6 / 29
第五夜 愛するもの
しおりを挟む魔導師はじっと夜を待った。
ハティーシャは庭園や街のあちこちを歩き回り、何とかして井戸に落ちた指輪を見つける手だてを探した。だが深くて暗い井戸の水底に沈んでしまった指輪を掬いあげる方法など、どんな知恵者も思いつかなかった。
夜も更けた頃、納屋へ戻ったハティーシャは哀れなほど憔悴しきっていた。
明日は待ちに待った王との面会だというのに、肝心の証拠の指輪はまだ井戸の底だ。
納屋の麦わらの上。魔導師は、疲れ果てて眠るハティーシャの抱き枕としての役割を果たし終えると、するり、とその腕の中から抜け出した。
(哀れなハティーシャよ……こんなことなら、最初からあの年増女の息の根を止めておくべきであったわ)
魔導師はいつになく苛立っていた。
漆黒の狼はきしむ扉を濡れた鼻先で押し開け、外に出る。星空の下、その姿は既に長身痩躯の男へと変じていた。
「しもべよ、しもべ。そこにいるのであろう」
「……御主人様、御主人様。聡明なる魔術の司、恐るべき獣の魔導師、ジャハーンダール様。ここに。しもべは、ここにございます」
足元の影がぬるりと蠢き、使い魔が答える。魔導師は井戸へと歩み寄った。
「……良いか。何者も近づかぬよう、見張っておれ」
「畏まりましてございます」
言うが早いか、長身痩躯は一匹のイモリへと姿を変える。
真っ黒い体と真っ赤な腹、円らな瞳は紅色の小さなイモリである。
イモリはスルスルと井戸の壁を伝い下り、ちゃぽん、と水の中へ潜った。
月明かりも星明りも届かぬ井戸の中は真っ暗だ。けれど夜行性のイモリの目には、水底でキラキラと微かな光をため込んでいる金の指輪がすぐに見つかった。
ぐ、ん、と小さな四肢を動かして底まで潜る。ぐい、と指輪の縁を押し上げ首に輪を通すと、太い尻尾で井戸の底を蹴り浮上する。小さなイモリの体に金の指輪は大層重く、気を抜けばすぐに沈んでしまいかねない。溺れぬように必死で四肢を動かし、ぷくぷく泡を吐き出しながら水面に辿り着いた。
(畜生めッ……!我がこのような使い魔の真似事をする羽目になろうとは……それもこれもあの侍女の、ひいてはこの国の王妃とやらのせいではないか!)
魔導師は憤った。怒りに身を震わせ、指輪の重さに引きずられながら、イモリはなんとか壁を登り切った。
ぬぅ、と金の指輪を首にはめたイモリが井戸の縁から顔を出すと、井戸の影に潜む使い魔が騒めいた。
「流石は偉大なる変化の使い手!聡明なる御主人様!アカハライモリなら、壁を上るのも水中を泳ぐのも造作もないこと!」
魔導師は再び瞬きのうちに元の人間の姿へと戻っていた。いつもは気にならぬ下僕のお追従が、何故だか少し気に障る。
「良い。誰にも……特にあの娘には、見つからなかったであろうな?」
「勿論です。御主人様、娘はぐっすり眠っております。しかし御主人様……命の恩人とはいえ、あの娘の為に何故そこまでなさるのです?わざわざ寝ている間にこっそり指輪を拾ってやるなど……」
普段の魔導師であれば、幾ら相手が命の恩人とはいえ、これ幸いとばかりに娘の目の前で秘術を見せびらかし、一恩を百恩にして売りつけるに違いない、と下僕は考えた。だが主の返事は煮え切らない。
「ぅ、うむ、それは……」
※※※
──ハティーシャとの出会いは、数年前のことである。
魔導師は今も昔も傲慢な自尊心の塊のような男であった。
だからこそ己が演じた失態の記憶など、二度と思い出したくもない。だが、とにかくその日は雷鳴の轟く嵐の夜であった。
すっかり慢心し、油断していた。秘術を狙う敵に追われ、傷付き弱り切った体で辿り着いたのは、とある行商人の宿営地であった。
吹き込む風と雷と共に天幕のひとつに転がり込んだ魔導師は、近づく人の気配に、最後の力を振り絞って狼に変化した。その喉首を噛み千切ってやろうと思ったのだ。
だが、残された力でようやく変化出来たのは、手負いの子狼であった。
哀れな子狼は、まだ幼さの残る金髪の少女――ハティーシャに拾われた。
ハティーシャは傷付いた子狼を――ただの犬だと思いながら――誠心誠意お世話した。昼は籠に入れて背中に背負い、自分の食事を分け与え、夜は懐に入れて共に眠り、目覚めればおはよう、と誰より一番にキスをした。
母一人子一人。兄弟姉妹もおらずひとりぼっちの少女は、初めて出来た新しい家族の存在に、惜しみなく与え、尽くした。
それは、魔導師にとっても夢のような日々であった。
魔導師としての矜持も宿命も何もかも忘れて、ただただありったけの愛を注がれた。
生まれて初めて、ひとに心から愛された。
そして。
今再び、ハティーシャに巡り合うことで、魔導師はとうに自覚していた。
(……まさかとは思ったが……これが、恋か)
しかしながら、かつて魔導師に力を授けた魔神は言った。
『愛する者』の前では変化が解けぬ。術も使えぬ。元の人間の姿には戻れぬ、と。
