売られて嫁いだ伯爵様には、犬と狼の時間がある

碧井夢夏

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2章

動けない

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 庭に降り立った狼を護衛が見つけて大声を上げた。
 私の視線の先にはお城の脇に悠然と立つ大きな黒い狼と、30mほど離れた庭先に応援の声を上げる男。

 まずい。
 応援が駆け付けたら逃げられなくなりそうーー。

「早く逃げて」

 大声を出せず、狼に声をかける。
 耳がいいはずの狼が、満月に向かってピンと立つ耳を動かしてこちらを見た。

 護衛のもとに一人の応援が駆け付けたらしく、「なんでこんなところに狼が」という声が上がる。「猟銃を」とか「威嚇射撃をした方が良いんじゃないか」と男の声が上がる度に私の手が心臓のドキドキと共にべったりと汗をかいていく。

 どうか、どうか撃たないでーー。

 私の願いを無視するように、狼は二人の男の方に向かって行った。

「なっ、なんだ?!」
「こっちに来るぞ!」

 狼は片方の男に飛びかかり、男は後ろに倒れた。
 それを見ていた隣にいる男が拳銃を構える。

 やめて……!

 静かな夜の庭に、パァンと破裂音が響き、その音を皮切りに城内に人の声がざわざわと増えていく。

 狼は銃撃を受けたのか、一度よろけて……そしてまた立ち上がって走っていった。

「撃た……れた……?」

 膝の力が抜け、バルコニーにへたりと座り込む。
 手すりの隙間から見える狼はそのまま走っていき、もう一匹の細身の狼と共に暗闇に消えていったけれど。

「ユリシーズ……?」

 どうして自らあんな危険なことをしたの?
 撃たれたようだったけれど、すぐに手当てをしなくて大丈夫なの?

「あ……ああ……」

 両手が、卵を包むような形になったままぶるぶると震えて動かない。
 あの男たちに話を聞かなきゃ……。狼がどうなったのか、ちゃんと確認しないと……。

 力の抜けた膝に意識を集め、ゆっくり立ち上がる。
 身体中から冷汗が流れているのを感じるけれど、逃げていたら何も分からない。

 部屋に戻り、廊下に出た。そこにはご丁寧に護衛の姿がひとつ。

「どうされましたか?」
「バルコニーから見ていたら……庭に狼がいたの」
「狼、ですか?」
「そう。だから見に行ってもいいかしら?」
「いけません。安全が確認できるまで部屋でお過ごしください」
「でも、狼は撃たれていたわ」
「そうですか。それでは安心かもしれませんね。でも、部屋から出るのはおやめください。相手は夜行性の生き物です」
「いやです。どうして?」
「クリスティーナ様を守るのが私の務めです」

 護衛は、私を外に出す気はない。道を譲ってくれそうにない。
 こんなところでぐずぐずしている場合じゃないのに……。

「クリスティーナ様は、明日オルブライト家に戻ることになっております。ゆっくりお休みください」
「明日……?」

 折角家に帰れるとしても、ユリシーズが無事なのか分からない。
 護衛に押し戻され、私はまた部屋に入った。

 不安になってバルコニーに出ると、護衛の数が10人以上になっている。
 狼を捜すために話し合っているのだろうか。

 暫くその様子を見ていると、男たちの半数は狼が走って行った方に向かい、残りの数名が散り散りになって庭のあらゆる方向に向かって行く。

 無事を確かめたくてたまらないのに、私は自分の部屋から出ることすらできない。
 庭には捜索の声が響くばかりで、夜通しで護衛の活動は続いたようだった。

 陽が昇ると使用人の女性がやってきて、「こちらにいらした時の御召し物です」と水色のドレスを持ってくる。

 私の血で汚れたはずのドレスは、どこにシミがついたのかも分からないくらい綺麗になっていた。
 ユリシーズにプレゼントされた大事なドレス。
 これを着て帰るというのに、不安が胸を押しつぶしてくる。

