異世界幻想曲《ファンタジア》

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アルトレイラル(修行篇)

月下の相談室 1

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 コツコツと、木の床を踏み鳴らす音だけが、長い廊下に響く。家の外見からは明らかに不釣り合いな距離の廊下に小首をかしげながら、春香は廊下の先へと進む。目指しているのは廊下のつきあたりの部屋。言うまでもない、神谷 樹の部屋である。

 ——神谷くん、寝てないかな?

 ちらりと携帯の画面を確認し、さらに進んでいた時間を見て、自然に歩調が早まる。
 もちろん、もっと早く来ようとはしたのだ。
 昨日帰ってきて、樹は泥のように寝てしまったらしい。そのまま昏々と眠り続け、樹が起きてきたのは夕食前。
 夕食を終えてからすぐに、樹からは訪問の許可を取った。だが汗をかいたままで行くわけにはいかなかったため、風呂に入り、髪を乾かし、着替え—ルナからの借り物—もした。
 だが、異性のそれも想い人の部屋に行くのだ。あれこれと想像を巡らせ、なかなか踏ん張りが付かない。それで、理由もなくゴロリとベッドに横たわり……
 寝てしまった。
 気が付けば、携帯が指していた時刻は午後十一時半。約束の時間などとうに過ぎており、そろそろ晴香がいつも就寝につく時間になろうかといったところだった。
 これは不味い。そう思って、すぐに出ようとはしたのだが、変な態勢で寝ていたのが祟ったのか、頭には無視できないレベルの寝癖。それを焦りに焦りながらなんとか直し——、
 そして、いまに至る。
 不自然に長い廊下を渡り、目的の部屋へと到着。扉の前で立ち止まり、少し上がった息を整える。
 大丈夫、大丈夫。そう自分に言い聞かせ、ドアノブへと手を伸ばす。
 前にちらりと聞いただけだが、樹曰く、少しの物音でも起きてしまうほど睡眠の浅い日がほとんどらしい。ならば、きっと扉を叩く音で目を覚ますに違いない。
 コンコンと二回、控えめにドアを叩く。耳を澄ませるが、返事が返ってくることも、起きた気配すらもしなかった。もう一度同じことをする。しかし、やはり結果は同じ。

「神谷くん……。起きてる? おーい……」

 小声で呼んでみるが、返答はない。非常識だとは重々承知で、ドアノブを少しだけひねってみる。するりとノブが回り、ドアが部屋の内側へと少し入り込む。
 鍵はかかっていなかった。

「…………どうしよう」

 正直、開いた時の反応を考えていなかった。樹が部屋にいなければ入っても気づかれないだろうが(もちろん、非常識だとは自覚している)、問題はいた場合だ。見つかってしまえば、何してるんだと問いただされるに決まっている。そしてその状況では、さっきの約束の件で……という言い訳など通じるはずもない。
 開いてしまったら、それはそれで困るのだ。

 ――本当に、どうしよう……。

 仮に、いくら樹に信用されていたとしても、勝手に部屋へ入るのは流石に許されないだろう。春香自身、そんなことをされてしまえばたとえ樹でもあっても怒ってしまう……のか? もし仮に、本当に樹だったらどうだろう。やましいものは別に何もないから入っても問題ないかと考えればないし、だとしたらいいのだろうか。部屋もきれいにしてるし……いや、そもそも問題はそこじゃない。やっぱりダメだ、勝手に入るのはNG。ひと言あればよし。
 それに――、

「これ、夜這いと大差ないなあ」

 顔が熱い。違うと解っていても、誤解されそうなこの状況に今更ながら羞恥心が沸き上がる。夜中に異性の元へと出向く。傍から見れば、夜這いと大して変わりはしない。そう取られても文句なんか言えないだろう。そうでなければ最早ただの泥棒だ。どちらにせよ真っ当な理由じゃない。流石に、夜這いに行く勇気も、覚悟も、準備もしていない。
 だったら、今回の選択肢では『入らない』が正解だ。少なくとも春香自身は嫌なのだから、それを人にするのは気が引ける。そもそも、勝手にドアを開けることそのものが非常識なのだ。明日の朝、樹にはすっぽかしたことを謝ろう。
 これ以上のことはしない。そう決めて自身の部屋に戻ろうとしたその時、

