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第6章 新生活は、甘めに

【番外編】Maid by Love

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 カイは何度目かの溜息をついた。

「この屋敷で働くのだけは認めないぞ。使用人もやりづらいし、俺も納得できない」
「私、庶民生活で、掃除も洗濯も覚えたのよ。ちょっとした料理だって出来るし」
「掃除や洗濯や料理が好きなのか? 使用人にだけはなるな」

 カイは冷たく言い放つが、途中から残念そうな顔になっていくレナを見て胸が痛む。
 目が潤み、口が固くつぐまれていた。レナがそこまで使用人になりたい理由が、カイには分からない。

「別に、掃除や洗濯が好きってことでもないんだけど……あなたの役に立ちたかっただけよ」

 悲しそうにレナが言ったのを、カイは困ったように見つめた。

「いてくれるだけで、充分だ。それ以上を望んだりはしない」

 カイはそう言ってレナの頬に触れる。少し膨れた頬が、ほんのり赤く染まった。

「私……あなたのことを『ご主人様』って呼んで側で仕えてみたら、あなたに可愛がってもらえるのかなって、思ったんだもの」

 背の差で上目遣いになりながら言い放ったレナに、カイは固まった。

(またか……とんでもないことを言い出すな、本当に……)

「一応聞くが、使用人の認識を間違えてはいないだろうな……?」
「私、あなたに仕えるわ」

(もうやめてくれ……何かがごっそり抉られる……)

 カイは額に軽く手を添え、目を閉じた。背徳感が襲う。
 元主人の王女が自分に仕えたいなど、この世が転がっているとしか思えない。

(さっきの『ご主人様』のダメージが……)

 カイは必死に正気を保とうと腹式呼吸で乱れた『気』を正す。
 自分に気功術があってよかった、と、親と先祖に感謝した。

「そんなに使用人になりたいなら、2人の時にだけ少し……何か手伝ってもらうことにする」

 カイは折衷案を出した。

「2人きりの時ならいいのね?」
「(しまった……悪い予感がする)程度によるぞ」

 カイは、つくづく、自分はレナに甘いなと思う。
 普段周りからは鬼団長だ何だと言われているが、こんな姿を見られたら部下の印象がおかしなことになりかねない。

(まあ、使用人の中に混じって働かせるわけではないし、2人の時なら適当に茶を濁せば何とかなるだろう)

 カイはそう思って、レナの希望を聞いてやることにした。



「ご主人様、紅茶を淹れたの」

 夕食を終えて着替えを済ませたカイの元に、レナが笑顔で紅茶を持って来た。
 カイはその様子を呆気にとられながら見ている。

 レナは、自分の分らしき紅茶とカイの紅茶をソファ前のテーブルに置いた。カイはしぶしぶその席に着く。

「……なんだ、その格好は」
「だって、これ可愛いから着てみたかったんだもの。やっぱりおかしい?」

 レナが隣に座り、使用人の服に身を包んでいる。
 2つに分けて耳元でゆるく結んだ髪型に、エプロンドレスが良く似合うな、と一瞬思ったカイは自分の頬を思い切り叩いた。

(しっかりしろ、なにが似合うだ、似合ってなどいない、似合ってなどいない、似合っていたらまずいだろ)

 レナは、突然目の前で自分の頬を勢いよく平手打ちしたカイに唖然としている。

「どうしたの? 虫でもいた?」
「ああ、とんでもない虫がいた」
「怖いわね、やっつけたの?」
「やっつけたということにしてくれ」
「……?」

 レナは心配そうな顔をカイに向けている。

「そんなに、この服が似合わなかった? 変な虫が見える位……」
「どうしてそういうところは鋭いんだろうな……」
「やっぱり……似合わないのね……」
「違う、そうじゃない」

 カイは、またか、と眉間に皺を寄せた。
 レナは、一瞬鋭い癖に、その実はとんでもなく鈍い。
 カイは、有無を言わさず抱き寄せてしまいそうになる自分にもウンザリした。

