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1章

無意識の嫉妬

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 目が覚めた。
 ここは、ユリシーズとやってきた宿の部屋だ。陽が差し込む部屋は、すっかり明るくなっている。

「ディエス……」

 目の前を見ると横になっているユリシーズの顔。ディエスだと分かった。

 ノクスとディエスの違いは耳や尻尾があるかどうかだと思っていたけれど、ノクスの方が鋭い目をしていて犬歯が目立ち、ディエスは顔の作りが柔らかい。

「咄嗟に私をディエスと呼んだのは、ノクスに特別な情が湧いたからですか?」

 ディエスはなんだかむすっとしていて、鋭い声で問いかけてきた。

「情なら、ディエスにもノクスにも湧いています」

 空気が一瞬張り詰めたのを感じたけれど、怯んでいたらいけない。
 ディエスと私はベッドで起き上がり、お互いを見つめていた。

「ノクスがそんなに好きなのですか?」

 ここで嫌いと言った方がディエスは喜ぶのだろうか。
 でも、嘘でも言いたくない。

「ノクスのことが、ではありません。ユリシーズが好きなのです」
「私は、ノクスを封じようと思っています」

 ディエスは、当然のように言う。

「やめてください」
「あんな獣が良いんですか?」
「ノクスもユリシーズだわ」
「私は狼になんかなりたくありません」

 ディエスは怒った口調でベッドから出て室内を歩き、着替えを始める。
 私は視線をそちらにやらないように違うところを見るように努めた。

「わたくしは、ディエスもノクスも、人狼も好きです」
「そう言えば、私がノクスを見逃すとでも?」

 あまり聞く気もなさそうで、着替える音が部屋に響く。

「昨日はノクスを制御するから大丈夫だと言ったのに、なぜそんなに怒っているのですか?」
「……」

 気付かなかったのだろうか。ディエスは私の質問に答えない。

「わたくしは、ただ宿の部屋で一晩寝ただけですが?」
「ノクスが、あからさまだからです」
「どういう意味です?」
「クリスティーナ様の顔からノクスの匂いがします。これは自分のものだという意思表示に頭に来ました」
「ノクスは、ディエスがわたくしにマーキングしたと怒っていたわよ」
「それはっ……」

 心当たりがありそうな感じで、ディエスはボタンが全部止まっていないシャツのまま私に弁解しようと声を失っていた。

「無意識でした……」

 シャツがスカートのように垂れた状態で、ディエスは気まずそうに視線を泳がせる。

「狼は、独占欲が強いのだそうね?」
「……そうかもしれません」
「それで、ノクスを封じるなんて言っているの?」
「クリスティーナ様をノクスに好き勝手されたくないですし」

 ディエスはこちらの民宿で借りたスラックスを穿こうと下を脱ぎ始めたので私は後ろを向く。

「いらつく自分が嫌になります」
「ノクスに嫉妬をしてしまうから?」
「クリスティーナ様は、私よりもノクスに心を開いていませんか?」
「そんなことは……」

 ないのだろうか。そんなことは。
 ノクスは私の本名を知っているし、ディエスといる時よりも、素の自分でいられている。
 クリスティーナ姫を演じなくてもいいから、すごく楽だ。

「ノクスは、犬みたいです」
「それでノクスが好きなのですか?」
「かわいがっています」
「……」

 沈黙が続いた。

「もしかして、私のことをペットか何かだと思っていますか?」

 衣擦れの音が収まったのでディエスを見ると、上下を着替え終えたところだった。

「ペットだなんて。狼は気高くてペットには向きません」
「そうではなくて……」

 ディエスの眉間に皺が寄った。

「私はあなたがあんな獣に穢されるのは許せません」
「穢されていません」
「顔中舐められているではないですか。早く洗顔をした方が良いです!」
「なっ……」
「湯を持ってこさせましょう」

 ディエスは廊下に出て、宿の従業員に、たらいに入ったぬるま湯を要求していた。


「……洗いました」

 顔を拭きながら、これで満足かしらとディエスをじろりと見る。

「もう大丈夫です」
「……ディエスにはノクスの匂いがすると言われ、ノクスにはディエスの匂いがすると言われ、わたくしは責められ続けなければならないの?」
「申し訳ございません。どうしても匂いに耐えられず……」

 また匂い……。
 毎日ディエスにもノクスにも匂うって嫌がられ続けるのかしら。

「朝食の準備を依頼してくるので、着替えていてください」

 ディエスはそう言って部屋を出て行った。
 夫に軽いスキンシップを許しただけでややこしいこの状況に、今まで人狼と結婚した人間の伴侶はどういう生活をしていたのか知りたい。

