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氷花
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足の裏で、ザクザクと雪と土とが割れる音を立てている。近くの木に手をつき、はぁーっと吐いた白い息は風にさらわれたなびいて、ガサガサの枝に巻きついて消えた。大きく吸った空気に肺がキュッと締め付けられて、思わず咳き込む。寒波の過ぎた正午手前でも、耳の裏で氷を挟んだような寒さが体の芯まで響いた。
山の実りは落ちてどこもかしこも冬支度を始めるこの季節にあって、百年に一度とか言う大寒波が二週間ほど続いた。山々は早々に雪化粧を済ませ、しかし人々は何かと足を止められている。父と兄が出稼ぎに出てまだ帰ってきていないのはそういうことなのだ。
「見つけた」
声は上ずり、わたしの頬が少しだけ熱く、また持ち上がったのが分かった。
湖と呼ぶには小さく、泉と呼ぶには少々大きい水溜り。ちょうどその中央くらい、氷が張られた表面に、一輪だけ花が咲いていた。氷花だ。
わたしは一歩踏み出した。ピシリ、と心があげた悲鳴のような音が鳴り、足元にじわりと水が滲みだす。——渡れない、と悟り二の足を踏むには十分な体験だった。どこか氷の厚い場所はないだろうかと、時々氷を踏みながらぐるりと一周することにした。
母は肺に病を患っている。毎年、冬の最も厳しくなる時期に容態が悪化し、薬を飲まねば一週間と生きられない体だった。それが先日の大寒波により悪化した。薬の備蓄は家にも村にもなく、また薬の出回る時期でもなければ余分に支払えるお金もないので、例え近くの街に行ったとしても、買える保証はどこにもない。結局ところ、病に効く薬の原料である氷花を自分で採取し、煎じて飲ませる以外に、母の生きて助かる方法がわたしには思いつかなかった。
母は日ごとに咳が増え、肺からぜーぜーがらがらと音が聞こえ、起き上がることさえできなくなった。わたしは血を吐き苦しむ母の姿をただ見守り祈るばかり。寒波の過ぎ去る今日をいったいどれほど待ちわびただろうか。
そうして、いま目の前に、少し歩けば手の届くこの距離に、氷花があるのだ。
ちょうど反対側の岸に、踏んでも割れない場所があった。恐る恐る踏み出した足に全体重をゆっくり乗せ、次の足を繰り出した。一歩、また一歩とサーカスの綱渡りに挑戦する新人ピエロのように慎重に氷上を歩く。固唾を呑んで見守る観客の期待に似た、次の瞬間には氷が砕けて水底に沈むかもしれないという恐怖は増していった。しかし、何もなさずに戻るというのはこれと同じか、戻った後にもう一度挑まねばならない勇気を勘案すればそれ以上に恐ろしくもあった。
そんなわたしの不安とは裏腹に、あっさりと氷花の下へとたどり着いてしまった。胸に両手を抱いて長く長く息を吐く。足元の氷が砕けてしまいそうなほど大きな心臓の鼓動が沈まるように。
すでに陽光で溶けだしくすんだ、ともすれば少しの緑の入った水色をした花弁は、宝石よりもずっと輝いて見えた。
氷花は氷の中で芽を出す特殊な植物で、数時間としないうちに散る花弁の代わりに——この地域では——淡い水色の氷の花をつけるらしい。採取ののちに花弁は溶けてしまうので、私もこれまで実物を見たことはなかった。そしてまた、その茎が万病に効くと言われている。
わたしが氷花を根元からちぎり、——早く帰って飲ませてあげよう、と安堵したのと足元が砕けたのはほとんど同時だった。声をあげる暇すらなく、気が付けばわたしは水の中にいた。
寒くて暗くて恐ろしい。驚きで息をほどんど吐いてしまっていた。じたばたもがいたところでふと気が付く。幸いなことに水深は私の身長ぴったりで、水底に足が着いたのだ。
すぐさま浮き上がって空気を吸いこみ、薄氷に手をかける。風にはためくカーテンに触れたみたいに、重さに耐えかた氷が崩壊し、体はまた沈む。それを何度か繰り返すと水面から顔が出て、肩が出て、胸が出て腰が出た。ざぶざぶと氷を割りながら無我夢中で岸に上がる。大の字になって地面に転がり、腹ペコな状態で食べるごちそうのように呼吸を繰り返した。
寒さで硬直した右手にはしっかりと氷花の茎が握りしめられている。池には、氷の割れた水の道が出来ていた。
——やった、やった!
