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第六夜 大狼ダリル
しおりを挟む井戸の底から掬い上げた金の指輪を手に、魔導師は納屋へと戻った。
ハティーシャの前では『変化の秘術』が解けない。
魔神の課した制約によって、元の姿に戻れぬばかりか術のひとつも使えない。
その姿は、どうあがいても黒々とした毛並みの大狼のままである。
だが彼女がぐっすりと眠っている時だけは、魔導師は人間の男であった。
「ハティーシャ……」
麦わらの上で丸まって眠る娘を見下ろし、狼の時と変わらぬ濃い紅色の瞳を細める。唸り声ではない己の声で、娘の名を紡ぐ。
魔導師は身をかがめ、恐る恐る、眠る娘の頬に触れた。
ただ、優しく触れる。
それさえも狼の姿では叶わないことだ。鋭い牙の並んだ口も、爪の生えそろった前脚も、ともすれば娘の柔肌を傷つけかねない。
長く節くれだった男の指先は、涙の跡が残る柔らかい頬の稜線を、慈しむように何度も辿った。
緩やかに波打つ金の前髪を優しく掻き分ける。さらした褐色の額に、そっと微風の如き控えめな口付けを落とす。
ただそれだけで、胸の奥が締め付けられる。
感じたこともない切ない喜びと苦しみが、空虚なはずの胸を満たす。己の中に人間らしい感情の揺らぎというものがあったことに、魔導師は新鮮な驚きを覚えた。
恋心とは、甘い夢の如きもの。
生来傲慢でひねくれ者の魔導師でさえ、素直に認めざるを得なかった。この娘のためならば、己に出来ることは何でもしてやろう、とさえ思ってしまう。
「ハティーシャ、ハティーシャ……我が『愛するもの』よ……」
魔導師は眠るハティーシャの指に、金の指輪をはめてやった。
※※※
「……っ!?……どうして……一体だれが?」
目が覚めて真っ先に、ハティーシャは己の指にはまる金の指輪に気づいた。それは確かに、昨日侍女の女が井戸に投げ入れてなくした筈の形見の指輪であった。輝く金の瞳を目いっぱい見開いて、まだ夢を見ているのではないか、と何度も何度も目をこする。
「嗚呼、太陽の男神様、月の女神様、砂漠の神々に感謝いたします……!」
その奇跡に、思わず神の名を口にするハティーシャの姿に、狼の姿に戻り傍らに寝そべっていた魔導師は不服げに唸った。
──ウ゛ルゥゥゥ……
(ハティーシャめ……神ではなく我に感謝するべきであろうが!)
だが魔導師の不満にハティーシャが気づく筈もない。
「嗚呼!こんな嬉しいことってないわ!ねぇダリル、ダリル!私今日、お父様にお会い出来るのよ!これがあれば、きっと娘だと認めて貰えるに違いないわ!」
ハティーシャは花咲くような美しい笑顔と共に、魔導師を覗き込む。抱き寄せられれば褐色の頬が近づく。今日もまた、ハティーシャはちゃんと忘れずにおはよう、と囁きながら口付けてくれる。
彼女の笑顔を見ていると、魔導師はふわふわと心地よい幸せに包まれる。
これはいつぞやの恩返しなどではない。
己の手でその涙を拭ってやることが出来ぬなら、せめて雨雲も嵐も何もかも、彼女の上から取り除いてやろう。そう思った。
己が間違っていた。例え直接感謝されずとも、ハティーシャが笑顔であるならそれで十分だ、と魔導師はモフモフの体を抱きしめられながら思い直した。柄にもなく満足した。
しかして、その日の午後。
ハティーシャと魔導師は白亜の王宮に案内された。
恐ろしげな大狼を共に連れていきたいと主張するハティーシャに、王宮からの使者は懸念を示した。しかし、どうしてもダリルも一緒にと頼み込むハティーシャに、王宮内では首輪と引き縄を付けることを条件に渋々許可が下りた。
魔導師は憤慨した。
(聡明なる魔導師たる我が首に、理性なきケダモノのように首輪と引き縄だと!? えぇい!不敬であるぞ!引き裂いてやろうか!)
──グゥ、ルルル!
断固として抗議の唸り声を上げた。
けれど、ハティーシャは狼の前に跪いて、ぎゅ、とそのフワフワの毛に覆われた頬を両手で挟む込む。
「お願いよ、ダリル。首輪だなんて嫌なのは分かるけれど、少しだけ堪えて言うことを聞いて頂戴。でないと私たち、また離れ離れになってしまうわ」
──クゥン……
(ぐ、ぅ……ハティーシャ、そなたがそこまで懇願するのならば……致し方あるまい……)
そっと頬を撫でながら囁きかけるハティーシャに、魔導師は易々と折れた。
灯火のように眩い金の瞳に覗き込まれると頭の奥がぼんやりする。ふわりと抱きしめられると甘い蜂蜜のような匂いにクラクラする。大人しく首を垂れ、首輪を受け入れた。
丈夫な首輪から伸びる引き縄の先に、ハティーシャの華奢な指先が絡む。大事そうに握りしめる。途切れることなく繋がる一本の縄を見ると、魔導師は何故だか満更でもない気持ちになった。
白い大理石の回廊を、ハティーシャと狼は並んで歩く。
(一体何処まで歩かせるつもりだ? たかだか砂漠の小国の国王如きが、勿体ぶり過ぎではないか?)
広い庭園の端から王宮へ、そしてまた王宮の回廊から回廊へ。アーチ状の飾り屋根が美しい回廊が続いている。散々歩かされてくたびれた魔導師が心中悪態をつきだした頃。先達の使者が大きな扉の前で立ち止まった。
使者は扉の前で朗々と響く美声で口上を述べる。
「太陽の男神のご寵愛深き、国王陛下に申し上げます!ハティーシャなる娘をお連れしました」
「……入れ」
扉の奥から聞こえたのは、老いた男のしわがれた声だった。
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