 執事が確か、父親だけ人狼だった。
 あの人が私に有益な情報をくれるとは思えないけれど。

 昨日こちらの宿で借りた綿のドレスに着替える。
 これを着ている私を見て、ディエスは妖艶だと言ったんだっけ。

 妖艶か……。ノクスにもなまめかしいとか色気のある表現をされた。
 そんなのは自分じゃないみたい。

 着替え終わったので、席に着いて昨日読みかけだった本を読み始める。

「もう着替えは終わりましたか?」

 部屋の外で、ユリシーズの声がした。

「はい、大丈夫です」

 答えると、そっと扉が開いてユリシーズが入ってきた。

「それは昨日の本ですか? 村長さんに新聞をいただいてきましたよ」
「はい。これ、とても素敵な本です。こんな山奥でも新聞が届くのですね?」
「そうですね」

 ユリシーズが持っていた新聞に、目を奪われた。

『アイリーン・クライトン、子爵令嬢から皇室へ』

 クリスティーナ姫が私の名前を使って皇室入りすることが記事に書かれていた。
 日にちは、あと3日。思ったよりも早い。
 私が公爵家にいた時にはもう少し時間に猶予がありそうだったのに。
 何か事情が?

 私の両親は、さぞ喜んだのだろう。
 私を追い出してお金を得たばかりではなく、世間的にはロイヤルレディを育てた親になった。
 他人を見下すことでしか幸せになれない母は、誰からも馬鹿にされない地位を手に入れてしまった。
 世間からの信用がない父が、皇室との繋がりを持ってどれだけ思い通りにできるのか。

 あの親からロイヤルレディが生まれるわけがないではないか。
 自分の奥に渦巻く黒い感情が溢れないよう、必死に耐えた。

「クリスティーナ様?」

 起きたばかりの時は機嫌の悪かったユリシーズが、心配そうに私を見ている。

「あ、いえ、何でもありません」

 いきなり無言になってしまったら心配するに決まっている。ちゃんとしなくちゃ。

「お腹が空きましたね」

 苦し紛れに空腹だったということで誤魔化す。

「はい、頼んできましたよ」

 ユリシーズはまだ心配そうにこちらを見ていた。

「すいません、朝から私の感じが悪くて……」
「違うの。お腹が空いただけよ」

 なんだか変な空気になってしまった。
 ユリシーズは私の座る前の席に着くと、「皇室入りの方がいらっしゃるようですね。戦争が終わって縁談も進んだのでしょう。クライトン子爵は存じ上げませんが、クリスティーナ様はご存じですか?」と話を振ってきた。

「いえ、知らない家です」

 クリスティーナ姫にとっては。私の生家ですが。

「第四皇子は皇位継承権が二位ですから、このアイリーン嬢は一気に注目されますね」
「第四皇子は皇位継承権が二位なのですか?」

 初めて聞いた。公にされていないものの、もともとクリスティーナ姫と結婚する予定だったというのだから、それなりに大事なポジションの方だというのは分かっていたけれど。

「ええ。一部では第四皇子は公爵家との縁談が囁かれていたのですが、政略結婚ではないのかもしれません。クライトン家のアイリーン嬢は大層な美姫だという噂があったとか」
「あら、第四皇子は恋愛結婚なのでしょうか」

 誰よ、私のそんな噂を流しているのは。普段だったら嬉しい噂なのかもしれないけれど、この状況では全然喜べない。

「折角だから結婚式に参列しましょうか?」

 ユリシーズが突然提案した。

「えっ?!」
「皇室の挙式はずっと自粛されてきましたから、ようやく明るい話題だなと思いまして」
「でも、結婚式に参列するようなドレスがありません……。三日後でしたよね?」
「結婚式のドレスというのは何か決まりが?」
「ええと、花嫁より目立たないよう、なるべくダークカラーかつ地味にならないものを着ないといけないのかなと……」
「それでしたら、本日、家に帰る途中でワインレッドのドレスを作りましょう。きっとお似合いだと思います!」
「え……? 行かなければダメですか?」
「私たちは挙式をしなかったのですから、雰囲気だけでも楽しみませんか?」

 そ、そんなすがるような目で見ないで。
 だって、会場に……新婦として主役を務めるのは、あなたがずっと想ってきたクリスティーナ姫なのよ?!
 もしその事実にユリシーズが気付いたりしたら……。

「あ、あの、実はわたくし、公の場は酷く疲れるのです」
「なるほど……」

 そうよ、クリスティーナ姫を知る方に挨拶なんかされても、全然対応できないのだから。

「では、参列ではなくパレードだけでも見に行きませんか?」
「パレード……」
「遠くから眺めるだけです」
「……」

 参列するわけじゃないから、新婦がクリスティーナ姫だとは気づかないかもしれない。
 でも、まさか私の名を名乗るクリスティーナ姫を見に行くなんて。

 3日後か……。どうしよう……。
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