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131 ナツミとネロ その10
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ネロさんは声が少し嗄れた頃、笑うのを止めて溜め息をついた。
それから目尻に堪った涙を拭うと寂しそうに微笑んだままゆっくりと椅子から立ち上がる。ようやくチュニックを手にして、腰帯を巻いて姿を正した。
ネロさんはノアと向かい合う様にしてお互いの顔を見つめる。
それからゆっくりとノアは口を開いた。
「ネロはいつから俺の事を疑問に思っていたんだ?」
ノアはアイスブルーの鋭い瞳をネロに向ける。
ノアは冷静だ。
ザックとマリンが関係していた話を聞いた時と同じだ。
覚悟が決まって、全てを受け入れるつもりなのだ。
その気持ちを知ってか知らずか、ネロさんは視線を床に落として、ポツリと呟いた。
「ノアの母上と僕の母が立て続けに亡くなって、ノアが家に帰ってこなくなっただろ? その時に父が──いや領主だね。僕の母の前の墓で泣きながら謝っていたのを聞いたのが切っ掛けさ。まるでアルと僕の母が目の前で生きている様に話しかけていた。『妾ではないのは本当だ。頼まれたんだ或る人に』とね。生前母は精神的に参ってしまったから、話をまともに聞けずにいたのさ。だけど墓前で謝っては遅いよね。領主だってそんな事は分かっていたのだろうけど。本当に愛した女性だったのは間違いない。辛かったのだろう」
「……そうか、そんな事が。そして、そんな前から疑問に思っていたのか」
「僕も医療魔法の研究や、軍に関する仕事を始めた頃だからね。忙しさを言い訳に身を任せて忘れてしまいたかったよ。しかし、それは自分の母親が狂った上に亡くなった事を秘密にしているという後ろめたさから逃げたかっただけなのかも。しかも、アルも知らない事実を一人抱えるのは予想以上に重圧だった」
「! アルも知らないのか」
ネロさんの淡々とした言葉にノアも聞き入っていた。
ネロさんにとってはもう過去の事だからなのか。
それとも自分を俯瞰する事で冷静でいようとしたからなのか。ネロさんの話し方はまるで他人に起こった出来事を話している様に感じた。
「二人も亡くなった事実だけでも乗り越えるのに必死だったのにさ。父の嘆きなど聞かなければ、僕も知らずにいられたのに──」
ネロさんはいつもの様にヘラヘラとは笑っていなかった。
真っすぐにノアを見つめて困った様に眉を下げて首を傾げた。銀縁眼鏡の向こうで瞳が細くなった。
「知ってしまったから、後戻りが出来なくなったのか」
ノアが飲み込んだネロさんの言葉を続けた。ネロさんはスッと真顔になってノアの肩を叩いた。
ネロさんは一瞬ひきつった様に頬を歪めたが優しく笑うと、掴まれたノアの手を肩からゆっくりと放す。
「ゴッツさんの調べが当たっていると僕も思う。別荘にいるアルマに声をかけるといい。きっと側室の子供である事を証明する何かを持っているだろう。そうしたらノア、いや王子よ、王に会う為北の国に向かうべきだ。そして王の子だと伝えるべきだ」
ネロさんはノアの事を王子と呼んだ。
突き放す言い方に私は思わず口を開こうと思ったが、ネロさんの顔を見て息を呑んでしまった。
滑舌ははっきりとしているし真剣な眼差し。ネロさんも領主の息子として堂々としていた。
一見そう見えるのに、銀縁眼鏡の向こうにある瞳が寂しく見える。
ネロさんに突き放されたと一瞬で理解したノアは拳を握りしめた。
ノアの拳が震えている。
「ネロ、俺は──」
ノアは必死に口を開いて言葉を続けようとしたが、スッとネロさんから視線を逸らされて次の言葉を飲み込んでしまう。
私は思わずネロさんの前に立った。
