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4章
古傷 2
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皇子殿下の方を恐る恐るうかがいながら、「早くお仕事に戻ってください」と声を掛けると、喉が渇いていたせいか声がかすれてしまった。
それを聞いて、殿下は椅子から立ち上がる。部屋のテーブルに置かれているデカンタからグラスに水を入れて持ってきてくれた。
畏れ多すぎて気まずかったけれど、会釈をして受け取り素直にそれを飲み干した。
身体が急に満たされていくような感覚がする。
ずっと喉が渇いていたのに、そういえば何も飲んでいなかった。
「あ、ありがとう……ございます……」
お礼を言うと、何故か私のグラスを受け取ってくれてまたベッド脇の椅子に座った。
殿下は私の使ったグラスを持ったまま、足を組んでこちらを見ている。
「あのあと、公爵家から何かを言われなかったか?」
ああ、公爵様の動きを探りに来たのか。納得。皇子様が私のような伯爵夫人を見舞うなんておかしいと思ったわ。
「殿下とクリスティーナの話をしたことは侍女を通じて報告しました。特に指示などは戻ってきていません」
「そうか。オルブライト伯爵とは連絡が取れているのか?」
「……? ユリシーズとは、手紙のやり取りはしましたが」
この人は何を心配しているのかしら。ユリシーズと私が連絡を取っているかどうかなんて関係ないでしょうに。
「実は、アイリーンに謝らなければいけないことが別にある」
「え。嫌です。怖いです」
この流れ、絶対になにか悪いことを言われる。
びくびくしていると、皇子殿下は私から目を逸らしてぼそぼそと何かを言った。
「あの、聞こえません」
「……父上が」
「皇帝陛下が??」
ぞくり、と背筋に寒気が走る。私は、皇帝陛下に買われてユリシーズの元に嫁がされたのではなかったかしら……。
「アイリーンを連れて来いと言ってきた。余がアイリーンと会話をした事実がどこかから漏れて興味を持たれたのだろう……」
なんとなくそういうのが来ると思っていたけれど、やっぱりという気持ちと冗談じゃないという気持ちが胃のあたりをぐるぐるしている。
「……それは、断ることはできるのでしょうか?」
「できると思うか?」
「……」
できませんよね。皇帝陛下の命令ということですよね。
絶対にこれはよくない流れ。
以前買った子爵令嬢に、いまさら興味が湧いたのでしょうね。
一度見ておこう程度だったらいいけれど、ユリシーズに贈るんじゃなかったと思われたら色々と面倒なことになったりしない?
「殿下から断っていただけないでしょうか。私に悪いと思っていらしたのですよね? 謝っていただく代わりにそれで手を打ちます」
「さすがだな、アイリーン。さっきは余のせいではないから気にするなと言っておいてそれか。だが無理だ」
「私が皇帝陛下に会いに行ったりしたら、クリスティーナはどんな気持ちになるでしょうか? お言葉ですが、殿下はクリスティーナに対しての配慮が足りなすぎます」
私はクリスティーナの味方になると約束をした。
皇帝陛下に興味を持たれるわけにはいかない。かといって、失礼な態度を取れば罰せられる可能性があるわけで、礼節は守らなければならないし。
「父上の命の前では、誰かに対する配慮などは意味がなくなる。お前も帝国民であれば覚えておくんだな、アイリーン・オルブライト」
「……お見舞いだなんて言って、命令に来ただけではないですか」
キッと皇子殿下を睨むけれど、無表情のままぴくりとも動かない。
手に握られたあのグラスが私の手元にあれば、殿下に向かって投げつけていただろう。
「本日は体調が悪そうなため、日を改めると父上に伝える。逃げるつもりなら、オルブライト家がどうなるかは保証しない」
「脅しですか……」
「違う。これは親切心だ」
皇子殿下は立ち上がり、グラスをテーブルに置いて部屋を出て行ってしまった。
親切心……オルブライト家を守りたいなら余計なことは考えずに命令に従えということなの……?
置かれたグラスを見つめながら、ベッドの上で掛布をぐっと握りしめる。
「ううっ……」
古傷なのか、体調が悪いのか、ただ悔しいだけなのか分からない。
お腹が痛くて苦しくて、身体を折り曲げて苦しむことしかできなかった。
皇子殿下が出て行ってから暫くすると、部屋にエイミーとウィルが入ってきた。
恐らく、皇子殿下に暫く部屋を出ているように言われたのだと思う。
エイミーは事情が分かっているのか泣きそうな顔をして私のベッド脇に掛けつけた。
「奥様……いっそこのまま寝込んでしまって、二度と起きないというのがよろしいかと」
「二度と起きないのも良いかもしれないけれど、そんなに長く仮病ができるかしら」
言いたいことは分かるのだけれど、その作戦には終わりがないと思うの。
一生寝ていなくちゃじゃない?
