腐った縁ほど良縁に

鈴花 里

文字の大きさ
3 / 20
三毛猫と極限の人事部

しおりを挟む

「………はぁ。今日はもう帰るか……」


 イッキ飲みした栄養ドリンク片手に、朝以上に濃いクマをつくった課長が告げる。
 もう限界だ、と……。

 現在の時刻は、午後十一時。
 日中はどこからともなく声が聞こえていた社内も、今は火を消したように静まり返っている。各部署の中で電気がついているのは、もう人事部だけだ。
 そして、これだけ仕事をしても終わりが見えてこない現状に、皆、溜め息を吐かずにはいられない。


「帰って寝ろ。明日また頑張るぞ……」
「「「 了解です…… 」」」


 課長同様、朝よりも一層濃いクマをつくった人事部一同は、


『いつそう言ってくれるかと待ってました』


 と言わんばかりに声が揃った。
 どの机の上にも大量の書類が山積みとなっているが、これは一日、二日で捌けるものではない。期限内に終わらせるには、一日一日の休息が必要不可欠だ。それがわかっているからこそ、誰もが帰宅準備を始めている。
 そして、課長から解散を命じられた人事部一同は、一人また一人と重い体を引き摺ってオフィスを後にしていく。


「お疲れ様です……」


 沙耶もまた、空腹と眠気でフラフラと体を揺らしながら、人事部を後にする。
 日中は、周りの社員達が道を譲るほど凶悪だったヒール音も、今では微かに聞こえるくらいの弱々しさ。ほぼ、気配が消えていると言っても過言ではない。
 エレベーターに乗って、一階に降りる途中のちょっとした浮遊感でも瞼は落ちかける。


(どうしよう……。私、空飛んでる……)


 なんて、ありえないことを思ってしまうくらいに、沙耶の体力と精神力はほんの少ししか残っていない。

 ポーン―――。


「………あ」


 到着を知らせる音で、ようやく我にかえる。
 人気のない静かなホールをのろのろと歩き。このおぼつかない体で、どうやって家まで帰るかを考え始めるが……。


(えっと……。ここから家まで歩いて十五分だから……)


「……………」


 これは、一体何の試練なのか。
 こんなにも満身創痍だというのに、歩いて帰れというのか。
 そんな言葉が頭に浮かんだ瞬間、沙耶の眉間には濃いシワが刻まれて―――。


「チッ。会社役員全員ハゲちまえ」


 舌打ちと暴言が口から滑り出た。
 もし、今の発言を誰かに聞かれていたら、普通にまずいのだが……。
 沙耶としては、


『私は今、ものすごく頑張っているんだから、このくらいの暴言は大目にみろや』


 という気持ちが強い。
 それに、もし聞かれていたとしても、今、会社に残っているのはほぼ人事部だ。他部署の社員がいるはず―――


「沙耶」
「……………」


 いた。
 人事部以外の社員が今、ここにいた。
 これはヤバイかも……と、血の気が引き始める沙耶。しかし、ふと冷静になって考えてみると。


(この会社で私のこと、名前で呼ぶヤツなんて一人しかいないじゃない)


 気が付いた事実に、ホッと安堵の息をもらす。そして、それとほぼ同時に声のした方へ振り返り―――。


「チッ。ペテン師集団の一人かよ」
「態度悪いな、おい」


 沙耶は舌打ちと共に、心底嫌そうな表情を浮かべた。
 そんな沙耶の視線の先。そこに立っていたのは、営業部に所属している、彼女の【古い知り合い】だ。


「こんな時間に何してんのよ」
「寝る前に思い出した忘れもの、取りに来たんだよ」
「バーカバーカバーカ」
「うるせぇよ。八つ当たりすんな」
「してな………ふあぁぁぁ……」


 目の前にいるのが昔からの知り合いのせいか、張りつめていた緊張の糸がほどける。そして次の瞬間には、強烈な眠気が猛烈な勢いで押し寄せ始め。口に手を当てるのも忘れて、沙耶は盛大な欠伸をもらすが……。
 相手が古い知り合いだからか、まるで気にしていない。


「すげぇ眠そうだな」
「すげぇ眠い……」
「じゃあ、さっさと帰るか」
「………あれ? 忘れ物は?」
「もういい」
「?」


 なんで? と、沙耶は首を傾げる。


(忘れ物取りに来たのに、取らずに帰るの?)


