腐った縁ほど良縁に

鈴花 里

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三毛猫と極限の人事部

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 ピピピピピ、ピピピピピ―――。


「………んん」


 気持ちよく眠っていた沙耶の耳に響くのは、やかましい目覚ましおん。もう起きる時間なのだろうが、まだ眠い沙耶は目を開けようとはしない。
 けれど、そこでふと、


(あ……。机に書類の山……)


 頭をよぎったのは、終わる気配のない大量の仕事である。
 もし、今起きず、このまま寝過ごした場合、沙耶には確実に悲劇が起きるだろう。主に、魔王によって引き起こされる悲劇が。


(絶対怒られたくない……! 私はまだ生きたい……!)


 何がなんでも起きる! と沙耶は体を動かそうする―――が。
 なぜか、体が言うことを聞かない。
 更に、異様な心地よさが起きる気力を削ごうとさえしてくる。信じられないくらい………ぬくい。とてもぬくい。


(……………まだいっか。だって、会社まで歩いて十五分で着くんだし)


 昨日は大試練に思えた十五分も、今日はたったの十五分。
 さっきまでは起きようと頑張っていた沙耶だが、今では気持ちが反転。あまりの心地よさに、意識がまた遠ざかり始めるが……。


「いい加減起きろや」
「痛っ!」


 突如、頭に落ちてきたチョップ。
 二度寝準備に入っていた沙耶も、さすがに目を開ける。
 しかし―――。
 奇妙なことに、目を開けた先に見慣れた光景がなかった。あるのは白い壁―――ではなく、白地の服を着た逞しい体だ。


(あれ……。おかしいな……。私、一人暮らしなんだけど……)


 現状に、ダラダラと流れる冷や汗。
 【恋人がいない女の部屋に、男がいる】―――。
 これは普通に考えて、ありえない現象だ。
 とはいえ、これが沙耶の父や弟であったなら、まだ話は別だが……。残念なことに、二人はここから少し離れた場所にある実家にいる。しかも、こんな風に沙耶と密着して寝るのはありえない。


(………じゃあ、今一緒に寝てるこの人は……っ)


 ダラダラと止まらない冷や汗。それを拭うこともできず、沙耶は恐る恐る顔を上げる。
 そして、合ったお互いの目と目―――。


「……………」
「よーく寝てたな?」
「超安眠、でした……」


 そう溢した沙耶の目の前に、不気味な笑顔輝く【古い知り合い】の顔。


「……………」


 沙耶は無言で視線を反らした。


(えっと……。状況確認をしようかな……)


 うん……と一人頷き、一旦冷静になる。
 なぜ、こんなことになっているのか。
 昨日の自分は、一体何をしたのか。
 信じがたい自分の今の状況は、【男と一つベッドの上で、仲良く寄り添いながら寝ている】だ。しかも、沙耶から男に抱きついている状態ときた。
 沙耶は今、猛烈に穴に埋まりたい。
 そして、奇妙な点は他にもある。
 それは、ここが沙耶の家ではないということ……。


(何があった……。寝る前の私……)


 顔には出していないが、頭の中は大パニック。
 昔話で例えるなら、沙耶が幼い頃、勝手に持ち出した母の婚約指輪。それを、誤って便器の中に落とした時ばりのパニックだ。


(どうすんの……!? 逃げる!?)


 素直に事情を聞いて謝ろうとしないところが、実に沙耶らしい。
 しかし、現実はそう甘くはない。


「沙耶」


 ビクゥッ! と沙耶の肩が跳ね上がる。
 なぜか、いつも以上に優しく聞こえる男の声。
 沙耶はそれが妙に恐ろしく、今すぐにでも逃げ出したくなるが。男はそんな沙耶の心境なんて、とっくに気が付いているはずだ。


「なんでこういう状況になったか、教えてやろうか」
「……………」
「知りたいよな?」
「……………」
「な?」
「………はい。とっても知りたいです……っ」


 最早、聞けと言わんばかりの威圧感。
 さすがの沙耶も、今回ばかりは反抗をやめ、素直に頷く。空気はちゃんと読める子である。


「一言一句、聞き逃さずに聞けよ?」


 そして、いまだに輝くような笑顔を浮かべる男は、ゆっくりと昨日の出来事について語りだした―――。

 沙耶が眠ってしまったあの後。
 家の前に到着しても、沙耶はまったく起きなかったらしい。大きい声で呼び掛けても、激しく揺さぶっても、頬をつねっても、沙耶は夢の中。


『はぁ……。仕方ねぇな……』


 寝ている相手の荷物を勝手に探ることには気が引けた男だが、この場合は仕方ない。
 沙耶の鞄から家の鍵を探すことに。しかし、探せど探せど鍵は見つからず……。
 どうするべきか最後まで悩んだ結果。外に放置するわけにもいかず、仕方なく自分の家に連れ帰ったという。


「ちなみに家の鍵はどこに入ってた?」
「化粧ポーチの中……」
「さすがにそこまでは見なかったわ」
「だろうね……」


 しかし―――。
 男曰く、大変だったのは更にその後だったらしい。
 とりあえず、おぶった沙耶を下ろそうと、男はベッドへと向かった。そしてそこに腰掛け、自分の首に回った沙耶の腕を外そうとする―――が。