命を掛け金にした達成感というのは、午前中に薪割りや掃除や洗濯などを終わらせて日が暮れるまで昼寝をするあの満足感のように心地が良い。このまま眠ってしまいたくなるほどだった。
体は重たく冷たい。手足の感覚もなければ指の一本も動きそうにはない。意識はどんどん遠のいていく。瞼がおりて先ほど沈んだ水底みたいに暗かった。ただ違うのは、温かいことと昨晩耳にした「おやすみ」と囁く母の声が聞こえてきたこと——。
はっとして私は飛び起きた。帰らなければいけいない、なんとしてでも。
わたしはふらふらと立ち上がり、落ちていた木の枝を杖にして家に帰った。
「ただいま……」
玄関のドアを開けると暖炉からなる熱気がわたしを優しく包みこむ。わたしはその場に崩折れ涙がこぼれた。腰が抜けて力の入らない体のまま、母のいる寝室へと這っていく。
服も体もびしょ濡れだから、床はナメクジが通った跡みたいに汚れた。これがいつもの母に見つかったらきっと、「今すぐ掃除しなさい」とでも怒鳴られただろう。母の声が聞けるならそれでもいい。でも言われたらやっぱりちょっとむっとして、服を脱いで、シャワーを浴びてから床を掃除して、そうしたらホットミルクを飲んでソファで少し横になろう。母はそんなわたしにブランケットを掛けて「おやすみ」を言うのだ。
寝室のドアを開けた。病人特有の澱んだ空気が鼻を掠めた。母は朝からずっと、咳の一つもせずに眠っている。
「お母さん」
毛布の中を探って取った手は、わたしのそれよりずっと冷たい——。
山の実りは落ちてどこもかしこも冬支度を始めるこの季節にあって、百年に一度とか言う大寒波が二週間ほど続いた。山々は早々に雪化粧を済ませ、しかし人々は何かと足を止められている。父と兄が出稼ぎに出てまだ帰ってきていないのはそういうことなのだ。
「見つけた」
声は上ずり、わたしの頬が少しだけ熱く、また持ち上がったのが分かった。
湖と呼ぶには小さく、泉と呼ぶには少々大きい水溜り。ちょうどその中央くらい、氷が張られた表面に、一輪だけ花が咲いていた。氷花だ。
わたしは一歩踏み出した。ピシリ、と心があげた悲鳴のような音が鳴り、足元にじわりと水が滲みだす。——渡れない、と悟り二の足を踏むには十分な体験だった。どこか氷の厚い場所はないだろうかと、時々氷を踏みながらぐるりと一周することにした。
母は肺に病を患っている。毎年、冬の最も厳しくなる時期に容態が悪化し、薬を飲まねば一週間と生きられない体だった。それが先日の大寒波により悪化した。薬の備蓄は家にも村にもなく、また薬の出回る時期でもなければ余分に支払えるお金もないので、例え近くの街に行ったとしても、買える保証はどこにもない。結局ところ、病に効く薬の原料である氷花を自分で採取し、煎じて飲ませる以外に、母の生きて助かる方法がわたしには思いつかなかった。
母は日ごとに咳が増え、肺からぜーぜーがらがらと音が聞こえ、起き上がることさえできなくなった。わたしは血を吐き苦しむ母の姿をただ見守り祈るばかり。寒波の過ぎ去る今日をいったいどれほど待ちわびただろうか。
そうして、いま目の前に、少し歩けば手の届くこの距離に、氷花があるのだ。
ちょうど反対側の岸に、踏んでも割れない場所があった。恐る恐る踏み出した足に全体重をゆっくり乗せ、次の足を繰り出した。一歩、また一歩とサーカスの綱渡りに挑戦する新人ピエロのように慎重に氷上を歩く。固唾を呑んで見守る観客の期待に似た、次の瞬間には氷が砕けて水底に沈むかもしれないという恐怖は増していった。しかし、何もなさずに戻るというのはこれと同じか、戻った後にもう一度挑まねばならない勇気を勘案すればそれ以上に恐ろしくもあった。
