短編集【現代】

鈴花 里

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甘い香りの虜

前編

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 そこは誰も知らないはずの秘密の場所。
 とある人物が体を小さく丸め、気配を殺しながら、その秘密の場所に隠れている。


『お嬢様ー』
「!!」


 ビクリッ、と体を震わせる。
 隠れ始めた頃には聞こえなかったその声が、今でははっきり聞こえるほどの距離に近づいている。これでは見つかるのも時間の問題かもしれない。

(違う場所に隠れ直さないと……)

 物音を立てないように、慎重に、その場所から這い出ようとして――。


「お嬢様」
「あ」


 いつの間にそこへ来ていたのか。細身の黒いスーツを着た男が安堵の表情を浮かべながら、自分の目の前に立っていた。これではもう、逃げることはできそうにない。


「どこに隠れてるんですか」
「納戸の奥深く」
「平然と答えるのはやめてください」


 呆れたように溜め息をつきながら、男は納戸の隙間から中途半端に体が出ている女へ手を伸ばす。女は咄嗟に、その手から遠ざかろうとするが、間に合うはずもなく……。
 ふわり、と持ち上がる女の体。


「ちょっ!? 何するの!?」
「何って……。ここから出るお手伝いを」
「必要ないから!! 大丈夫だから!!」
「そんなに遠慮なさらなくても」
「してない!! 小さい子じゃないんだから、抱っこしないでっ!!」
「お嬢様、ちゃんとご飯食べてますか? 軽すぎますよ」
「食べてる! もりもり食べてる! だから、下ろしてっ!!」


 顔を真っ赤にしながらジタバタと暴れる女をものともせず、むしろ微笑ましそうだ。
 納戸の中からいとも簡単に女を出して、そっと床に下ろす。


「ケガはしていませんか?」
「してないっ」
「何を怒っているんですか?」
「怒ってないっ」
「頬が膨らんで、可愛らしいことになっていますよ?」


 爽やかな微笑みを浮かべて、男は膨らんでいる頬を優しく撫でる。
 すると、それに気分を害したのか。女はすぐさまその手を払う。


「子供じゃないって言ってるでしょ!」
「あ。頭に埃が乗っていますよ。あんな奥深くに入るから」
「え。ちょっと……」
「動かないでくださいね。今、取りますから」


 マイペースなのか、単に話を聞かない人なのか、女の頭に乗った埃を払い始める。その間、女の顔は不機嫌そうにしかめっ面だ。


「よし。いつも通りの可愛いお嬢様です」
「ねぇ、私の話聞いてる?」
「もちろんですよ。……あ。服にクモの巣がついています。動かないでくださいね」
「!!」


 男との間にあった一定の距離が、一気に縮まる。服についたクモの巣を取ろうとしているのだから当たり前なのだが、なぜか女が強張る。


「だ、大丈夫! それくらい自分でやるから!」
「できるんですか?」
「大丈夫!」
「虫の死骸でも取り乱すのに?」
「うっ」
「すぐに終わりますよ。動かないでください」
「……っ…」


 近づいてくる手に、体を強張らせてぎゅっと目を閉じる。心の中で「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせて、取り終わるのを我慢するつもりだったのだが……。

 甘い香りが鼻をかすめた瞬間。
 咄嗟に男の体を突き飛ばす。


「お嬢様?」
「あ。えっと、その」


 キョトンとした表情を浮かべる男を見て、やってしまったと女は混乱する。どうにかこの場を切り抜けるための言い訳を考えなくてはいけない。
 しかし、混乱している頭では言い訳もなかなか浮かばず――。


「…………」
「…………」


 二人の間には、気まずい沈黙が流れる。
 掛ける言葉も見当たらず、女がおろおろと目に見えて落ち着きをなくす。


「お嬢様」
「な、なに?」
「服が少し汚れているみたいですから、一度着替えた方がいいかもしれませんね」
「へ?」


 いつもと変わらない爽やかな微笑み。女からは思わず、間の抜けた声が出た。


「メイドに伝えますから、お嬢様は一度自室にお戻りください」
「だ、大丈夫。一人で着替えられるから……」
「時間がかかるでしょう?」
「かからない! あっという間に終わる!」
「本当ですか?」
「本当です!」
「……わかりました。でも、もし必要でしたら言ってください。私でよければ手伝いますよ」
「………っ……エッチ!!」


 まるで耳元で囁くような声に、女は顔を真っ赤にしながら叫ぶように言葉を投げると、全力で駆け出す。後ろからは、男の小さな笑い声が聞こえる気がする。

(私のこと、何歳だと思ってるの! いつまでも子供扱いして…………腹立つ!!)