不意に視界に入った私にネロさんは何故かホッとした様な顔をした。いつもの調子を取り戻そうとしたのかもしれない。ヘラっと笑って顔を歪ませる。
「ナツミさん済みません、巻き込んでしまって。ナツミさんからも王子に言ってもらえませんか──グッ!」
体が先に動くのは元々だ。けれども、最近はザックのせいでもある様な気がしてきた。うん、そういう事にしておこうかな。
私は言葉よりも先に両手でネロさんのほっぺたを左右に思いっきり引っ張った。
「わけの分からない事を言うのはこの口ですね」
「ニャニュミヒャン、ニャニヒュル、ギャー!」
突然私にほっぺたを引っ張られたネロさんは予想以上におかしな声を上げた。それでも私は手を緩めない。
「私にはネロさんが何を言っているのか聞こえませんけど」
多分『ナツミさん、何する』と言っているのだろうけれども私は意地悪く声を上げる。
ネロさんの悲鳴が聞こえて我に返ったノアが慌てて私の肩に手を置いた。
「待て待てナツミそれは引っ張りすぎだろ。ネロは細身で頬には肉もついていないし。いくら何でも千切れるのではないのか?!」
ノアは慌てて私の手を止めようと必死になる。
「そんなに引っ張ってないもん」
私はギリギリと出来るだけ左右に引っ張ってパッと手を放した。
「ギャァ!」
ネロさんが涙を流しながら両ほっぺを自分の手で包んで俯く。
「ひ、酷いですナツミさん。暴力反対……」
怨めしそうな声を上げるけれども、『痛いです』と声を上げないネロさんだ。
「そうですよ。暴力ですよ。ネロさんもこんな事を突然されると痛いでしょ? 痛いって言っていいんですよ。『ナツミさん、何を』じゃなくて『ナツミさん、止めて』って。どうして言わないんですか?」
「……」
私が何を言いたいのか分かったのがネロさんは俯いたまま両頬を摩っている。
「ネロさんだって傷ついているのに、どうしてノアを突き放すんですか?」
私はわざとネロさんの俯く顔を下から覗き込んだ。
まさか覗き込まれるとは思わなかったのか、ネロさんは銀縁眼鏡の奥で目を丸めた。慌てて姿勢を正していた。
その様子に少し遠くで見ていたザックが暢気に「お。ネロが起き上がったぞ」と呟いていた。隣でマリンが苦笑している。
もう。何を暢気にしているのだか。
私はちゃんと見ていたよ。ザックだってネロさんが『王子』って言った途端、拳を振り上げたのを。私が飛びださなかったらネロさんはもっと痛い目にあっていたはずだ。
しかも、ネロさんはそれを分かって、狙って行動している。
「ノアの事を『王子』って何なんですか」
真っすぐに見つめて言うとネロさんがゴクンと唾を飲み込んだのが見えた。それから怒られた子供の様に視線を反らすと口を尖らせた。
「だって……王の子供なら王子じゃないですか」
ほっぺたを両手で押さえたまま、子供が悪戯をして怒られた様な感じだ。
「王子じゃないです」
私はネロさんの言葉に被せる様に強く言う。
私の側でノアが小さく息を呑んだのが聞こえた。
ネロさんは少しだけ間を開けて、珍しく食ってかかってきた。私の顔を覗き込んで細い眉をつり上げる。だけれどそれを突然隠す様にヘラっと笑う。
「ナツミさんは北の国がどれだけ大きいか知らないからそう言えるんですよ。どんな理由があっても、側室の子であっても王の血を引けばそれは立派な王──」
またネロさんが『王子』と言いそうになったので私は背伸びをしてネロさんのおでこに自分のおでこをぶつけた。
ゴン! と鈍い音が響いて、ネロさんは次の言葉が継げなくなる衝撃を受ける。
「グッ……最後まで言わせないなんて狡い」
涙目になりながらおでこを擦り合わせググッと力を入れ文句を言うネロさんだ。
青い瞳が苦しそうに歪んでいた。
それはほっぺたを引っ張られたからとか頭突きが痛いからではない。