「……? 何これ」

 解放された第六感が、ログハウスの外に不自然なマナを知覚した。

  ◆◇

 端末の懐中電灯が、不自然に森の木々を照らす。
 夜中の森を歩く。魔獣除けの結界が施された森の中を、ただひたすらに歩く。さっき感じた、不思議なマナの方に向かって。月が差し込み、遮るものが多いはずの森でさえも昼のように明るい。懐中電灯の光は必要ないのではと思いながらも、一応つけて歩くことにする。
 本当なら、晴香が取るべき行動はこれではない。いくら安全圏の中であるとはいえ、敵の可能性だって捨てきれないのだ。ミレーナを起こし、ひと言報告を入れるのが正しい。しかし、この現象を起こしている人間が敵だとは、晴香にはどうしても思えなかった。
 マナが、とても澄んでいるのだ。
 魔術にしろ、魔法にしろ、その本質は大気中のマナの変質だ。あるはずのない形にゆがめられたマナは、ひどく濁っている。ここ数日で、晴香にはそう感じるようになった。といっても、体調に支障をきたすという類のものではない。もしかしたら、よどみというよりもカレーやニンニクといったはっきりと感じられる匂いに似た何か、とでも例えるのが一番近いのかもしれない。
 そして、晴香が今感じているマナは、全くと言っていいほどに混ざり気がない。そのままのマナ。全くの無加工。自然に許容される範囲内での流動を繰り返しているといったところだ。
 肌で感じていると、なぜか落ち着く。気が付いたら、身体がそれを違和感なく受け止めているのだ。そのようなマナを、晴香は知らない。
 不意に視界が開け、遮られていた月光が晴香を照らし身体を優しく包み込む。懐中電灯とはまったく別種の、夜中降り注ぐにはいささか不自然な光量の光。
 たどり着いたのは、春香とルナが毎日魔術の修行で使っている、森の中にしてはあまりにも大きすぎる草原。この世界へ来て、晴香が最も長く滞在し、この世界の理を教わった思い入れのある土地。
 その草原の真ん中に……樹はいた。

「………………」

 納刀した黒刀を左腰に差し、目をつむってたたずむ。
 左手を鞘に添え、足を開き大きく腰を落とし、右手を柄のすぐ近くに持っていく。そこで、身体の動きは止まる。
 刹那、

「俟しッ!」
 樹の右手が、目にも留まらぬほど高速で駆け抜け、鯉口を刀が走る。
 鞘から飛び出た刀身は、眩いほどの光を放ち、縦横無尽に空を舞い大気を斬り裂く。
 下位剣戟スキル・派生・三連撃《春旋》。樹がよくカリバー・ロンドで使っていたスキルのひとつだ。
 音すらも斬り裂くと云われる神速の抜刀術、雲耀うんようの一撃を利用した二撃目が真下から振り上げられ、三撃目へと続く。そのすべてが終わるとき、目に見えぬ斬撃が四方へと広がり、周りの草木を撫でるように刈り取っていく。
 剣士ならば誰もが求めるであろう技の最高峰。それが放たれる光景は、まるで著名な画伯が描いた絵画のように、見る者の心に何かを深く刻み込む。
 この数舜の間、疑問も悩みも驚きも、何もかもが切り離される。この剣舞を見ること以外を、頭が拒絶する。
 春香が見たその光景は、ただひたすらに凛々しく、美しいものだった。

「…………ん?」

 不意に、樹の身体がピクリと小さく跳ね、その視線がこちらへと方向を変える。その眼にはわずかな殺気と威圧の気がはっきりと込められており、その眼に射られた晴香の身体が無意識に硬直する。

「雨宮?」

 数秒後、そこにいる人物が晴香であると気が付いた樹が、その視線を解き、少し意外そうな表情でそう言った。
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