北の屍王

伊賀谷

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第一章

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 夜五ツ半(夜九時)。
 迎えに来た箱館新選組隊士が提灯ちょうちんを掲げて闇に包まれた夜道を先導する。
「化物を追い詰めたんだな」
「はい、袋小路です。ですが住民を一人殺してします」
 隊士の声は震えている。
「ちっ。こっちは何人いる」
「わたしを入れて五人です」
「よし」
 八十八は両手で着物の前の隙間を閉じながら、底冷えする通りを駆けて行った。白い息がうしろに流れていく。
 山之上町でも燃えるように輝く遊郭からは外れた一角。この辺りは小さな商家が立ち並ぶ。蝦夷島政府によって生活が苦しくなっている者、近いうちに新政府軍が渡来してきたら戦争になると逃げ出している者が少なからずいるので寂れた雰囲気が漂っている。
 しばらくすると、前方にいくつかの提灯の明かりが見えた。明かりの中に三人の隊士らしき男たちが浮かんできたのでそちらに向かう。
「ご苦労」
 八十八が声をかける。
 一軒の商家の前で佇んでいる隊士たちは大半がうつむいていたままで、消え入りそうな声でかろうじて八十八に挨拶する声が聞こえた。
 よく見ると提灯を持つ手が震えている者、照らされた明かりの中でも顔が蒼白になっているのが分かる者ばかりであった。八十八を連れてきてくれた隊士もここに来て同じような有様だ。明らかに寒さではなく恐怖によるものだと分かる。
「山野さんですね。奴は左に曲がった小路の突き当りにいます」
 細長く貧相な顔をした年配の男が曲がり角を指差しながら近づいてきた。きれいに月代さかやきを剃ってまげを結っている。
 男が示した小路はまばらに建っている商家の隙間であった。小路と言っても京のように平坦な壁に囲まれているわけではなく凹凸のある路地だ。幅は一丈(約三メートル)といったところ。
「拙者は山之上の見廻りをしております松田まつだ六郎ろくろうと申します」
 松田は腰を折って深くお辞儀をした。
「あんたはまともに話せそうだな」
 八十八はため息をついた。
「仕方ありません。みんな京の頃からいる新選組隊士ではありませんので。わたしも仙台で入隊しました。人を斬ったことがない者もおります」
「あんたはあるのかい、斬ったこと」
「いやあ、わたしは」
 松田は右手を後頭部であてて目を細めて照れたように笑う。掴みどころがない。しかし意外と肝は据わっていそうだ。
「なんで奴はあそこから動かねえんだ」
 八十八は左の小路への曲がり角に顎をしゃくった。
「捕まえた住民を食っているみたいですな」
 松田は平然とした声音で恐ろしいことを伝えた。
「じゃあ、今のうちだな」
 前方を見つめていた八十八は背後に気配を感じて振り向いた。
「よお」
 島田魁が手をあげてこちらに歩いて来た。場違いなほど緊張感のない声音なのは幾多の修羅場を生き抜いてきた新選組の生え抜きならではだ。大きな槍を担いでいる。
「島田さん来てくれたのか。助かるぜ」
「どうだ。様子は」
 八十八は先ほど聞いた状況を島田に伝えた。
「それにしても使い物になるのかよ」
 おどおどしている隊士たちに目を向けながら、八十八は小声で島田に詰め寄った。
「提灯持ちくらいには使えるだろ」
「じゃあ、おれと島田さんで行くしかねえな」
「今夜はおまえが隊長だ。山野」
「けっ。隊長で死番しにばんかよ。たまんねえな」
 死番とは隊列の先頭を行く者を意味する。当然危険が大きい。
「楽しいだろ」
「覚えとけよ」
 島田が嬉しそうに笑っている。
「よし、いいか。おれと島田さんで奴を斬る。他の者は奴を逃さないように取り囲め。それと――」
 全員を見回した八十八の目は松田で止まった。
 松田は羽織っていた綿入れを脱いで丁寧に畳んで足元に横たえられている木材の上に置こうとしていた。
「な、なにしてんだ」
 松田は白いたすきを取り出して慣れた手付きで袖をたくし上げた。
「これからいくさでございますからな」
 言っている間に、松田はご丁寧に袴もたくし上げている。さらに頭に鉢巻はちまきまで締め始める始末だ。
「急がねえと奴が逃げちまう――」
 八十八が大声を出そうとすると島田が肩に腕を回してきた。
「まあまあ、山野」
「なんなんだよ、あいつは」
「ああ見えて松田さんはおれより年上なんだぜ」
「見れば分かるよ」
「年長者は敬わないとな」
 八十八は心を落ち着かせようと首を何度か振ってから、ため息をひとつついた。
「分かったよ」
「忘れるな。奴は化物だ。こんなところで命を落とすなよ」
「島田さんもな」
 八十八は島田と顔を見合わせて笑いあった。
「よし、行くぞ」
 八十八の号令で山之上見廻りの新選組は駆け出した。