『………は? 嘘だろ……』


 全然外れない。
 なぜなら、沙耶が全力で抵抗してくるからである。
 まいったな……と、男は溜め息を吐き、沙耶を背中に引っ付けたまま、仰向けに寝っ転がった。自分の体重のかければ、下敷きになった沙耶が苦しくなった拍子に腕を外すだろうと考えたからだ。
 しかし、その考えは甘かった。
 男の思惑通り、苦しくなった沙耶は腕を離したが……。
 一瞬の隙をついて、今度は正面から抱きついてきた。しかも、今度こそ引き剥がされないようにと、男の背中側の服をしっかりと握りしめて―――。


「……………」
「で、仕方ねぇから一緒に寝た」
「……………」
「ずいぶんと気持ち良さそうに寝てたな、お前」
「……………」


 返す言葉が見つからない……と、沙耶は奥歯を噛み締める。
 恥ずかしさ、情けなさ、申し訳なさ。他にも様々な感情が複雑に混じり合って、言葉にすらならない。


(確かに……あの背中が、クセになりそうなほど………心地よかったのは本当だけど……。これが布団だったらどれだけ快適だろうなーって……思ったのも、本当だけど……っ)


 まさか、意識のない自分が本当に布団代わりにしていたとは思いもせず……。
 顔を両手で覆い隠して、男から距離を取る。
 本当であればここで、


『ごめんなさい。ありがとう』


 と、言えればいいのだが……。
 沙耶にはできない。
 こんな簡単なことさえ、素直じゃない沙耶には難しかった。


「……………」
「沙耶」


 名前を呼ぶ声に、怒りは感じられない。


「沙耶」


 むしろ、優しく感じられるのはどうしてなのか。


「……………手間……かけさせた、わね……」
「……………」


(違う……! 言いたいのはそうじゃなくて、もっと……)


 素直な気持ちを―――と、そこまできて動けなくなる。


(………もう……嫌だ……っ)


 お礼を言うことは、決して難しいことではない。頭の中ではわかっていても、それをできない自分が沙耶は嫌いだ。
 目の前の男も、こんな自分の呆れているのだろう。そう思うと、顔を覆い隠した手も離すことができない。
 怖いと、沙耶は素直にそう思った。


「……………」
「沙耶」
「………何……」
「俺、沙耶に謝らないといけねぇことがあるんだけど」
「………え?」


 よくわからない男の言葉に、沙耶は顔を覆っていた手を思わず離す。
 謝りたいとはなんだろう。迷惑をかけているのは自分の方なのにと、沙耶は困惑する。
 そんな気持ちもあってか、沙耶は男の顔をジッと見つめる。
 しかしなぜか、背けられる顔。しかもどことなく、バツが悪そうな表情だ。


「………ねぇ。何?」
「えっと……。いくら力強く抱きつかれても、正直離そうと思えば離せたんだよ。沙耶より力あるし」
「……………」
「でも、そこで出てきたんだわ」
「?」
「男の欲ってやつ」
「……………は?」


 聞き流せなかった言葉に、沙耶の眉間にシワが寄る。しかし男はそれに気付かず、更に言葉を続ける。


「さすがに小さい頃とは違うな。大人になると、どうしたって邪な心が出てくる」
「……………」
「特に男は」
「………へぇ。つまり、何?」
「俺に当たってた沙耶のおっぱいが柔らかくて気持ちよかったので、わざとそのままにしました。おっぱいちゃんと育ってよかったな」


 この瞬間。


「よ……よくない……っ………ぜんっぜん!! よくないっ!!!」


 沙耶は何もかもどうでもよくなった。
 男へ感じていた申し訳なさも、自分への不甲斐なさも、そのすべてが綺麗さっぱり吹き飛んだ。


「ふざけんなっ!! この………おっぱい星人がー!!!」


 怒りと恥ずかしさで、顔が真っ赤に染めあがる。
 近くにあった枕を手に取り、男に向かって全力で投げつけるが……。


「まぁ、確かに。俺はおっぱいが好きだ。でもな、俺におっぱい押し付けてきたのは沙耶だろ」
「押し付けてないっ!!!」


 耳を疑うような言葉と共に、片手で軽々とキャッチされる。
 そして始まる攻防戦。


「絶対に押し付けてた」
「押し付けてないっ!!」
「覚えてないくせに」
「覚えてはないけどっ!!」
「完全に、押し付けてた」
「押し付けてないっ!! やめろっ!!!」


 その後、当然のように決着がつくことはなく。
 怒りと恥ずかしさが頂点を突き抜けた沙耶は、荷物を持って玄関へと向かう。ドスッ! ドスッ! と近所迷惑になりそうな足音を鳴らしながら。


「邪魔したなっ!!」


 靴を履き、男に背中を向け、叫ぶ。そしてその勢いのまま、玄関ドアを開けたところで―――。


「無理する必要ねぇからな」


 後ろから聞こえたそんな言葉に、沙耶は思わず振り返る。


「沙耶の言いたいことなんて顔見てればわかるし」
「………う、うるさいっ」


 ふんっ! とすぐに顔を背けて、沙耶は家の外に出る。けれど、たまらずすぐにそのドアへ寄りかかるようにしてしゃがみ込み。


(………振り返るんじゃなかった)


 そう思っても、もう遅い。


「おっぱい星人のくせに……!」


 熱を持つ頬を両手で押さえながら、ぎゅっと固く目を瞑る。


『無理する必要ねぇからな』


 そう言った男の、声が、顔が―――。


(優しくしないでよ……っ)


 沙耶が思わず動揺してしまうほどに、優しすぎたのである。


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