「お気をつけて」

 短い滞在期間中、私の身の回りを整えてくれた使用人がドレスを整えながら言った。

「やはり、わたくしは夫の元に送られるのですね」
「知らされていなかったのですか?」
「ええ」

 何が起きているかを教えてもらえない。
 まるで、駒は意志を持ったらいけないのだとばかりに。

 ***

 帰りの馬車に乗り込む私は、寝不足と不安ですっかり沈んでいたと思う。
 周りの方たちが心配そうにこちらを見ていて、オルブライト家に帰るのが嫌なのだと思われていそうだった。今の立場からすれば、その方が都合はいいのだけれど。

 護衛が一名同行するのは行きと同じで、あまり見覚えのない男性が馬車に乗ってきた。

「おはようございます。本日、お供させていただきます」
「どうぞよろしくお願いします」

 なんだか丁寧な人。
 長髪で切れ長の目をした護衛の男性は、私の隣の席に腰を下ろしてそのまま静かになってしまった。

「あの、昨晩の狼は見つかったのですか?」
「……ああ、姫もご存じでしたか。実は最初の目撃者以外は姿すら見ることができなかったのです」
「どこかに行ってしまったということ?」
「護衛の配置からして、誰にも会わずに敷地内を出入りするのはほぼ不可能なはず」
「?」
「銃を撃った者が確実に腹部に当たったと証言をしておりますから、敷地内で息絶えているのかもしれませんね」
「えっ……」

 確実に腹部に当たった……?
 敷地内で息絶えているのかもしれないって……。

「じゃあ、先ほどまでずっと護衛の方たちがお庭を捜査していたのは……」
「狼の遺体を捜しておりました。話に聞くと熊並みの大きさがある狼ということでしたから、状態が良ければ閣下がはく製にしたがるかもしれません」
「はく製……?」

 この人は何を言っているの?
 狼は撃たれてからも普通に走っていたわ……。
 それに、私が見た時は2匹いたもの……。

 でも、それを口にしてはいけないような気がする。
 私にできるのは、オルブライト家のお屋敷に行ってユリシーズの情報を手に入れること。
 恐らく、公爵家側にいたら身動きなんか取れない。
 今は、無事に帰ることだけを考えよう。


 長い馬車の旅が終わり、オルブライト家の前に着いたのは夕方になる前の時間だった。
 護衛の方は私を降ろし、「それでは、私はここで」と言ってそのまま馬車を走らせてしまう。

 まあ、私の不安を誤解されたまま去られるのは都合が良かった。
 公爵家はユリシーズに対して礼儀らしきものを持ち合わせていないのだと思うと、やっぱりどこか悔しいけれど。

 オルブライト家の敷地に入り、私は歩く。
 身ひとつで攫われたせいで、荷物なんか持っていない。
 ただ、ユリシーズからの手紙を胸元に隠しているだけ。

「奥様!」

 庭師が気付いて声を上げると庭にいた飼育員も「奥様!」と声を上げる。

「ただいま。帰ってきたの」
「ああ! ご主人様が何と言うか……!」
「??」
「早くご主人様の元に行ってくださいませんか? それはもう、見ていられないほどで……」
「見ていられない??」

 どういうことなのか分からなくて、身体がぞくりとした。
 足が途端に重くなるのに、ユリシーズが家にいるのだと分かって急がなくてはと気ばかりが焦る。

 よろけそうになる身体をなんとか奮い立たせ、お屋敷の建物に向かった。

「ただいま戻りました」

 玄関を開けて、大声を張り上げる。

「奥様!」

 メイド長の娘、人狼のシンシアが驚いた顔で玄関まで走ってくる。そうして、ふらつく私を支えようと横に立って抱えてくれた。
 ゆっくりとユリシーズの部屋に向かって歩き始める。

 早く会いたいのに、会うのが怖い。階段を上がっていると、どこかからユリシーズの声が聞こえた気がした。
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