 バタバタッと苛立たしげに足音を鳴らしながら、自分の自室へと駆け込む。バタンッといつもより大きめの音を立てて扉を閉め、その場にうずくまる。

 彼女の名前は、虎牙 清花。
 こう見えて、大財閥のご令嬢。

 彼女は、誰にも相談することができない、とてもデリケートな悩みを抱えている。
 その元凶とも言える存在がさっきまで一緒にいた男――蒼馬 匠。
 清花の世話係をしている執事である。

 幼い頃から傍にいたこの男に、清花は非常に困り果てていた。


「あのことがバレたら、絶対に引かれるよね……」


 深い溜め息をひとつ。
 こんな風に、自分に嫌気がさすのは一体何度目だろう。いい加減、どうにかしなくてはいけないとわかっているのに、どうにもできないことがもどかしい。


「何もかもお兄ちゃんのせいだよ……」


 鋭い眼光で睨む先にあるのは、仲睦まじい家族写真。その写真の自分の隣、綺麗な微笑みを浮かべている四歳年上の兄へ、その恨みは向けられていた。





 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





 遡ること半年前。
 清花が大学を卒業した数日後のことだった。


「清花。ちょっとおいで」


 部屋で本を読んでいた清花の元へやって来た兄は、穏やかな笑みで手招きをする。今は仕事中じゃないだろうかと不思議に思いながらも、清花は兄の元へ。


「どうしたの?」
「ちょっと聞いてほしい話があるんだ。俺の部屋まで来てくれる?」
「うん。いいよ」


 言われるがままついて行って、兄の部屋に入ると――


「き、汚い……。部屋の掃除した方がいいよ……」
「まぁ、そのうち」
「絶対する気ないでしょ」


 片付けるのが苦手な兄の部屋は、床のところどころに物が落ちていたり、仕事で必要な本が至るところに積み重なっている。特にベッドの上は最悪だ。脱いだ服がたくさん置いてある。
 人に部屋をいじられるのが嫌いな兄は、使用人の掃除を断っているため、こうして日々部屋が汚くなっていくのだ。そのうちゴキブリでも出るのではないかと、清花は気が気じゃない。


「とりあえず、そこに座って」
「う、うん」


 この部屋の中で、唯一綺麗な応接用のソファに腰をかける。目の前のテーブルには、すでにお茶とお菓子が用意されていた。
 しかし、そのテーブルの端には、見慣れない皮でできた薄い本のようなものが積み重なっていて――。


「これ何?」
「清花への見合い写真の山だよ」
「え……なんて?」
「清花宛の見合い写真」
「これ……全部?」
「そうだよ」
「…………」


 開いた口が塞がらない。
 今までも時々お見合いの話は来ていたが、学業に専念したいと断り続けていた。それが大学を卒業した途端、少し自慢したくなるほどくるとは思ってもみなかったのだ。


「私、すごいモテモテ……」
「そうだね。でも、モテてるのは虎牙の名前だけど」
「だよね……」
「うん」


 軽い冗談を言ったつもりが、兄にはうまく伝わらず、本当のことを言われる。
 このお見合いのほとんどは虎牙からの融資を期待している者達だ。清花に好意を持って申し込んできているわけではない。


「断れるの?」
「うん。だけど、理由がないと少し困るかな」
「理由……」
「そう。たとえば、もう心に決めた人がいるとか」
「うーん……」
「たとえば、それが匠君とか」
「え? なんで、そこで匠君?」
「ん? 好きなのかなーと思って」
「ち、違っ……そんなんじゃない!」
「本当かな~」


