りかけてくる。
「凛音、『JKロック』のキーボードをやるんだって?」
「やらないよ⋯⋯そんな目立つことしても恥をかくだけだもん⋯⋯」
虚勢をいつも張っている私も今の兄の前では素直になれた。私は兄が自分の為に動いていた事を知り、彼に虚勢を張るのをやめた。
色々な感情が溢れて涙が出そうになったので、私は咄嗟に両手で顔を覆った。私が何かをやっても失敗する。
だから何もやりたくないし、何もやらなければできない自分に向き合わなくて済む。自分の無能さに直面する勇気が私にはない。
『JKロック』のキーボードになりたいと申し出た時はHIROを救いたい思いに衝動的になっただけだ。今、冷静になってみれば、人に見られるような目立つ場所には絶対に行きたくない。きっと恥をかいて、柏原家の恥部だと笑われるに決まっている。
私は見た目と家柄しか取り柄のない価値のない人間だと自分自身が一番分かっていた。
「やってみろ失敗しても、死ぬわけじゃないんだし」
私の手の甲を兄が優しく撫でながら、顔を覗き込んでいる。
彼の瞳には明らかに不安そうな私の顔が映っていた。
私は新しいことに挑戦するのを怖い。大人しくして柏原家の檻に入ったお嬢様で偶像崇拝のように崇められているのが楽だ。私が逃げようとしているのを兄は気がついている。何の役にも立たない私を必死に守ろうとする兄が私を信じてくれている。
「婚約破棄できても、玲さんは私を追いかけてくる気がする。私が近づくとHIROや奈美子さんを危険に晒してしまうの」
やらない理由を見つけるのは簡単だ。
人を危険に晒す? そんな風に他人を気にしてあげるような出来た人間でも無い癖に人を言い訳に使う知恵だけはある。
「俺を信じろ。凛音の守りたいものも、俺がまとめて守ってやる。その為にずっと準備してきた」
兄は私のヒーローであり、本当にスーパーマンのような人だ。私は自分自身は全く信じられないが、彼の事は信じる事が出来た。
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