泣き笑いの顔。
この瞳とこの顔は、よく知っている。
私も姉と元カレの事を知った時、よくこんな顔をしていたから。色々誤魔化す為に。
「違います。ノアは王子じゃない」
私は真っすぐネロさんの顔を見て静かに呟く。ネロさんは私の言葉を予想していたのかおでこを擦り合わせたままニッコリ笑う。
「では『ファルの町』の領主の子供ですか? 次期領主になるべく男ですか? 立派な王の息子なのに?」
矢継ぎ早に告げる言葉は鋭さを増していた。
私は怯まない。
「違います。ノアはネロさんの弟です。この世界でたった一人の」
ネロさんは口を開いて言葉を発しようとしていたが、私の台詞が予想外だったのだろう。
ネロさんは二の句が継げなくなった。
それから少ししてネロさんは困った顔をして掠れた声で呟いた。
「弟だなんて、そんな恐れ多い……」
ネロさんの声は震えていた。
「違いませんよ。弟です。領主とか王とかそんなのは関係ないです。ここにいるノアにとってネロさんはかけがえのないお兄さんです」
私はそっとネロさんが自分の頬を押さえる両手に触れてゆっくりと言い聞かせる。
「僕が兄……」
銀縁眼鏡の向こうで目がゆっくりと細くなる。目尻にうっすら涙が浮かぶ。
「ネロさんがノアの出生を調べていたのはノアの為だけじゃない。自分の為でもあったんですね。ノアが何処の誰だか分かったとしても一つだけ答えがありますよね。それは──」
私はその次の言葉を続ける事はやめた。
ノアと血が繋がっていないと分かった時点でネロさんは気がついたのだ。
ノアが何処の誰でも、自分と関係のない時点で家族を失ってしまう事になると。
機能しない家族の仲で何とか気持ちに折り合いをつけて育ってきた。
自分の母にも認識されず、父も話をする暇もない。
ネロさんにとっても心のよりどころは、ノアだったのではないだろうか。
「ノアは単なる坊ちゃんだと思うけれど、ネロさんの弟です。ネロさんはノアのお兄さんです」
私がそう伝えると、ネロさんの銀縁眼鏡の向こうにある瞳が大きく見開いた。そして、口を震わせてゆっくりと微笑んだ。
それはホッとした顔だった。
「もう……ナツミさんは狡いですよね。僕が欲しかったたった一つの言葉をくれるんですから」
ネロさんの青白い頬に涙が伝った。それから口元を覆って俯き静かに肩を震わせていた。
「ナツミ」
振り向くとノアが不満そうに口を尖らせていた。
あれ。
「何で不満顔?」
ここはネロさんを抱きしめるぐらいの勢いのはずなのに。私が首を傾げるとノアが私の頭をポコンと叩いた。
「痛っ。何するんだよ」
「俺が単なる坊ちゃんって。そんな余計な一言いらないだろ」
私の頭をグイッと横にどけながら、ノアが歯ぎしりをして呟いた。
「あっ。ごめん思わず。本当の事を」
軽く叩かれた頭をさすりながらノアに謝る。
「思わず出た本当の事なら余計悪いだろ。まるでザックが言い出しそうな台詞だ。本当にお前達二人ときたら」
ノアはブツブツと文句を言い始めた。
するとザックが私の腕を掴んで、自分の方に引き寄せた。それから叩かれた部分を撫でてくれた。
「よしよし痛くなかったか? 全くナツミが変態ネロと単なる坊ちゃんノアの為に、折角助け船を出してやったのに。単なる坊ちゃんは文句ばかり言って酷いよなぁ」
それから私の頭に頬ずりをしながら抱きしめてくれた。
ザックのつけている香水、ベルガモットの香りが鼻をくすぐる。
「な・に・が・助け船だ! 二人して俺の事を馬鹿にしやがって」
ノアがプリプリ怒り出した。
ザックは軽く笑うと片手を上げてノアの肩をポンと叩いた。
「馬鹿にはしてないさ。変態ネロに、坊ちゃんのノア。ハハッ! おもしれぇ兄弟。やっぱり、変態兄貴の弟はノアじゃないとな」
