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第一章
勝海舟
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赤坂氷川坂下の勝海舟邸。
上野寛永寺から山岡鉄太郎と高橋精一郎が訪れた。
女中に勝の自室に案内される。
「ああ。うるせえうるせえ」
屋敷の主である勝海舟が廊下をせわしく歩く足音と呟きが近づいて来た。襖を開く。
鉄太郎が平伏していた頭を上げると、小柄な勝が火鉢の前に座った。勝は登城から戻ってきたまま、黒羽二重の紋付に羽織を着て鼠縦縞の袴姿であった。
「高橋さん、待たせてすまないね」
「いえ、お城の様子はいかがですか」
勝は座って煙草盆を引き寄せてから、銀煙管に煙草を詰め始めた。
「どうもこうもねえよ。鳥羽伏見で幕府が薩長との喧嘩に負けて慶喜公が逃げ帰ってあそばされたんだぜ」
勝はゆっくりと煙管を一服した。
「慶喜公が徹底恭順を貫くとおっしゃって寛永寺にお隠れになった。お城じゃあ、幕臣連中がやれ恭順だ、やれ薩長が江戸に攻めこんでくるぞと大騒ぎよ。だからうるせえうるせえと心の中で唱えながら帰って来たってわけよ」
勝は口から煙を吐いて鉄太郎の方に目を向ける。
「このお兄さんかい。高橋さんの義弟の山岡鉄太郎ってのは。いい面構えだね。千葉道場の鬼鉄ってのも満更大袈裟じゃなさそうだ。お兄さん、慶喜公に会ってきたんだろ。どうだった」
鉄太郎は勝と目を合わせる。
「恐れながら、慶喜公を打擲して参りました」
「おい! おまえ何を――」
精一郎が慌てて止めようとするが、鉄太郎は平然と続ける。
「賊軍の汚名を着せられておめおめとお逃げあそばす性根を叩きなおして進ぜようと思いまして」
勝が思い切り煙を吹きだした。
しばらくむせて、目に涙を浮かべている。
「いいねえ。気に入った。でもよお、天子さまがお決めになったんだぜ。幕府は朝敵だってね」
「ならば天子さまを――」
勝は手を挙げて言葉をさえぎる。
「それ以上は言っちゃあいけねえよ」
「というのは冗談です」
「なんだ、そうかい」
鉄太郎は威儀を正した。
「今はこの日本の中で小競り合いをしている場合ではないでしょう。慶喜公も戦争は望んでおられません。徳川の民を救いたいと仰せでした」
「ほう」
「そもそも尊皇とは、水戸藩の藤田東湖どのが唱えられた、将軍が天子様を尊敬すること、すなわちすべての人々が直属する主君にそれぞれ忠誠を尽くす国のかたちのこと」
勝は頷く。
「拙者もその思想には賛同したからこそ、清河八郎と虎尾の会を結成し、浪士隊を京へ先導いたしました」
「それは聞いているよ」
「その尊皇と夷狄を討つ攘夷を結びつけて人々の不安を煽っている暴徒の輩が薩長でございましょう。その者らを鎮めようとした慶喜公と旧幕府を朝敵と呼ぶなど笑止千万」
勝は煙草盆に銀煙管を小気味よく叩き、中の灰かすを落とした。
「山岡鉄太郎、気に入ったぜ」
「恐れ入ります」
「だが幕府ってのはよ。つまるところ徳川家を守るためのものなんだよ。天下国家を守るものではない。だから滅びたんだよ」
「仰せの通りです」
「薩長の奴らの方が天下国家のために奔走していると言われても仕方ないわな。そういう意味では朝敵と呼ばれるのも仕方ない――」
勝は興味深げな笑みで鉄太郎の目を覗いている。
「ならばおれたち旧幕府の者はどうすればいい」
鉄太郎はしばし考え込んだ。一介の旗本にすぎない自分がどうすればよいのか。考えたことがなかった。幕府がなくなった今、鉄太郎は時の流れに身を任せるしかないと半ば諦めに近い気持ちになっていた。
勝が懐から書状を取り出して鉄太郎と精一郎の前に「ほらよ」と放った。
勝は再び煙草を詰めた銀煙管を吸って、煙を吐いた。
「官軍が江戸に進軍しているのは知っているよな。東征軍大総督の有栖川宮が三月十五日に江戸を総攻撃すると言ってきやがった」
――今日が三月五日。あと十日後に江戸を火の海にするというのか。
女中がお茶を取り替えに部屋に入ってきた。
「山岡さん。官軍の参謀が誰だか知ってるかい」
「たしか西郷吉之助」
「よくご存じだ。おれは西郷どんとはちょっとした知り合いでな。その西郷から送られてきた書状がそれよ。読んでみな」
鉄太郎は書状を広げて読み始めた。精一郎も横からのぞいている。
「ほう」
読み終えた鉄太郎はわずかに口の端をあげた。
「こ、これは」
精一郎は驚きの声をあげた。
書状の内容はこのようなものだった。
徳川慶喜名代殿
江戸を火の海にしたくなくば、三月十日までに東海道を駿府城まで参られたし。
次なる八瀬鬼童衆をことごとく討ち果たされよ。