そんなわたしの不安とは裏腹に、あっさりと氷花の下へとたどり着いてしまった。胸に両手を抱いて長く長く息を吐く。足元の氷が砕けてしまいそうなほど大きな心臓の鼓動が沈まるように。
すでに陽光で溶けだしくすんだ、ともすれば少しの緑の入った水色をした花弁は、宝石よりもずっと輝いて見えた。
氷花は氷の中で芽を出す特殊な植物で、数時間としないうちに散る花弁の代わりに——この地域では——淡い水色の氷の花をつけるらしい。採取ののちに花弁は溶けてしまうので、私もこれまで実物を見たことはなかった。そしてまた、その茎が万病に効くと言われている。
わたしが氷花を根元からちぎり、——早く帰って飲ませてあげよう、と安堵したのと足元が砕けたのはほとんど同時だった。声をあげる暇すらなく、気が付けばわたしは水の中にいた。
寒くて暗くて恐ろしい。驚きで息をほどんど吐いてしまっていた。じたばたもがいたところでふと気が付く。幸いなことに水深は私の身長ぴったりで、水底に足が着いたのだ。
すぐさま浮き上がって空気を吸いこみ、薄氷に手をかける。風にはためくカーテンに触れたみたいに、重さに耐えかた氷が崩壊し、体はまた沈む。それを何度か繰り返すと水面から顔が出て、肩が出て、胸が出て腰が出た。ざぶざぶと氷を割りながら無我夢中で岸に上がる。大の字になって地面に転がり、腹ペコな状態で食べるごちそうのように呼吸を繰り返した。
寒さで硬直した右手にはしっかりと氷花の茎が握りしめられている。池には、氷の割れた水の道が出来ていた。
——やった、やった!
命を掛け金にした達成感というのは、午前中に薪割りや掃除や洗濯などを終わらせて日が暮れるまで昼寝をするあの満足感のように心地が良い。このまま眠ってしまいたくなるほどだった。
体は重たく冷たい。手足の感覚もなければ指の一本も動きそうにはない。意識はどんどん遠のいていく。瞼がおりて先ほど沈んだ水底みたいに暗かった。ただ違うのは、温かいことと昨晩耳にした「おやすみ」と囁く母の声が聞こえてきたこと——。
はっとして私は飛び起きた。帰らなければいけいない、なんとしてでも。
わたしはふらふらと立ち上がり、落ちていた木の枝を杖にして家に帰った。
「ただいま……」
玄関のドアを開けると暖炉からなる熱気がわたしを優しく包みこむ。わたしはその場に崩折れ涙がこぼれた。腰が抜けて力の入らない体のまま、母のいる寝室へと這っていく。
服も体もびしょ濡れだから、床はナメクジが通った跡みたいに汚れた。これがいつもの母に見つかったらきっと、「今すぐ掃除しなさい」とでも怒鳴られただろう。母の声が聞けるならそれでもいい。でも言われたらやっぱりちょっとむっとして、服を脱いで、シャワーを浴びてから床を掃除して、そうしたらホットミルクを飲んでソファで少し横になろう。母はそんなわたしにブランケットを掛けて「おやすみ」を言うのだ。
寝室のドアを開けた。病人特有の澱んだ空気が鼻を掠めた。母は朝からずっと、咳の一つもせずに眠っている。
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毛布の中を探って取った手は、わたしのそれよりずっと冷たい——。
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