「グッ……変態兄弟でまとめるな」
ノアが深い溜め息をつきながら、静かに涙を流すネロの前に立った。
頭一つ背の高いノアがゆっくりとネロの肩を叩いた。
「俺はネロに感謝をしているんだ。機能しない家族の仲で唯一頼れたのはネロだけだった。機能しなかった理由をもう少し早く皆が分かっていたならと思ってならないが──過去には戻れない」
ノアはアイスブルーの瞳を優しく細めて、ネロの肩に置いた手をグッと握りしめる。ネロはその言葉に小さく頷きながらチュニックの袖で涙を拭った。
「ノア……」
ネロさんは名前を呼んでノアの肩に置いた手首を握りしめた。
ノアはふわりと笑う。
それは優しい微笑みで、彼が本当に王子であると思う微笑みだった。
「俺は、自分が何処の誰だか分かってスッキリしたって言うのはあるけれども。王の血を引いていようが引いていまいがそんな事は俺には瑣末な事だ。俺はネロの弟だ。それだけだ」
瑣末な事──さほど重要ではないとは、なかなか思いきった事を言うノアだ。
でも私は分かる。それぐらい彼にはどうでもいい事なのだろう。
その力強い言葉にネロは最後頷いて笑った。
「分かったよ……王の息子が瑣末な事なんて思い切った事を言う奴だな。しかし、王の子供という事は今後も何処かで暴かれるかもしれない。ほったらかしにするのは得策ではないと思うが」
すんと鼻を啜り落ち着きを取り戻したネロさんが静かに答えた。
するとノアがウーンと考えながら天井を向く。
「そうだなぁ。それはとっておきの札って事でどうだろう。この『ファルの町』が平和で過ごせなくなった時に、利用すればいいってのは? そういうのネロ得意だろ?」
「え」
飄々と答えるノアにさすがのネロも目を丸めていた。
「結構大胆な事を考えるねノアって。何だか今までと性格が変わったみたい」
私は思わず肩を抱いているザックにぼそりと呟いた。するとザックが苦笑いをして私に聞こえるほどの小さな声で呟いた。
「そうかぁ? 俺には『そんな事、ネロが考えてくれ』って言っている様で、ノアの本質は前とあんまり変わってねぇぞ。参謀に丸投げってところだろ」
「うーん、参謀に丸投げって」
ノアの一言は、頼りないと情けないと感じるだろうか。
「でも、まぁ上出来かな。ノアにしては」
ザックが瞳を細めてノアを見つめていた。
そうだ、いつかザックも言っていた。ノアに足りないもの一つ。人を頼る事。
今のノアの一言は『ネロさんを頼りにしているぞ』という事ではないだろうか。
ちょっと坊ちゃんぽくって捻くれているけれども。それもノアらしいかもしれない。
ノアは変わりつつある。そうして、アルさんの事も解決に導く事が出来たら良いのに。
そう思ってならなかった。
「ふふふ。ノアを支えているのはナツミの一言よね」
ザックの隣にマリンが立っていてニコニコと笑っていた。
「そうかなぁ。だって、変態兄弟でまとまったけれども」
「それでいいのよ」
マリンはクスクスと笑っていた。
マリンは思う。
誰もが口にしないあやふやな事をナツミははっきりと言った。それは魔法の言葉。
『ノアは王子じゃない。ノアはネロさんの弟です。この世界でたった一人の』
それはネロを助けた言葉だけではない。一緒にノアも助けたのだ。
「私もそう思っているわよ」
マリンがポツリと呟くと、ナツミがポカンとしていた。
「え。ノアも変態になっちゃうけどいいの?」
「もう。ナツミったら。よく変態って連呼するけれども、実はナツミが変態好きなんじゃないの?」
マリンは意地悪く笑って見せた。
「ちっ! 違うからっ」
マリンの愛しい友人ナツミは、慌てて否定した。
それから目尻に堪った涙を拭うと寂しそうに微笑んだままゆっくりと椅子から立ち上がる。ようやくチュニックを手にして、腰帯を巻いて姿を正した。