ウィルは入口の近くに立っていてこちらには来なかった。エイミーに遠慮をしているのかもしれない。
「皇帝陛下に会ったら、どうなるのかしら」
「皇子殿下とご一緒になる気が無いかを尋ねられるのではないでしょうか……。お世継ぎのことを考えたら現在の状況に皇帝陛下は焦っていらっしゃるでしょうし、奥様の美しさなら……と」
エイミーはそんな心配ばかりしている。実家にいる時に私の両親を見てきたせいなのかもしれない。
「私は皇子殿下と結婚する気はないし、皇子殿下もそんなつもりはないと思う。その場で殿下に否定してもらえれば解決する? 私の目の前で『この女は好きではありません』と宣言してもらうの。なにしろ私は人妻なわけだし……」
我ながら、いい案かもしれないと思う。
皇子殿下にその気がなければ、無理矢理ユリシーズから私を引き離す動機にはならない。
「旦那様が殺されてしまった場合、未亡人の身請けが目的の婚姻になります。あの皇子殿下の感じですから、あっさりと成立してしまうかもしれませんよ」
私は耳を疑って、そのあとは自分のすぐ近くにあった枕をエイミーに思い切りぶつけていた。
「ユリシーズは、絶対に暗殺されたりしない!」
私が声を上げると、ウィルが慌ててこちらに走ってきた。
「奥様、落ち着いてください」と私とエイミーの間に割って入る。
「たとえ話でも二度と言わないで!」
昨日の夜に見た夢が、ひとりきりでユリシーズを探した自分が思い浮かんでしまう。
「申し訳ございません! もう二度と申しません!」
エイミーがウィルの後ろで必死に謝っていた。
「ううっ……」
たとえ話でこんなに悲しくなるなんて、体調が悪いせいかもしれない。
まだ皇帝陛下に何を言われるかなんて分からないのに、どうしようもなく不安になっていた。
この帝国の皇帝が、わざわざ時間を作って伯爵夫人に会いたいだなんてどう考えてもおかしい。
皇子殿下が気にしていたけれど、公爵様からエイミーに接触がない時点で何かが動いていると考えた方が自然だ。
クリスティーナは、私が皇帝陛下に呼ばれたというのをどこかから耳に入れるだろう。
もう、私とは話したくないと思うのではないかしら。
それを聞いて、殿下は椅子から立ち上がる。部屋のテーブルに置かれているデカンタからグラスに水を入れて持ってきてくれた。
畏れ多すぎて気まずかったけれど、会釈をして受け取り素直にそれを飲み干した。
身体が急に満たされていくような感覚がする。
ずっと喉が渇いていたのに、そういえば何も飲んでいなかった。
「あ、ありがとう……ございます……」
お礼を言うと、何故か私のグラスを受け取ってくれてまたベッド脇の椅子に座った。
殿下は私の使ったグラスを持ったまま、足を組んでこちらを見ている。
「あのあと、公爵家から何かを言われなかったか?」
ああ、公爵様の動きを探りに来たのか。納得。皇子様が私のような伯爵夫人を見舞うなんておかしいと思ったわ。
「殿下とクリスティーナの話をしたことは侍女を通じて報告しました。特に指示などは戻ってきていません」
「そうか。オルブライト伯爵とは連絡が取れているのか?」
「……? ユリシーズとは、手紙のやり取りはしましたが」
この人は何を心配しているのかしら。ユリシーズと私が連絡を取っているかどうかなんて関係ないでしょうに。
「実は、アイリーンに謝らなければいけないことが別にある」
「え。嫌です。怖いです」
この流れ、絶対になにか悪いことを言われる。
びくびくしていると、皇子殿下は私から目を逸らしてぼそぼそと何かを言った。
「あの、聞こえません」
「……父上が」
「皇帝陛下が??」
ぞくり、と背筋に寒気が走る。私は、皇帝陛下に買われてユリシーズの元に嫁がされたのではなかったかしら……。
「アイリーンを連れて来いと言ってきた。余がアイリーンと会話をした事実がどこかから漏れて興味を持たれたのだろう……」
なんとなくそういうのが来ると思っていたけれど、やっぱりという気持ちと冗談じゃないという気持ちが胃のあたりをぐるぐるしている。
「……それは、断ることはできるのでしょうか?」
「できると思うか?」
「……」
できませんよね。皇帝陛下の命令ということですよね。
絶対にこれはよくない流れ。
以前買った子爵令嬢に、いまさら興味が湧いたのでしょうね。
一度見ておこう程度だったらいいけれど、ユリシーズに贈るんじゃなかったと思われたら色々と面倒なことになったりしない?