 どういうことだ、と訝しげな表情を浮かべる沙耶だったが……。


(まぁ、いいか)


 と、考えることをやめた。
 なぜなら、今すぐ家に帰って眠りたいからである。
 そして、無駄な詮索はしないまま、二人は一緒に会社を後にする。


「ふあぁぁぁ……」


 会社から家まで、約十五分。
 果たして、沙耶の体力はいつまで持つのか。


「おぶってやろうか?」
「………何?」
「眠いならおぶってやるけど」
「絶対に嫌」


 睡魔に襲われている沙耶を見かねた男の親切心だったが、それは一蹴りされた。
 もちろんそれには理由がある。
 遅い時間帯とはいえ、ここは会社からそう遠くない場所。もしかしたらまだ、会社の人間が近くにいる可能性もある。
 だから沙耶は、『嫌だ』と言ったのだ。激しく首を横に振りながら。


「でも、お前の足、ガクガクのフラフラみたいだけど」
「嫌なものは嫌」
「歩くの遅いし。俺も早く帰りてぇんだけど」
「じゃあ、置いてけばいいでしょ」
「……………」


 無言になる男に、沙耶は自分の意志を示すように、フンッと顔を背ける。すると、微かに耳に届いたのは………男の小さな溜め息で―――。


(どうせ、『可愛くない』って思ってるんでしょ……)


 そこで沙耶がふと思い出すのは、昔のこと……。
 沙耶は、甘えることが下手くそだ。恋人がいても、その彼に頼ることは一度もなかった。
 そして、最後にはいつも、


『お前って本当に可愛くないな』


 と、言われ―――。


(あー! もうー! いつまでそんな昔のこと、引きずって……)


 思い出して襲われる、小さな胸の痛み。久しぶりの嫌な感覚に、沙耶は我慢するように奥歯を噛み締め―――。


「わざわざ迎えに行ったのに、誰が置いて帰るかよ」
「………え?」
「なんだよ」
「今、迎えに、って言った……?」
「そうだよ」


 予想もしていなかった男の言葉に、沙耶はポカンとした表情で立ち尽くした。しかし次の瞬間には、きゅっと唇を引き結んで……。


(なんで、そんなことするのよ……。なんで昔から放っておいてくれないのよ……。なんで……)


 返す言葉が、見つからなかった。


「………ふんっ」
「ん?」


 相変わらず、返す言葉は見つからない。
 だからといって、素直に甘えることもできない。
 しかし―――。
 顔を背けながらも沙耶の手は、男の服の袖口を弱々しく引いていた。


「………早く、帰りたいんでしょ……。仕方ないから………お……おぶられてやっても………いい、けど……?」


 恥ずかしさで赤く染まった顔を見られないように俯き、声は今にも消え入りそう。けれど、その声はしっかりと男の耳に届いていたようで―――。


「頼む立場のくせに、上から目線でデレんな」


 ニヤッと、からかうような表情を浮かべて笑っていた。


「わ……笑うなっ! デレてないっ! お前の目は節穴かっ!!」
「はいはいはいはい」


 顔を真っ赤にして怒る沙耶を適当にかわし、男は屈む。


「早く乗れ」


 と、促されるものの、いざその背中を目の前にすると、戸惑い始める沙耶。
 しかし、自分で乗ると言ったのだから、乗る以外に道はない。


(わ、私はヘタレじゃない……!)


 よくわからない鼓舞と共に、そろそろ…と男の肩に向かってゆっくり両手を伸ばす。襲いくる羞恥心と戦い、なんとかその背中に体を預け。男は、沙耶の足をしっかりと抱え込み、重そうな素振りも見せずに立ち上がった。


「沙耶は、いつになったら素直になれるんだ?」
「う、うるさいなっ」
「………【三毛猫】」
「ちょっと! その呼び方しないでよっ!!」
「じゃあ、少しは素直になる努力をしろ。三毛猫」
「三毛猫言うなっ!!」