ネロさんはノアと向かい合う様にしてお互いの顔を見つめる。
それからゆっくりとノアは口を開いた。
「ネロはいつから俺の事を疑問に思っていたんだ?」
ノアはアイスブルーの鋭い瞳をネロに向ける。
ノアは冷静だ。
ザックとマリンが関係していた話を聞いた時と同じだ。
覚悟が決まって、全てを受け入れるつもりなのだ。
その気持ちを知ってか知らずか、ネロさんは視線を床に落として、ポツリと呟いた。
「ノアの母上と僕の母が立て続けに亡くなって、ノアが家に帰ってこなくなっただろ? その時に父が──いや領主だね。僕の母の前の墓で泣きながら謝っていたのを聞いたのが切っ掛けさ。まるでアルと僕の母が目の前で生きている様に話しかけていた。『妾ではないのは本当だ。頼まれたんだ或る人に』とね。生前母は精神的に参ってしまったから、話をまともに聞けずにいたのさ。だけど墓前で謝っては遅いよね。領主だってそんな事は分かっていたのだろうけど。本当に愛した女性だったのは間違いない。辛かったのだろう」
「……そうか、そんな事が。そして、そんな前から疑問に思っていたのか」
「僕も医療魔法の研究や、軍に関する仕事を始めた頃だからね。忙しさを言い訳に身を任せて忘れてしまいたかったよ。しかし、それは自分の母親が狂った上に亡くなった事を秘密にしているという後ろめたさから逃げたかっただけなのかも。しかも、アルも知らない事実を一人抱えるのは予想以上に重圧だった」
「! アルも知らないのか」
ネロさんの淡々とした言葉にノアも聞き入っていた。
ネロさんにとってはもう過去の事だからなのか。
それとも自分を俯瞰する事で冷静でいようとしたからなのか。ネロさんの話し方はまるで他人に起こった出来事を話している様に感じた。
「二人も亡くなった事実だけでも乗り越えるのに必死だったのにさ。父の嘆きなど聞かなければ、僕も知らずにいられたのに──」
ネロさんはいつもの様にヘラヘラとは笑っていなかった。
真っすぐにノアを見つめて困った様に眉を下げて首を傾げた。銀縁眼鏡の向こうで瞳が細くなった。
「知ってしまったから、後戻りが出来なくなったのか」
ノアが飲み込んだネロさんの言葉を続けた。ネロさんはスッと真顔になってノアの肩を叩いた。
ネロさんは一瞬ひきつった様に頬を歪めたが優しく笑うと、掴まれたノアの手を肩からゆっくりと放す。
「ゴッツさんの調べが当たっていると僕も思う。別荘にいるアルマに声をかけるといい。きっと側室の子供である事を証明する何かを持っているだろう。そうしたらノア、いや王子よ、王に会う為北の国に向かうべきだ。そして王の子だと伝えるべきだ」
ネロさんはノアの事を王子と呼んだ。
突き放す言い方に私は思わず口を開こうと思ったが、ネロさんの顔を見て息を呑んでしまった。
滑舌ははっきりとしているし真剣な眼差し。ネロさんも領主の息子として堂々としていた。
一見そう見えるのに、銀縁眼鏡の向こうにある瞳が寂しく見える。
ネロさんに突き放されたと一瞬で理解したノアは拳を握りしめた。
ノアの拳が震えている。
「ネロ、俺は──」
ノアは必死に口を開いて言葉を続けようとしたが、スッとネロさんから視線を逸らされて次の言葉を飲み込んでしまう。
私は思わずネロさんの前に立った。
不意に視界に入った私にネロさんは何故かホッとした様な顔をした。いつもの調子を取り戻そうとしたのかもしれない。ヘラっと笑って顔を歪ませる。
「ナツミさん済みません、巻き込んでしまって。ナツミさんからも王子に言ってもらえませんか──グッ!」
体が先に動くのは元々だ。けれども、最近はザックのせいでもある様な気がしてきた。うん、そういう事にしておこうかな。
私は言葉よりも先に両手でネロさんのほっぺたを左右に思いっきり引っ張った。
