売られて嫁いだ伯爵様には、犬と狼の時間がある

碧井夢夏

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1章

死神伯と血塗られた薔薇

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 クリスティーナ姫になる特訓を始めて26日目、クリスティーナ姫だけが熱心に私を指導してくれているけれど、ここ、公爵家ではまるで私などいないかのように無関心な日常が送られている。


 そんなある日の午前中、薔薇の花束が届いた。

 通常であれば、薔薇の花はお城の中に飾られてもいい。
 しかし、その薔薇はすぐに教会に運ばれることが決まってしまった。

 死神伯と呼ばれるユリシーズ・オルブライト伯爵は、クリスティーナ姫との婚姻を前に薔薇の花束を用意した。
 50本はありそうな薔薇は、深紅の色をしている。
 美しい薔薇だったに違いない。
 だが、その薔薇にはべったりと黒い液体がかけられていた。

 何かの血が掛けられた、呪いのような花束だったのだ。

「きゃああああっ!!」

 それを見たクリスティーナ姫は恐怖に叫び声を上げた。
 だけど、本当に叫ぶべきなのは私だったのだと思う。

 どうして薔薇に血を掛けて寄越すのか。
 そんな男に嫁がなければならないのは、クリスティーナ姫ではなく身代わりの私なのだから。

 聞くところによると、死神伯と呼ばれるユリシーズ様はクリスティーナ姫に一目惚れをして婚姻を願ったらしい。

 ――どうして想い人にこんな薔薇を贈ろうと思うの?

 花束には丁寧に手紙までついていた。
 私は、恐る恐るその手紙を開く。

『クリスティーナ姫
 あなたのような紅が美しいと思い、贈らせていただきます。
 もうすぐあなたが私の元に来てくださると思うだけで、心が躍り、幸せな気持ちでいっぱいになります。
 一生涯、あなただけにこの身を捧げましょう。
 ユリシーズ・オルブライト』

 ……この手紙と血塗られた薔薇のコントラストに眩暈がした。

 あなたのような紅?
 もしかして、女性を血まみれにしたい願望でもあるのかしら。

 確かにクリスティーナ姫の髪は赤い。それを血に例えているのなら感性を疑う。

「アイリーン……伯爵は生涯あなただけに身を捧げると言っているわ」
「私ではなく、クリスティーナ様宛ですが」
「それってつまり、あなたってことよ」

 手紙だけを読むと、本当にクリスティーナ姫に焦がれているような文面だ。
 心が躍る……死神伯でも浮かれるらしい。どうやら幸せな気持ちになっている。

 呪いのような薔薇の花束を贈ってまで。

 クリスティーナ姫には刺激が強かったようで、「気分が優れないわ」と言ってソファに横になってしまった。
 その姿を横目に、私はどんな返事を書くべきか悩む。

 4日後には、この手紙を書いた男が私の夫になる。
 そう思ったら、悠長にショックを受けている場合ではない。

「クリスティーナ様、私からユリシーズ様に返事を書いてもよろしいですか?」
「当たり前よ。手紙に書かれている『クリスティーナ姫』はあなたのことなのだから」

 ソファで横になりながら白い顔を蒼くしたクリスティーナ姫は言った。
 守られて生きてきたお姫様にとって、死神伯の行動は劇薬らしい。

 幸いなのか、私は耐え難い視線を浴び続けた経験がある。
 厭らしい男の舐めるような目に比べたら、変な贈り物くらい、真意を聞けばいい分だけ気が楽だ。
 ……と、思うことにした。

『ユリシーズ・オルブライト様
 わたくしの到着を楽しみにしてくださっているとお手紙を読み、今から緊張してきました。
 わたくしは男性と同じ空間にいることにすら、慣れていないのです。
 薔薇の花束に掛けられていたのは、何でしょうか?
 どういう意味が込められているのか分からないので、ユリシーズ様のお心が計りかねます。どうか、無知なわたくしにお教えくださいませ。
 クリスティーナ・フリートウッド』

 手紙は、クリスティーナ姫の筆跡を完璧に真似て書くことができた。

 クリスティーナ姫は滅多に人前に姿を現さないお方だったけれど、書いた文書はあらゆるところに送られていて、多くの方に知られている。
 私は筆跡の練習をひたすらさせられた。

「あら、アイリーン。手紙が上手ね」
「どうしても聞かずにいられなかったのです。あの花束の意味を」

 手紙を書いている間に、クリスティーナ姫はソファから起き上がって私の隣に立っていた。
 もう気分は治ったのだろうか。

「血だらけの花束を贈って恋文を付ける人なんて、聞いたことがないわ」
「だから、死神伯だなんて呼ばれるのでしょうか?」
「死神伯と呼ばれたのは、戦場で彼に出会って生きていられた者がいなかったからよ」

 そうか、それで死神伯。
 ……本物の死神ではないか。

「戦場で出会うわけではないので、私は生きていられるでしょうか」
「不吉なことを言わないで、アイリーン。あなたはわたくしの片割れ、絶対にまた再会できるわ」

 クリスティーナ姫はそう言ったけれど、私たちが再会するのは色々とまずい。

 ということは、あと4日後をきっかけに私もクリスティーナ姫と会うことは叶わなくなるのだろう。

「クリスティーナ様、私たちが再会するのは難しいですが……離れた場所から『女の戦い』が勝利を収めることを願っています」
「わたくしも、アイリーンの幸せを願っているわ。どんなに離れても、何があっても、あなたの諦めない心を思い出すことにする」

 私たちはまだ、髪色を変えていない。
 クリスティーナ姫は燃えるような赤い髪を脱色して金髪に近づけることになり、私は金髪を赤く染める。

 公爵家の立派なお城に、不釣り合いな血塗られた薔薇が届いた日。

 私はこれからの自分の不幸を予感し、クリスティーナ姫は旅立つ私を心配した。

 この時の私は、無知で、人間不信で、誰のことも信じていなかった。

 クリスティーナ姫がアイリーンになる前、死神伯に嫁ぐ私ほど大変ではないだろうと思っていたし、私は所詮身代わりで、何の価値もない存在だと疑っていなかった。

 私はクリスティーナ姫になることが、どれだけ責任重大なのかはある程度わかっていたつもりだ。

 人生を賭ける経験など、初めてのことだったけれど。
 どうせ、誰かに私の所有権が移るだけだと思っていた。
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