 キッ! と目尻を吊り上げて、バシバシッと力を込めて男の背中叩く。

 【三毛猫】―――。
 それは、学生の頃に、男が沙耶につけたあだ名だ。
 かまおうとすればそっぽを向き、寂しくなると自分から遠慮がちに寄ってくる。恥ずかしがり屋で、威嚇癖あり―――そんな習性が男曰く、『完全に猫』とのことらしい。
 あと、猫は猫でも三毛猫なのは、【実池】という名前がミケに似ているからだと、男は言う。


「絶対に会社では呼ばないでよ! 恥ずかしすぎて会社にいれなくなるから!」
「……………」


 実はもう知れ渡ってます………とは、口が裂けても言えない。
 ちなみに、情報の発信源が男でないことは確かだ。


「なんで黙るのよ」
「………口が滑らないように気を付けます」
「口滑らせたら喉潰すから」
「怖い」


 発信源の喉が潰されることは、今この時に決定した。さようなら。
 沙耶は男の首に両腕を回し、適度に力を込めるが、なぜか男はどこか楽しそうに笑っている。


(何笑ってんのよ……。むかつく……)


 ムスッとした表情を浮かべ、男の首に回している腕に更に力を込める。すると、近付く体の距離に程よい温かさを感じ、思い出される眠気……。


「……………」


(………あったかい)


 引っ付いて改めて気付く大きな背中に、沙耶は誘われるようにそっと張り付く。暑すぎない程よい温もりは、まばたきの度に瞼を徐々に重たくしていく。


「ふあぁぁぁ………んんん……………眠い……」
「家に着くまでは起きてろよ」
「………うん……」


 言われるがままに返事はしているものの、たぶんそれは無理なお願いだろう。
 沙耶の体はすでに、眠る体温に変わりつつある。


「沙耶」
「うん……」
「寝るなよ」
「うん……」
「絶対に寝るなよ」
「うん……」
「寝たらおっぱい揉むからな」
「うん……」


 堂々としたセクハラ発言があったが、強烈な睡魔に襲われている沙耶の耳にはほぼ届いていない。


(んー……。この背中……気持ちい……)


 しかも、背中の心地よさに、すっかりハマっているようだ。


「はぁ……。あったかい……。気持ちい……。ちょうどいい……」
「ちょうどいいってなんだ」


 そう言って笑う男の背中が小さく揺れる。それがまるで揺りかごのようで、沙耶の意識が更に遠退いていく。


(もう……だめ……)


「おーい、沙耶ー」
「すー……、すー……」
「………寝た」
「すー……、すー……」


 どこか遠いところで自分を呼ぶ声を聞きながら、沙耶はあっさりと眠りに落ちるのであった。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

雪の日に

藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。 親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。 大学卒業を控えた冬。 私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ―― ※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。

離した手の温もり

橘 凛子
恋愛
3年前、未来を誓った君を置いて、私は夢を追いかけた。キャリアを優先した私に、君と会う資格なんてないのかもしれない。それでも、あの日の選択をずっと後悔している。そして今、私はあの場所へ帰ってきた。もう一度、君に会いたい。ただ、ごめんなさいと伝えたい。それだけでいい。それ以上の願いは、もう抱けないから。

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

離婚すると夫に告げる

tartan321
恋愛
タイトル通りです

貴男の隣にいたい

詩織
恋愛
事故で両親をなくし隣に引き取られた紗綾。一緒に住んでる圭吾に想いをよせるが迷惑かけまいと想いを封じ込める

清掃員と僕の密やかな情状

MisakiNonagase
恋愛
都心のオフィスビルで働く会社員の26歳・高城蓮(たかぎれん)。彼の無機質な日常に唯一の彩りを与えていたのは、夕方から現れる70歳の清掃員・山科和子だった。 青い作業服に身を包み、黙々と床を磨く彼女を、蓮は「気さくなおばあちゃん」だと思っていた。あの日、立ち飲み屋で私服姿の彼女と再会するまでは――。 肉じゃがの甘い湯気、溶けゆく氷の音、そして重ねた肌の温もり。 44歳の年齢差を超え、孤独を分かち合った二人が辿り着いた「愛の形」とは。これは、一人の青年が境界線の向こう側で教わった、残酷なまでに美しい人生の記録。

処理中です...