「わけの分からない事を言うのはこの口ですね」
「ニャニュミヒャン、ニャニヒュル、ギャー!」
突然私にほっぺたを引っ張られたネロさんは予想以上におかしな声を上げた。それでも私は手を緩めない。
「私にはネロさんが何を言っているのか聞こえませんけど」
多分『ナツミさん、何する』と言っているのだろうけれども私は意地悪く声を上げる。
ネロさんの悲鳴が聞こえて我に返ったノアが慌てて私の肩に手を置いた。
「待て待てナツミそれは引っ張りすぎだろ。ネロは細身で頬には肉もついていないし。いくら何でも千切れるのではないのか?!」
ノアは慌てて私の手を止めようと必死になる。
「そんなに引っ張ってないもん」
私はギリギリと出来るだけ左右に引っ張ってパッと手を放した。
「ギャァ!」
ネロさんが涙を流しながら両ほっぺを自分の手で包んで俯く。
「ひ、酷いですナツミさん。暴力反対……」
怨めしそうな声を上げるけれども、『痛いです』と声を上げないネロさんだ。
「そうですよ。暴力ですよ。ネロさんもこんな事を突然されると痛いでしょ? 痛いって言っていいんですよ。『ナツミさん、何を』じゃなくて『ナツミさん、止めて』って。どうして言わないんですか?」
「……」
私が何を言いたいのか分かったのがネロさんは俯いたまま両頬を摩っている。
「ネロさんだって傷ついているのに、どうしてノアを突き放すんですか?」
私はわざとネロさんの俯く顔を下から覗き込んだ。
まさか覗き込まれるとは思わなかったのか、ネロさんは銀縁眼鏡の奥で目を丸めた。慌てて姿勢を正していた。
その様子に少し遠くで見ていたザックが暢気に「お。ネロが起き上がったぞ」と呟いていた。隣でマリンが苦笑している。
もう。何を暢気にしているのだか。
私はちゃんと見ていたよ。ザックだってネロさんが『王子』って言った途端、拳を振り上げたのを。私が飛びださなかったらネロさんはもっと痛い目にあっていたはずだ。
しかも、ネロさんはそれを分かって、狙って行動している。
「ノアの事を『王子』って何なんですか」
真っすぐに見つめて言うとネロさんがゴクンと唾を飲み込んだのが見えた。それから怒られた子供の様に視線を反らすと口を尖らせた。
「だって……王の子供なら王子じゃないですか」
ほっぺたを両手で押さえたまま、子供が悪戯をして怒られた様な感じだ。
「王子じゃないです」
私はネロさんの言葉に被せる様に強く言う。
私の側でノアが小さく息を呑んだのが聞こえた。
ネロさんは少しだけ間を開けて、珍しく食ってかかってきた。私の顔を覗き込んで細い眉をつり上げる。だけれどそれを突然隠す様にヘラっと笑う。
「ナツミさんは北の国がどれだけ大きいか知らないからそう言えるんですよ。どんな理由があっても、側室の子であっても王の血を引けばそれは立派な王──」
またネロさんが『王子』と言いそうになったので私は背伸びをしてネロさんのおでこに自分のおでこをぶつけた。
ゴン! と鈍い音が響いて、ネロさんは次の言葉が継げなくなる衝撃を受ける。
「グッ……最後まで言わせないなんて狡い」
涙目になりながらおでこを擦り合わせググッと力を入れ文句を言うネロさんだ。
青い瞳が苦しそうに歪んでいた。
それはほっぺたを引っ張られたからとか頭突きが痛いからではない。
泣き笑いの顔。
この瞳とこの顔は、よく知っている。
私も姉と元カレの事を知った時、よくこんな顔をしていたから。色々誤魔化す為に。
「違います。ノアは王子じゃない」
私は真っすぐネロさんの顔を見て静かに呟く。ネロさんは私の言葉を予想していたのかおでこを擦り合わせたままニッコリ笑う。
「では『ファルの町』の領主の子供ですか? 次期領主になるべく男ですか? 立派な王の息子なのに?」
矢継ぎ早に告げる言葉は鋭さを増していた。