 にこにこと微笑んでいる兄だが、その目は清花の本心を探ろうとしている。それに気付き、清花はそっと目をそらす。


「それにほら。この間言ってただろ」
「え?」
「匠君から甘くていい香りがするって」
「う、うん。確かに言ったけど」

 それが一体なんなのだ、と清花は顔をしかめる。

 自分の世話係である匠から甘くていい香りがするようになったのは、大学を卒業する少し前のこと。正確には、大学の友人が匠を見て騒ぎ立てた後からだ。
 甘いいい香りがして、気を抜くと抱きつきたくなる衝動にかられてしまう。小さい頃であったなら、さほど問題にはならなかっただろうが、清花はもう大人だ。さすがに抱きつくのは良くないとわかっているため、必死に堪えている。
 しかし、それが一体どうしたというのか。清花は首を傾げる。


「つまり、好きな人からはいい香りがするってこと」
「…………へ?」
「匠君のこと好きなんだよ、清花は」


 そう言って優しい笑みを浮かべる兄に、しばし固まる清花。
 しかし、その言葉の意味を理解した瞬間。
 これでもかというくらい顔が赤く染まる。


「あははっ。ゆでダコになってる」
「やめてよ! そういうんじゃない!」
「そうかな~」
「そうだよ! だって、別にドキドキするわけじゃなくて……えっと、その…………こ、興奮するだけだもん!!」
「…………」


 兄の表情が凍りつく。清花も自分が放った言葉に今更ながら気づく。


「お、お兄ちゃん! 違うの! 間違えた! 興奮じゃなくて……」
「いや、うん。大丈夫だよ。どんな清花でも、俺の妹に違いないから」
「なんで目を合わせてくれないの! 違うんだってば! お兄ちゃん!」


 その後、兄の誤解を解くのに三日もかかった――。

 それからは兄の言葉が頭から消えず、匠からするいい香りは、当初からは比べ物にならないほど強くなり、抱きつきたくなる衝動も倍に。そのため、近寄られるとついつい突き飛ばすことが増えてしまったのだ。


「どうしたらいいんだろ……」


 グスッと鼻をすする。
 今の状況をどうにかする方法がないわけではないが……。
 清花にそれを実行する勇気がないことが大きな問題だった。





 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇





 清花が最近知ったこと、それは――。
 少しでも気を抜くと、欲望のままに行動してしまうこと。


「お嬢様。朝ですよ」
「んん……」
「起きてください」


 頭を優しく撫でられる感触と一緒に、心地好い匠の声が耳に響く。このまま、ずっと眠っていたいと思うほどの気持ちよさだ。


「お嬢様」
「やー……」
「お嬢様。起きてください」


 ぼやぁ……とした意識の中、微かにする甘い香り。

(やっぱり、いい香り……)

 もっと近くでその香りをかぎたくて、自分の頭を撫でている手をぎゅっと握る。手のひらに頬をあてその温かさを堪能すれば、自然と鼻をくすぐる甘くいい香り。
 清花はゆるい笑みを浮かべながら、その手にすりすりと頬ずりをする。


「お嬢様」
「うん……」
「よろしければ、ハグでも致しましょうか」
「う…………ん?」


 かけられた言葉に違和感を覚え、ゆっくりと瞼を開く。すると、どこか嬉しそうな微笑みを浮かべた匠の顔が目に入る。


「あ、れ?」
「おはようございます」
「おは、よ…………っ!?」


 ようやく完全に目が覚めて、今の状況を理解する。

 “匠の手に頬ずりする自分”

 清花の顔が真っ赤に染まる。


「本当、可愛らしい人ですね」
「へ?」
「顔がゆでダコのようです」


 にっこり微笑んだ顔でそう言われ、余計に恥ずかしくなった清花は、布団を頭まで被って赤くなった顔を隠す。その行動にさえ、匠は小さな笑いをこぼしている。


「笑わないでっ!」
「可愛らしいお嬢様がいけないんですよ」
「可愛くないっ!」
「いいえ。とても可愛らしいです。――では、準備が整いましたら声をかけてください。廊下におりますので」


 その言葉にほっと息をはいて、これでやっと落ち着けると安心するのだが……。


「それとも……お着替えの手伝いでも致しましょうか」


 いつもより低い妖しげな声音に、ビクリッと体が震えるが、意を決して布団から顔を出し、精一杯睨み付けながら声を大にする。


「大丈夫だから早く行って! 廊下で待ってて!!」
「かしこまりました」


 軽く一礼をして背中を向ける匠からは、からかっていたのか、またもや小さな笑い声が聞こえる。そのことに腹を立てながら、清花は悔しげに枕を殴りつけるのだった。



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