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第三章
十
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「おや。山野くんこんな時間にどうかしましたか」
箱館の町から五稜郭の奉行所まで歩いて一刻(二時間)近くかかった。
八十八は勢いよく榎本武揚の部屋に入って行った。
すっかり日は暮れている。仄かな灯りで薄暗い部屋の中には榎本と土方歳三がいた。
雪の残る道を歩いて来たので、八十八の息はあがっている。
「山野。顔色が悪いぜ」
土方の視線を感じる。
「屍士に噛まれた者が屍徒にならずに済む手段はあるんですか」
「いきなりそう聞いてくるとは。誰かが噛まれましたか」
相変わらず榎本の勘は鋭い。
「聞いたことに答えてくださいよ」
「そうですね。噛んだ屍士を屠れば、あるいは」
榎本は執務机の上に肘をついて手を組み、その上に顎を乗せた。
「五十両だ」
八十八は呟いた。
「どういうことかね」
「五十両で屍士を屠りますよ」
榎本と土方が目を合わせたようだ。
――早くしろ。おれは屍士に噛まれたんだ。時間がねえ。
半ば影に隠れた榎本が上目遣いで八十八を見据える。
「屍士はみつけたのですか」
「……野村だ。新選組の野村利三郎が屍士だ」
「どうして分かったのです」
「そんなことはどうだっていいじゃないですか。五十両あれば屍士を屠ってやるって言ってるんですよ」
八十八は声を荒げてしまった。
「野村くん、大丈夫かね」
影で榎本の表情は読み取れない。
八十八の顔と体を濡らす冷たい汗が煩わしい。早鐘のような鼓動が一向に止まらない。
「土方さん。たしか野村くんはアボルダージュの斬り込み隊でしたね」
「はい」
榎本と土方が話し合っている。
――何を言ってやがる。
「山野くん。新政府軍の艦隊が青森の宮古湾に集結しつつあります。近いうちに箱館に進軍してくるでしょう」
頬に汗とともにまとわりつく髪が煩わしい。
――知ったことか。なら、もう蝦夷島政府は終わりじゃねえか。
八十八は両手で頭の横に髪をかきあげる。
「これは土方さんの発案でしてね。その前に新政府軍の船を乗っ取ろうという、つまりアボルダージュ作戦の準備を進めています」
「それは結構なことですね」
八十八の声は掠れていた。
「その作戦で野村くんには斬り込み隊として敵の船に乗り込んでもらいます。今はそのための調練をしています」
八十八は俯いていた顔をゆっくりあげた。
「山野。そこで野村を斬れ」
土方の冷徹な声が八十八の心に爪を立てる。京の頃の新選組副長の声。
――そうだ。やるしかない。やってやる。
己の声が頭の奥で八十八に訴えかけてくる。
「やりかたは山野くんにまかせます」
八十八はしばらく頭を巡らせようとした。だが、さまざまな考えが交錯していて冷静な判断をくだすことができているのかは、もう分からない。
「分かりました。まずは五十両いただきます」
「いいでしょう」
「……そして屍士を屠ったらもう五十両いただきます」
榎本は土方の顔を一瞥した。土方の顔は笑っているようだったが暗がりではっきりしない。
「決まりですね」
榎本は執務机の抽斗を開けて小判を数えて袋に入れた。その袋をテーブルの上に乗せる。五十両が入った袋。
八十八は大きな足音を立てて執務机に近づいて袋を手に取った。踵を返して出口に向かう。
「これは必要ないかね」
榎本の声に振り返ると、執務机の上にあの「流星刀」が置かれていた。
革の鞘からのぞいた刃の鈍い光を、八十八は魅入られたように見つめた。
気がついたら榎本の目の前まで戻って来て立っていた。
「山野よう。壬生狼の顔つきが戻って来たじゃねえか」
京の者たちが新選組を恐れて壬生狼と呼んでいた。土方の声は嬉しげに聞こえた。
八十八は小さく舌打ちして奪い取るように流星刀を掴むと、部屋を出て行った。
「うれしい。ありがとう山野さん」
二日後の晴れた昼時。八十八はやなをつれて山ノ上町をあとにして、港への坂を降っていた。
榎本からもらった五十両で「あさひ屋」からやなを身請けした。
旅装の二人は港に向かっている。
やなは嬉しそうだった。弾むような足取りで八十八について来る。
「江戸に行けるんだね」
「……ああ。船が待っているから少し急ぐぞ」
「うん。ああ、そうだ。まえに山野さんが言っていた『ケウェ』の意味分かったよ」
八十八は道に残った雪を踏みしめて立ち止った。
「どういう意味だ」
「『死』とか『死んだ人』、だった」
八十八の見えている世界の天と地が入れ替わるように、大きく揺れたような錯覚に陥った。
アイヌの老婆は「ケウェがやって来るぞ」と言っていた。
その時の光景が蘇る。そして屍徒に会った。
五稜郭で榎本が語る屍士の話を半信半疑で聞いた。
そして、屍士である野村利三郎に噛まれた。
――おれは化物になるのか。
八十八は知らずに死の世界に足を踏み込んでいた。
やなは弾んだ声で話し続けている。だが、八十八には聞こえてはいなかった。
昨日までにアボルダージュの細かい作戦内容を聞いておいた。