私は怯まない。
「違います。ノアはネロさんの弟です。この世界でたった一人の」
ネロさんは口を開いて言葉を発しようとしていたが、私の台詞が予想外だったのだろう。
ネロさんは二の句が継げなくなった。
それから少ししてネロさんは困った顔をして掠れた声で呟いた。
「弟だなんて、そんな恐れ多い……」
ネロさんの声は震えていた。
「違いませんよ。弟です。領主とか王とかそんなのは関係ないです。ここにいるノアにとってネロさんはかけがえのないお兄さんです」
私はそっとネロさんが自分の頬を押さえる両手に触れてゆっくりと言い聞かせる。
「僕が兄……」
銀縁眼鏡の向こうで目がゆっくりと細くなる。目尻にうっすら涙が浮かぶ。
「ネロさんがノアの出生を調べていたのはノアの為だけじゃない。自分の為でもあったんですね。ノアが何処の誰だか分かったとしても一つだけ答えがありますよね。それは──」
私はその次の言葉を続ける事はやめた。
ノアと血が繋がっていないと分かった時点でネロさんは気がついたのだ。
ノアが何処の誰でも、自分と関係のない時点で家族を失ってしまう事になると。
機能しない家族の仲で何とか気持ちに折り合いをつけて育ってきた。
自分の母にも認識されず、父も話をする暇もない。
ネロさんにとっても心のよりどころは、ノアだったのではないだろうか。
「ノアは単なる坊ちゃんだと思うけれど、ネロさんの弟です。ネロさんはノアのお兄さんです」
私がそう伝えると、ネロさんの銀縁眼鏡の向こうにある瞳が大きく見開いた。そして、口を震わせてゆっくりと微笑んだ。
それはホッとした顔だった。
「もう……ナツミさんは狡いですよね。僕が欲しかったたった一つの言葉をくれるんですから」
ネロさんの青白い頬に涙が伝った。それから口元を覆って俯き静かに肩を震わせていた。
「ナツミ」
振り向くとノアが不満そうに口を尖らせていた。
あれ。
「何で不満顔?」
ここはネロさんを抱きしめるぐらいの勢いのはずなのに。私が首を傾げるとノアが私の頭をポコンと叩いた。
「痛っ。何するんだよ」
「俺が単なる坊ちゃんって。そんな余計な一言いらないだろ」
私の頭をグイッと横にどけながら、ノアが歯ぎしりをして呟いた。
「あっ。ごめん思わず。本当の事を」
軽く叩かれた頭をさすりながらノアに謝る。
「思わず出た本当の事なら余計悪いだろ。まるでザックが言い出しそうな台詞だ。本当にお前達二人ときたら」
ノアはブツブツと文句を言い始めた。
するとザックが私の腕を掴んで、自分の方に引き寄せた。それから叩かれた部分を撫でてくれた。
「よしよし痛くなかったか? 全くナツミが変態ネロと単なる坊ちゃんノアの為に、折角助け船を出してやったのに。単なる坊ちゃんは文句ばかり言って酷いよなぁ」
それから私の頭に頬ずりをしながら抱きしめてくれた。
ザックのつけている香水、ベルガモットの香りが鼻をくすぐる。
「な・に・が・助け船だ! 二人して俺の事を馬鹿にしやがって」
ノアがプリプリ怒り出した。
ザックは軽く笑うと片手を上げてノアの肩をポンと叩いた。
「馬鹿にはしてないさ。変態ネロに、坊ちゃんのノア。ハハッ! おもしれぇ兄弟。やっぱり、変態兄貴の弟はノアじゃないとな」
「グッ……変態兄弟でまとめるな」
ノアが深い溜め息をつきながら、静かに涙を流すネロの前に立った。
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「俺はネロに感謝をしているんだ。機能しない家族の仲で唯一頼れたのはネロだけだった。機能しなかった理由をもう少し早く皆が分かっていたならと思ってならないが──過去には戻れない」
ノアはアイスブルーの瞳を優しく細めて、ネロの肩に置いた手をグッと握りしめる。ネロはその言葉に小さく頷きながらチュニックの袖で涙を拭った。