「殿下から断っていただけないでしょうか。私に悪いと思っていらしたのですよね? 謝っていただく代わりにそれで手を打ちます」
「さすがだな、アイリーン。さっきは余のせいではないから気にするなと言っておいてそれか。だが無理だ」
「私が皇帝陛下に会いに行ったりしたら、クリスティーナはどんな気持ちになるでしょうか? お言葉ですが、殿下はクリスティーナに対しての配慮が足りなすぎます」
私はクリスティーナの味方になると約束をした。
皇帝陛下に興味を持たれるわけにはいかない。かといって、失礼な態度を取れば罰せられる可能性があるわけで、礼節は守らなければならないし。
「父上の命の前では、誰かに対する配慮などは意味がなくなる。お前も帝国民であれば覚えておくんだな、アイリーン・オルブライト」
「……お見舞いだなんて言って、命令に来ただけではないですか」
キッと皇子殿下を睨むけれど、無表情のままぴくりとも動かない。
手に握られたあのグラスが私の手元にあれば、殿下に向かって投げつけていただろう。
「本日は体調が悪そうなため、日を改めると父上に伝える。逃げるつもりなら、オルブライト家がどうなるかは保証しない」
「脅しですか……」
「違う。これは親切心だ」
皇子殿下は立ち上がり、グラスをテーブルに置いて部屋を出て行ってしまった。
親切心……オルブライト家を守りたいなら余計なことは考えずに命令に従えということなの……?
置かれたグラスを見つめながら、ベッドの上で掛布をぐっと握りしめる。
「ううっ……」
古傷なのか、体調が悪いのか、ただ悔しいだけなのか分からない。
お腹が痛くて苦しくて、身体を折り曲げて苦しむことしかできなかった。
皇子殿下が出て行ってから暫くすると、部屋にエイミーとウィルが入ってきた。
恐らく、皇子殿下に暫く部屋を出ているように言われたのだと思う。
エイミーは事情が分かっているのか泣きそうな顔をして私のベッド脇に掛けつけた。
「奥様……いっそこのまま寝込んでしまって、二度と起きないというのがよろしいかと」
「二度と起きないのも良いかもしれないけれど、そんなに長く仮病ができるかしら」
言いたいことは分かるのだけれど、その作戦には終わりがないと思うの。
一生寝ていなくちゃじゃない?
ウィルは入口の近くに立っていてこちらには来なかった。エイミーに遠慮をしているのかもしれない。
「皇帝陛下に会ったら、どうなるのかしら」
「皇子殿下とご一緒になる気が無いかを尋ねられるのではないでしょうか……。お世継ぎのことを考えたら現在の状況に皇帝陛下は焦っていらっしゃるでしょうし、奥様の美しさなら……と」
エイミーはそんな心配ばかりしている。実家にいる時に私の両親を見てきたせいなのかもしれない。
「私は皇子殿下と結婚する気はないし、皇子殿下もそんなつもりはないと思う。その場で殿下に否定してもらえれば解決する? 私の目の前で『この女は好きではありません』と宣言してもらうの。なにしろ私は人妻なわけだし……」
我ながら、いい案かもしれないと思う。
皇子殿下にその気がなければ、無理矢理ユリシーズから私を引き離す動機にはならない。
「旦那様が殺されてしまった場合、未亡人の身請けが目的の婚姻になります。あの皇子殿下の感じですから、あっさりと成立してしまうかもしれませんよ」
私は耳を疑って、そのあとは自分のすぐ近くにあった枕をエイミーに思い切りぶつけていた。
「ユリシーズは、絶対に暗殺されたりしない!」
私が声を上げると、ウィルが慌ててこちらに走ってきた。
「奥様、落ち着いてください」と私とエイミーの間に割って入る。
「たとえ話でも二度と言わないで!」
昨日の夜に見た夢が、ひとりきりでユリシーズを探した自分が思い浮かんでしまう。
「申し訳ございません! もう二度と申しません!」
エイミーがウィルの後ろで必死に謝っていた。
「ううっ……」
たとえ話でこんなに悲しくなるなんて、体調が悪いせいかもしれない。
まだ皇帝陛下に何を言われるかなんて分からないのに、どうしようもなく不安になっていた。
この帝国の皇帝が、わざわざ時間を作って伯爵夫人に会いたいだなんてどう考えてもおかしい。
皇子殿下が気にしていたけれど、公爵様からエイミーに接触がない時点で何かが動いていると考えた方が自然だ。
クリスティーナは、私が皇帝陛下に呼ばれたというのをどこかから耳に入れるだろう。
もう、私とは話したくないと思うのではないかしら。
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