その時、魔導師は一も二もなく受け入れた。
偉大なる孤高の魔導師には『愛する者』など後にも先にも存在せぬ。そのような制約は何の枷にもなりはしない。些細な事よ、と思ったのだ。
だが、うっかり恋に落ちてしまった。
0
あなたにおすすめの小説
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
毎日19時に更新予定です。
魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました
iru
恋愛
小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。
両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。
両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。
しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。
魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。
自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。
一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。
初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。
恋人になりたいが、年上で雇い主。
もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。
そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。
そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。
レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか?
両片思いのすれ違いのお話です。
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
「25歳OL、異世界で年上公爵の甘々保護対象に!? 〜女神ルミエール様の悪戯〜」
透子(とおるこ)
恋愛
25歳OL・佐神ミレイは、仕事も恋も完璧にこなす美人女子。しかし本当は、年上の男性に甘やかされたい願望を密かに抱いていた。
そんな彼女の前に現れたのは、気まぐれな女神ルミエール。理由も告げず、ミレイを異世界アルデリア王国の公爵家へ転移させる。そこには恐ろしく気難しいと評判の45歳独身公爵・アレクセイが待っていた。
最初は恐怖を覚えるミレイだったが、公爵の手厚い保護に触れ、次第に心を許す。やがて彼女は甘く溺愛される日々に――。
仕事も恋も頑張るOLが、異世界で年上公爵にゴロニャン♡ 甘くて胸キュンなラブストーリー、開幕!
---
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
記憶喪失の私はギルマス(強面)に拾われました【バレンタインSS投下】
かのこkanoko
恋愛
記憶喪失の私が強面のギルドマスターに拾われました。
名前も年齢も住んでた町も覚えてません。
ただ、ギルマスは何だか私のストライクゾーンな気がするんですが。
プロット無しで始める異世界ゆるゆるラブコメになる予定の話です。
小説家になろう様にも公開してます。
理想の男性(ヒト)は、お祖父さま
たつみ
恋愛
月代結奈は、ある日突然、見知らぬ場所に立っていた。
そこで行われていたのは「正妃選びの儀」正妃に側室?
王太子はまったく好みじゃない。
彼女は「これは夢だ」と思い、とっとと「正妃」を辞退してその場から去る。
彼女が思いこんだ「夢設定」の流れの中、帰った屋敷は超アウェイ。
そんな中、現れたまさしく「理想の男性」なんと、それは彼女のお祖父さまだった!
彼女を正妃にするのを諦めない王太子と側近魔術師サイラスの企み。
そんな2人から彼女守ろうとする理想の男性、お祖父さま。
恋愛よりも家族愛を優先する彼女の日常に否応なく訪れる試練。
この世界で彼女がくだす決断と、肝心な恋愛の結末は?
◇◇◇◇◇設定はあくまでも「貴族風」なので、現実の貴族社会などとは異なります。
本物の貴族社会ではこんなこと通用しない、ということも多々あります。
R-Kingdom_1
他サイトでも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる