北の屍王

伊賀谷

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第二章

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 昼八ツ半(午後三時)くらいか。
 雲の切れ間から幾本もの光の帯が真直ぐに垂れさがって、久しぶりに箱館は明るくなっていた。
 八十八と松田は雪を背後に蹴り上げながら野村が歩いて行ったであろう跡を追った。
 ――まさか、野村が屍士。
 にわかに信じられない。京の頃からの仲間同士だ。いや、まだ決まったわけではない。
 ――まずは野村に問いただしてみなくては。
 陽が出たからか少し人通りが増えてきた。
 右が天神社の裏庭に面する通りに出た。
 唐突に異人が行く手を塞いだ。
 黒いマントに身を包んでいる。鍔広つばひろ帽からは金髪が溢れている。顎も鼻が大きく尖ったからすを思わせる男。
 八十八を見る微笑みに見覚えがあった。「柳川亭」にいた男だ。
「どきなよ」
 左手で腰の刀の位置を正しながら背後に目をやる。
 後ろからも鍔広帽をかぶった同じような姿の異人が二人近づいてくる。
「松田さん、逃げろ!」
 松田は左の路地に駆けこんで行った。後ろの異人二人があとを追う。
 八十八は舌打ちしつつ目の前の鴉の異人に向き直った。
 異人がマントの前を跳ね飛ばすと、革帯ベルトにぶら下がった拳銃が現れた。目にもとまらぬ早さで異人の手が拳銃を掴む。
「うぐっ!」
 呻き声をあげた異人の腹に、八十八の三分の一ほど抜いた刀の柄頭つかがしらがめり込んでいた。
 背の高い異人の体がくの字に折れる。
 八十八は目の前に迫った異人の白い鼻頭に己の額を叩き込んだ。
 雪の上に仰向けに倒れた異人の顔は鼻血と涙で濡れていた。だが、異人は不敵な笑みを浮かべて右手に握った拳銃を八十八に向けた。
 八十八が異人の右手を蹴り飛ばす。
 乾いた破裂音。
 天神社の柵のまえで立ちすくんでいた女の頭から血が噴いた。
 白い雪を赤い飛沫が染める。
 頭を撃ち抜かれて倒れた女を見て、周りにいた人たちからおののきの声があがった。
「てめえ」
 八十八は左手で脇差を抜いて、異人の右の二の腕を地面に串刺しにした。
 異人は絶叫して怨嗟えんさのような声をあげていた。異国の言葉なので意味は分からないが。
「なんでおれを狙ったのか、あとで吐いてもらうぜ」
 どこかから二発の発砲音が鳴り響いた。
「松田さん」
 八十八は顔をあげて耳をすませた。
 左肩に針を刺したような痛み――。
 全身に寒気が走る。
 刹那、八十八は抜刀して背後の壮絶な気配を薙いだ。
「きゃは」
 銀光が走った空間にいた者は消えていた。わらべのような笑い声を残して。
 八十八は振り向いて左を向き、通りまでせり出している天神社の裏庭の林を見上げる。
 葉のない枝が重なり合った奥に二つの赤い光が見えた。二間(約三・六メートル)ほどの高さだ。
 人影が見える。
「野村……」
 林の中に見え隠れしているのは野村に違いない。
 一息ひといきにあの高さまで飛んだのか。人の力ではない。
 ――屍士なのか。野村が。
 影に隠れた相貌そうぼうがにやりと笑ったように見えた。
「野村、てめえ!」
 枝同士がこすれ合う音を立てて、影――野村は林の奥に消えて行った。
「……つう」
 八十八は着ている綿入の中に手を入れて、痛みを感じる左肩に触れると血が滲んでいるのがわかった。
 ――噛まれた。
 屍士に噛まれた者は屍徒になる。
 数日前に己で頭を断ち割った屍徒の姿が頭の中に甦る。
 ――おれは化物になって死ぬのか。
 己の顔が蒼白になっているのが分かる。すでに屍と化しているようだ。
「山野さん」
 八十八は驚いて声がした右手に顔を向ける。
「だ、大丈夫ですか」
 松田が怪訝な顔で首をかしげて歩いてくる。
 八十八は恐怖に引き攣ってこわばった表情をなんとか元に戻した。
「ま、松田さん。無事だったかい」
 松田がじっとこちらを見ている。何かに気づいたのだろうか。
「あの異人二人とも斬ってしまいました」
 松田はいつものとぼけた調子で答えた。
「よかった。それはよかったな」
「山野さん」
「え」
「あれは」
 松田が指を指す。
 八十八が腕を刺した異人だ。
 頭が割れた西瓜スイカのように赤く潰れていた。
「山野さんが……」
「いや……」
 八十八が気づかぬ間に異人の頭をも潰していた屍士の力に戦慄する。
「野村さんは」
「いや、もういい」
 屍士は野村だ。異人たちは十中八九、野村が雇った者たちであろう。己を探索する八十八を屠るためか、隙を作って噛みつくためか。八十八を屍徒にするためか。
「そうですか。では拙者はこれにて。またご用命があればお呼びください」
 松田が八十八の視界から消えた。いや、もとより松田のことは見ていなかった。
 空を見上げる。一月の天からの陽射しはまだ弱々しかったが、八十八にはやけに眩しく見えた。
 ――おれはまだ死にたくない。
 やなの顔が頭に浮かんだ。
 我知らず八十八の足は五稜郭にむけて歩き始めた。雪を踏む感触も脳に届いていなかった。
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