楡井るるの願い事

追い鰹

文字の大きさ
上 下
4 / 15

2話

しおりを挟む
 チャイムの音で目が覚めた。ぼうっとする頭は「今何時だろ」と反射的にスマホをポケットから取り出させる。時刻は十一時四十分、ちょうど四時間目の授業が始まる時間だった。
 僕は保健室のベッドから身を起こし、閉じていたカーテンをシャッと開けた。保健室に来たときにはいた先生の姿は見えず、僕以外誰もいない空間には微かな消毒液の匂いだけが香っている。清潔だ、と思うのと同時に、散らかった先生の机の上を見てなんだか安心した。
 体調はさっきと比べれば良くなっていた。
 ——あんな未来はありえない。
 あまりの非現実な出来事だったことがそう思わせる。僕はそう決めつけるのと同時に、関わらなければ知らなかったことと同じだと思考に蓋をした。クラスメイトではあるけれど、同じクラスにいても話したことがほとんどない人だっているわけで、そう、いつものようにきちんと距離を保っていれば大丈夫なのだと。
 だんだんと心の動揺も収まってきた。「よし」と声をあげ、僕はベッドから出る。
 保健室の扉を開けようと手をかけると扉は勝手に開かれた。目の前には楡井るるが立っていた。
 驚きのあまり僕の体が固まる。だというのに、心臓はどんどんと鼓動を早めていく。
「体はもう平気? 篠宮君」
「なんで、僕の名前」
「出席簿を見たからあなたの名前だけじゃないんだけどね」
 楡井るるはふふっと笑って見せた。「でも私、あなたには興味があるの」美少女から言われた魅惑の一言。心臓がどきんと痛いくらいに跳ね上がる。でもこれは好意の表れではないと悟った。逃走中の凶悪犯が逃げ切れないと諦めたときのように、捕まった、とさえ思った。
「どうしたの怖い顔して。ああ、まだ体調がよくないんでしょ? それならもう少し休もう。それにほら、私、あなたと……ううん、篠宮君と話がしたいし」
「ねっ、いいでしょ?」同意を求めているくせに有無を言わせぬ一方的なやり取りのあと、僕は蝶を追う少年のように彼女背に引かれて、先ほどまで寝ていたベッドに連れ戻された。開け放したカーテンがシャーと音を立てて閉じられていく。牢屋の鉄格子が閉まっていくような絶望だ。僕らはベッドに並んで座った。正面じゃないのがせめてもの救いだった。
「まずはそうねぇ、自己紹介からかな」
 瑞々しく艶のある唇に人差し指をあてた仕草はぶりっ子か中二病の痛い女がやる虚しさはどこにも見当たらず、むしろ彼女のためにあるみたいだ。
 目が合った。薄く笑い、首の角度が少しだけ深くなる。さらりと数本、髪の毛が垂直におりていき、その間から覗く大理石のように滑らかな、しかし柔らかそうな肌が続く首筋。刹那に鎖骨がちらりと見えて、美しいという言葉ですら彼女の前では石ころ同然に思えてならない。ごくり、と音が聞こえそうなほどの唾が食道を通過していった。
「私の名前は楡井るる。道を歩けば誰もが振り返る完璧スーパー美少女JK様。それと、仕方がないこととはいえそう胸ばかりジロジロ見られるのは好ましくないから気を付けてね」
「あ、いやちがくて、ご、ごめん」
「へんたい」
 反則だ。僕はさっと顔を背けたが、きっと耳まで真っ赤になっているに違いない。しばらくは目を合わせられそうになかった。
「それでほら、君の番」
 僕が俯きながらしゃべり出すと「私は床じゃないんだけど」言って彼女は僕の耳を引っ張った。顔がとても近くって、吐息が混じるんじゃないかとドキドキしていた。彼女はムスッとした表情になり、「いたっ」僕の額にデコピンをして少しだけ距離を置いた。僕はその距離の分だけ我に返ることができた。
「篠宮真、十七歳です。これといった特徴もない一般人だから、楡井さんの興味を引くモノなんてないと思うよ」
「興味があるかないかは私が決めることだから気にしないで」
「まあそう、だね。でも、じゃあ何が?」
「真君、あなたは私を見た時どう思った?」
「き、きれいだなって」
「知ってるよそんなこと。そうじゃなくて、そのあとのこと」
「そのあと……」
 僕は独りでに呟いて、忘れようとしていたモノを思い出す。思い出されてしまった。金玉の皮がぎゅうぎゅうに縮こまり、腰から首へ走った悪寒からバトンを受け取った汗が逆方向へと流れていく。世界の気温が二度くらい下がった錯覚と、湿度が一%を切ったような渇きに襲われた。呼吸がどんどん乱れていくのを他人事のように感じている。
「そうそれそれ。君はなんで、そんな顔をしているの?」
 言葉にできない。僕は首を振る。これは出鱈目なありもしない妄想なんだと。
「しっかりして」
 両の頬をぎゅっと挟まれ、強引に顔を上げさせられた。彼女の目と僕の目が合った。吸い込まれそうな琥珀色の瞳の中には僕がいて、そこに閉じ込められるなら喜んで入ろうという気になった。「私を見て」彼女は確かにそう言った。
「あなたは何を見たの」
 彼女の言葉には確信が宿っている。誤魔化せやしない。
 それならもう、どうにでもなれ。
「楡井さんが死ぬ未来」
「それだけ?」
「それだけって、死ぬんだよ。それも何年も先の話じゃなくて、早ければここ数カ月に」
「はぁ……。知ってるわそんなこと」
 僕の頬から彼女の指が滑り落ちていく。指先の辿った肌が温もりを忘れまいと必死だ。離れた途端、母親を失った赤子のように、寂しさと不安が胸中に渦を作り泣き出したくなった。
「他にはないの? 例えば、どうやって死ぬのか、とか」
「知ってどうするの」
「やっぱり分かるのね」
「例えばの話だろ」
「ムキにならないでよ。でも今ので確信した」
 彼女はベッドから降りて立ち上がり、僕を見下ろす。腰に手を当て胸を張り、後光でも差し込んできそうなほどに堂々とした立ち姿なのに、存在はずっと遠く儚げに映る。
「真、君も私と同じ超能力者なんだね」
 いつの間にか呼び捨てにされたことなど気にもならなかった。目を見開いて驚き黙る僕をよそに、彼女はカーテンを開けて扉の方へと歩いていく。
「放課後また会いにいくから」
 横開きの扉は優雅に閉じて僕はまた一人になった。
 ちょうど、四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った。
しおりを挟む
1 / 4

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!


処理中です...