 新選組隊士たちが提灯で照らした化物はところどころ破れた着物が着崩れていた。
 地面に倒れた男の腹に顔を突っ込んで、時おり左右に振っている。
 化物が顔を動かすのに合わせて倒れた男の体が力なく揺さぶられている様は不気味であった。
 八十八は撃鉄を上げた拳銃を手に化物に歩み寄っていく。五丈(約十五メートル)の位置で立ち止る。
 ――ここから撃つか。
 拳銃の腕には刀ほどの自信がないので、必中できるかは分からない。
 八十八は背後に控えている新選組たちを振り返った。
 槍をいつでも投擲できるように構えている島田が驚いた顔で何かを訴えようと口を開けようとしている。
「まさか」
 すかさず八十八は前方に向き直る。
「あ――」
 いつの間にか化物が目の前に立っていた。
 首は曲がっており、着物がはだけた右肩には深々と刀傷が残っている。
 今朝、「こまつ屋」で対峙した奴に間違いない。
 反射的に八十八は引き金を絞る。
 右手に衝撃。
 拳銃が手から離れる。
 そして轟音。
 化物が手を振って八十八の拳銃を弾き飛ばしていた。
「ちっ」
 八十八は身を低くして刀のつかに手をかける。そのまま化物めがけて八十八は地面に転がった。抜刀して両足を狙う。
 化物が八十八を飛び越える形で飛んだ。三間(約五・四メートル)は跳躍して後方に控えていた新選組たちに近づいて来る。
 隊士たちから悲鳴があがる。その場に尻もちをついた者。落とした提灯が燃え上がった者。
 化物が着地する時――。
 地を滑る音とともに誰かが化物とすれ違った。
「ほいさ!」
 松田であった。横薙ぎに刀を振り切った姿勢。
 化物の右足の膝から先が斬り飛ばされている。怪鳥けちょうのような叫び声が上がった。
 突然、化物の体がくの字に曲がった。
 化物の背中から槍が飛び出してきた。島田が構えていた槍を投げたのだ。その凄まじい力は七尺(約二・一メートル)はある槍の柄の半分まで化物の体を貫いていた。
 化物は背後に倒れたが、槍の穂先が大地につっかえる。仰向けに天を睨む姿勢になった。
「おおっ!」
 すかさず起き上がっていた八十八の目の前に天を仰ぐ化物の頭頂部があった。その頭を縦に一刀両断。
 ゆっくりと化物が倒れた。
 辺りに静寂が戻る。いや、提灯を焼く音だけはしばらく残っていた。
「今度こそ死んだか」
 島田が近づいてくる。
 八十八は化物を何度かつま先で突いてみたが動かない。
「死んだみてえだな」
 刀を一振りして血を払ってから鞘に納めた。
「朝の『こまつ屋』では死ななかったが、今はなんで殺せたんだ」
 八十八は首をひねる。
「弱ってたんじゃないか」
 島田が言うこともありうるかもしれない。詳しいことは調べてみないと分からないだろう。
「よし。この化物を五稜郭ごりょうかくに運ぶぞ。手伝ってくれ」
 八十八が隊士たちに声をかける。
 隊士たちは躊躇している。まだこちらに近づきたくはないようだ。
「大丈夫だ。あの化物はもう死んでおる。人の亡骸と変わらぬよ。ここは若い者が働くところですぞ。あ、拙者は腰を痛めておりましてな」
 松田がおどけた調子で言うと、隊士たちは諦めたようにぞろぞろと動きはじめた。

 八十八と島田は隊士たちが戸板といたに化物と喰われた人間の亡骸を乗せるのを眺めていた。
「これで土方さんからの密命は終わったか」
「どうかな。あの化物が土方さんが探っているすべての事件の下手人かは分からねえしな」
「そうかい」
 島田は物事を複雑に考えない。今は当事者ではないからかもしれないが、普段からも目の前のことだけに集中して余計なことは考えない傾向がある。それが島田の強さだと八十八は認識している。
「また島田さんたちの力を借りることになるかもしれねえぜ」
「いいぜ。うちの隊士たちは頼りになるだろ」
 島田はからかうように言った。
「ああ、そうだな。意外とな」
 島田を含めた新選組隊士たちがいなかったら八十八は命を落としていたかもしれない。そのことは認めざるを得なかった。
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