「使用人の服装に身を包んだレナに、何かをしてもらおうかと思ってしまった自分に嫌気がさした。正直、自分自身に一番困惑している」
「命令してくれて良いのよ? ここではあなたがご主人様で、私はただのレナだから」
「困る……それは」

 レナは頭を抱えるカイを暫く眺めていたがカイの横にぴったりとくっついて座ると、身体を寄せる。

「確かに、私はあなたの主人だったものね。混乱させてしまうのも、仕方が無いわね」

 レナはそう言って悪戯っぽく微笑むと、「あなたに恋するメイドも、いいかなと思ったのよ」と付け加えて恥ずかしそうに下を向いた。

「よくないだろ」

 カイは複雑な表情を隠さない。狙わずにそんなことを言うレナが、ただただ恐ろしい。

「よくないの?」
「……何と言えば良いのか分からんが、よくない」
「どうして?」
「道徳的によくない」
「別に、何もルール違反なんてしてないわ」
「そうじゃない」

 カイは一度深呼吸をした。

「メイドに、抱き寄せてもらいたくなる。そんなのは、主人が使用人に求めることじゃない」

 カイはそう言ってレナとは反対側を向いて気まずそうにした。

「カイって、そういうところが硬すぎるのよ。私、あなたが大好きよ? いくらでも抱きしめてあげるのに」

 そう言ったレナが隣に座るカイの身体にしがみつく。

「で、恋するメイドは、何をしてくれるんだ?」

 カイはしがみついているレナに小さな声で尋ねる。

「あなたのためなら、何でも」

 レナが小さな声で返した。

(そう来るか……)

 カイはまた一度深呼吸をする。
 頭の中で繰り広げられる、理性と欲望の戦いの行方が分からなくなりそうだ。
 自分にしがみつくレナの額に軽い口付けをした後、頬から耳に唇を滑らせ、首筋をなぞる。
 弾力のある肌が震え、小さな吐息が漏れた。

(まずい……)

 間違いなく踏み外す、と気付いてカイはレナから離れる。
 そんなカイを見つめるレナは、首から頭まで真っ赤になっていた。

「何でも、などと言うな」
「どうして?」

 赤い顔で首を傾げるレナの格好が、使用人のそれだというのがカイをまた悩ませた。

「過ちを犯しそうになる」

 カイはそう言って気まずそうにレナから視線を外した。
 王女だった頃のレナをはっきり意識する日常であれば、理性が強く働いていた。
 それが、使用人の見た目で現れて何でもすると言われるのは危うい。

「おかしなことを言うわね、過ちなんか起きないわ。私と、カイの間で」
 レナはそう言ってカイの手を引き、「今日は、あなたが眠りにつくまで私が寝かしつけてあげる」と無邪気に笑う。

(分かっていない……全然分かってないんだ、レナは……)

 王女という立場で究極の箱に入れられて育ったレナには、カイの葛藤など全く理解が及ばないようだった。
 この流れで寝かしつける、と堂々と言い切ってしまえるレナに、カイは溜息すら出ない。
 そもそも、寝かしつけるなどと言われても、神経の昂りの中で眠れる気がしなかった。

 レナはカイをベッドに連れると、カイの頭を抱きしめて横になり、静かにブリステ公国の子守唄を歌い始める。

「その歌を……どこで……」

 レナに包まれる感覚に酔い、カイはゆっくり眠りに落ちていく。
 レナは、どんな時よりも優しい声で懐かしい子守唄を歌った。

「私の子守唄ってすごいのね……」

 レナは初めて試した子守唄に、すぐに眠ったカイを抱きしめながら驚く。
 こんなことは初めてだ。カイがレナより先に寝たことなど、今迄なかった。

「本当は、あなたの緊張をほぐして、さっきの続きをしてもらおうと思ったのよ?」

 レナはそう言って、カイの頭を胸に抱いた。黒い直毛がレナの顔に触れている。

「過ちだなんて、言わないで……」

 レナはそう言ってカイの頬を指で触れる。
 今日も誘惑は成功しなかったな、と、レナはがっかりしながら静かに目を閉じた。


<番外編・おしまい>
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