――野村。待っていろ。
八十八にはもう修羅道への入口しか見えなくなっていた。
箱館の町から五稜郭の奉行所まで歩いて一刻(二時間)近くかかった。
八十八は勢いよく榎本武揚の部屋に入って行った。
すっかり日は暮れている。仄かな灯りで薄暗い部屋の中には榎本と土方歳三がいた。
雪の残る道を歩いて来たので、八十八の息はあがっている。
「山野。顔色が悪いぜ」
土方の視線を感じる。
「屍士に噛まれた者が屍徒にならずに済む手段はあるんですか」
「いきなりそう聞いてくるとは。誰かが噛まれましたか」
相変わらず榎本の勘は鋭い。
「聞いたことに答えてくださいよ」
「そうですね。噛んだ屍士を屠れば、あるいは」
榎本は執務机の上に肘をついて手を組み、その上に顎を乗せた。
「五十両だ」
八十八は呟いた。
「どういうことかね」
「五十両で屍士を屠りますよ」
榎本と土方が目を合わせたようだ。
――早くしろ。おれは屍士に噛まれたんだ。時間がねえ。
半ば影に隠れた榎本が上目遣いで八十八を見据える。
「屍士はみつけたのですか」
「……野村だ。新選組の野村利三郎が屍士だ」
「どうして分かったのです」
「そんなことはどうだっていいじゃないですか。五十両あれば屍士を屠ってやるって言ってるんですよ」
八十八は声を荒げてしまった。
「野村くん、大丈夫かね」
影で榎本の表情は読み取れない。
八十八の顔と体を濡らす冷たい汗が煩わしい。早鐘のような鼓動が一向に止まらない。
「土方さん。たしか野村くんはアボルダージュの斬り込み隊でしたね」
「はい」
榎本と土方が話し合っている。
――何を言ってやがる。
「山野くん。新政府軍の艦隊が青森の宮古湾に集結しつつあります。近いうちに箱館に進軍してくるでしょう」
頬に汗とともにまとわりつく髪が煩わしい。
――知ったことか。なら、もう蝦夷島政府は終わりじゃねえか。
八十八は両手で頭の横に髪をかきあげる。
「これは土方さんの発案でしてね。その前に新政府軍の船を乗っ取ろうという、つまりアボルダージュ作戦の準備を進めています」
「それは結構なことですね」
八十八の声は掠れていた。
「その作戦で野村くんには斬り込み隊として敵の船に乗り込んでもらいます。今はそのための調練をしています」
八十八は俯いていた顔をゆっくりあげた。
「山野。そこで野村を斬れ」
土方の冷徹な声が八十八の心に爪を立てる。京の頃の新選組副長の声。
――そうだ。やるしかない。やってやる。
己の声が頭の奥で八十八に訴えかけてくる。
「やりかたは山野くんにまかせます」
八十八はしばらく頭を巡らせようとした。だが、さまざまな考えが交錯していて冷静な判断をくだすことができているのかは、もう分からない。
「分かりました。まずは五十両いただきます」
「いいでしょう」
「……そして屍士を屠ったらもう五十両いただきます」
榎本は土方の顔を一瞥した。土方の顔は笑っているようだったが暗がりではっきりしない。
「決まりですね」
榎本は執務机の抽斗を開けて小判を数えて袋に入れた。その袋をテーブルの上に乗せる。五十両が入った袋。
八十八は大きな足音を立てて執務机に近づいて袋を手に取った。踵を返して出口に向かう。
「これは必要ないかね」
榎本の声に振り返ると、執務机の上にあの「流星刀」が置かれていた。
革の鞘からのぞいた刃の鈍い光を、八十八は魅入られたように見つめた。
気がついたら榎本の目の前まで戻って来て立っていた。
「山野よう。壬生狼の顔つきが戻って来たじゃねえか」
京の者たちが新選組を恐れて壬生狼と呼んでいた。土方の声は嬉しげに聞こえた。
八十八は小さく舌打ちして奪い取るように流星刀を掴むと、部屋を出て行った。
「うれしい。ありがとう山野さん」
二日後の晴れた昼時。八十八はやなをつれて山ノ上町をあとにして、港への坂を降っていた。
榎本からもらった五十両で「あさひ屋」からやなを身請けした。
旅装の二人は港に向かっている。
やなは嬉しそうだった。弾むような足取りで八十八について来る。
「江戸に行けるんだね」
「……ああ。船が待っているから少し急ぐぞ」
「うん。ああ、そうだ。まえに山野さんが言っていた『ケウェ』の意味分かったよ」
八十八は道に残った雪を踏みしめて立ち止った。
「どういう意味だ」
「『死』とか『死んだ人』、だった」
八十八の見えている世界の天と地が入れ替わるように、大きく揺れたような錯覚に陥った。
アイヌの老婆は「ケウェがやって来るぞ」と言っていた。
その時の光景が蘇る。そして屍徒に会った。
五稜郭で榎本が語る屍士の話を半信半疑で聞いた。
そして、屍士である野村利三郎に噛まれた。
――おれは化物になるのか。
八十八は知らずに死の世界に足を踏み込んでいた。
やなは弾んだ声で話し続けている。だが、八十八には聞こえてはいなかった。
昨日までにアボルダージュの細かい作戦内容を聞いておいた。
――野村。待っていろ。
八十八にはもう修羅道への入口しか見えなくなっていた。
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