黒厨子闇丸
金嶽剛斎
月ノ輪紅之丞
牙刀院凶念
太田垣蓮月
立会人は薩摩藩士、益満休之助とする。
東征大総督府参謀 西郷吉之助
上野寛永寺から山岡鉄太郎と高橋精一郎が訪れた。
女中に勝の自室に案内される。
「ああ。うるせえうるせえ」
屋敷の主である勝海舟が廊下をせわしく歩く足音と呟きが近づいて来た。襖を開く。
鉄太郎が平伏していた頭を上げると、小柄な勝が火鉢の前に座った。勝は登城から戻ってきたまま、黒羽二重の紋付に羽織を着て鼠縦縞の袴姿であった。
「高橋さん、待たせてすまないね」
「いえ、お城の様子はいかがですか」
勝は座って煙草盆を引き寄せてから、銀煙管に煙草を詰め始めた。
「どうもこうもねえよ。鳥羽伏見で幕府が薩長との喧嘩に負けて慶喜公が逃げ帰ってあそばされたんだぜ」
勝はゆっくりと煙管を一服した。
「慶喜公が徹底恭順を貫くとおっしゃって寛永寺にお隠れになった。お城じゃあ、幕臣連中がやれ恭順だ、やれ薩長が江戸に攻めこんでくるぞと大騒ぎよ。だからうるせえうるせえと心の中で唱えながら帰って来たってわけよ」
勝は口から煙を吐いて鉄太郎の方に目を向ける。
「このお兄さんかい。高橋さんの義弟の山岡鉄太郎ってのは。いい面構えだね。千葉道場の鬼鉄ってのも満更大袈裟じゃなさそうだ。お兄さん、慶喜公に会ってきたんだろ。どうだった」
鉄太郎は勝と目を合わせる。
「恐れながら、慶喜公を打擲して参りました」
「おい! おまえ何を――」
精一郎が慌てて止めようとするが、鉄太郎は平然と続ける。
「賊軍の汚名を着せられておめおめとお逃げあそばす性根を叩きなおして進ぜようと思いまして」
勝が思い切り煙を吹きだした。
しばらくむせて、目に涙を浮かべている。
「いいねえ。気に入った。でもよお、天子さまがお決めになったんだぜ。幕府は朝敵だってね」
「ならば天子さまを――」
勝は手を挙げて言葉をさえぎる。
「それ以上は言っちゃあいけねえよ」
「というのは冗談です」
「なんだ、そうかい」
鉄太郎は威儀を正した。
「今はこの日本の中で小競り合いをしている場合ではないでしょう。慶喜公も戦争は望んでおられません。徳川の民を救いたいと仰せでした」
「ほう」
「そもそも尊皇とは、水戸藩の藤田東湖どのが唱えられた、将軍が天子様を尊敬すること、すなわちすべての人々が直属する主君にそれぞれ忠誠を尽くす国のかたちのこと」
勝は頷く。
「拙者もその思想には賛同したからこそ、清河八郎と虎尾の会を結成し、浪士隊を京へ先導いたしました」
「それは聞いているよ」
「その尊皇と夷狄を討つ攘夷を結びつけて人々の不安を煽っている暴徒の輩が薩長でございましょう。その者らを鎮めようとした慶喜公と旧幕府を朝敵と呼ぶなど笑止千万」
勝は煙草盆に銀煙管を小気味よく叩き、中の灰かすを落とした。
「山岡鉄太郎、気に入ったぜ」
「恐れ入ります」
「だが幕府ってのはよ。つまるところ徳川家を守るためのものなんだよ。天下国家を守るものではない。だから滅びたんだよ」
「仰せの通りです」
「薩長の奴らの方が天下国家のために奔走していると言われても仕方ないわな。そういう意味では朝敵と呼ばれるのも仕方ない――」
勝は興味深げな笑みで鉄太郎の目を覗いている。
「ならばおれたち旧幕府の者はどうすればいい」
鉄太郎はしばし考え込んだ。一介の旗本にすぎない自分がどうすればよいのか。考えたことがなかった。幕府がなくなった今、鉄太郎は時の流れに身を任せるしかないと半ば諦めに近い気持ちになっていた。
勝が懐から書状を取り出して鉄太郎と精一郎の前に「ほらよ」と放った。
勝は再び煙草を詰めた銀煙管を吸って、煙を吐いた。
「官軍が江戸に進軍しているのは知っているよな。東征軍大総督の有栖川宮が三月十五日に江戸を総攻撃すると言ってきやがった」
――今日が三月五日。あと十日後に江戸を火の海にするというのか。
女中がお茶を取り替えに部屋に入ってきた。
「山岡さん。官軍の参謀が誰だか知ってるかい」
「たしか西郷吉之助」
「よくご存じだ。おれは西郷どんとはちょっとした知り合いでな。その西郷から送られてきた書状がそれよ。読んでみな」
鉄太郎は書状を広げて読み始めた。精一郎も横からのぞいている。
「ほう」
読み終えた鉄太郎はわずかに口の端をあげた。
「こ、これは」
精一郎は驚きの声をあげた。
書状の内容はこのようなものだった。
徳川慶喜名代殿
江戸を火の海にしたくなくば、三月十日までに東海道を駿府城まで参られたし。
次なる八瀬鬼童衆をことごとく討ち果たされよ。
黒厨子闇丸
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