「ノア……」
ネロさんは名前を呼んでノアの肩に置いた手首を握りしめた。
ノアはふわりと笑う。
それは優しい微笑みで、彼が本当に王子であると思う微笑みだった。
「俺は、自分が何処の誰だか分かってスッキリしたって言うのはあるけれども。王の血を引いていようが引いていまいがそんな事は俺には瑣末な事だ。俺はネロの弟だ。それだけだ」
瑣末な事──さほど重要ではないとは、なかなか思いきった事を言うノアだ。
でも私は分かる。それぐらい彼にはどうでもいい事なのだろう。
その力強い言葉にネロは最後頷いて笑った。
「分かったよ……王の息子が瑣末な事なんて思い切った事を言う奴だな。しかし、王の子供という事は今後も何処かで暴かれるかもしれない。ほったらかしにするのは得策ではないと思うが」
すんと鼻を啜り落ち着きを取り戻したネロさんが静かに答えた。
するとノアがウーンと考えながら天井を向く。
「そうだなぁ。それはとっておきの札って事でどうだろう。この『ファルの町』が平和で過ごせなくなった時に、利用すればいいってのは? そういうのネロ得意だろ?」
「え」
飄々と答えるノアにさすがのネロも目を丸めていた。
「結構大胆な事を考えるねノアって。何だか今までと性格が変わったみたい」
私は思わず肩を抱いているザックにぼそりと呟いた。するとザックが苦笑いをして私に聞こえるほどの小さな声で呟いた。
「そうかぁ? 俺には『そんな事、ネロが考えてくれ』って言っている様で、ノアの本質は前とあんまり変わってねぇぞ。参謀に丸投げってところだろ」
「うーん、参謀に丸投げって」
ノアの一言は、頼りないと情けないと感じるだろうか。
「でも、まぁ上出来かな。ノアにしては」
ザックが瞳を細めてノアを見つめていた。
そうだ、いつかザックも言っていた。ノアに足りないもの一つ。人を頼る事。
今のノアの一言は『ネロさんを頼りにしているぞ』という事ではないだろうか。
ちょっと坊ちゃんぽくって捻くれているけれども。それもノアらしいかもしれない。
ノアは変わりつつある。そうして、アルさんの事も解決に導く事が出来たら良いのに。
そう思ってならなかった。
「ふふふ。ノアを支えているのはナツミの一言よね」
ザックの隣にマリンが立っていてニコニコと笑っていた。
「そうかなぁ。だって、変態兄弟でまとまったけれども」
「それでいいのよ」
マリンはクスクスと笑っていた。
マリンは思う。
誰もが口にしないあやふやな事をナツミははっきりと言った。それは魔法の言葉。
『ノアは王子じゃない。ノアはネロさんの弟です。この世界でたった一人の』
それはネロを助けた言葉だけではない。一緒にノアも助けたのだ。
「私もそう思っているわよ」
マリンがポツリと呟くと、ナツミがポカンとしていた。
「え。ノアも変態になっちゃうけどいいの?」
「もう。ナツミったら。よく変態って連呼するけれども、実はナツミが変態好きなんじゃないの?」
マリンは意地悪く笑って見せた。
「ちっ! 違うからっ」
マリンの愛しい友人ナツミは、慌てて否定した。
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神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
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彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
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