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第一章『世界に生まれた最後の子』
【0】プロローグ
しおりを挟む終末世界でキーボードを叩く。
カタカタと音を立てている薄型ノートパソコンが、自室で一番の高級品だった。
広げている木製テーブルも、体重を支えているパイプ椅子も、下に敷かれているラグも、全てホームセンターの普及モデルである。五桁の価値がある調度品は、他にエアコンくらいだろうか。
十余年を過ごした部屋に女の子らしい華やかさはなく、機能性重視の内装だった。
そんな自分なりに快適な場所で、私はほのかに光る液晶画面と向かい合っている。
デスクトップ上には、二十数年前の電子会話システムを利用したアプリケーション。
黒地に白文字の極めてシンプルな会話ログが流れていく。
現状、相対世界との会話はこのチャットを介してのみでしか実現していないため、私にとっても世界にとっても、最重要ツールで間違いない。
画面には戸羽さんからの最新メッセージ。
チャットの新着は最上段表示のため、稀に使っているメッセージアプリとは真逆の仕様である。
『本当に進めて良いのか?』
角ばったゴシック字体から伝わってくるのは、配慮と心配の気配。
チャット内での戸羽さんしか知らない私だが、彼はやさしい人だと確信している。
文章のみでも相応の回数言葉を交わしていれば、透けて見える性質は意外に多い。チャットで学んだことの一つだった。
戸羽さんの心遣いに感謝しながらも、覆ることのない決意をタイピングに込めていく。
『お心遣い感謝いたします。しかしながら、家族との別れは疾うに済んでおります。私にとって使命を投げ出すことこそ、家族に、世界に対する、何よりの裏切り行為なのです』
連なったのは私の言葉。私の本意。私の本音。
心の底に一滴だけ沈んでいた感情は、必死に見ないふりをする。
打ち込んだばかりの文章が一段下へとスクロールし、戸羽さんの返信が表示される。彼の入力速度は私よりも一段速い。
『了解した。……悪いな、無粋なことを言ってしまって』
私が否定を書きこむよりも早く、文章がまた二行ほどスクロールする。
途端、心臓がドクンと音を立てた。
会話が本題へと移ったのだ。
『では、須藤未奈。キミを相対世界へと招待しよう。こちらの受け入れ準備はすでに整っている。あとは、キミのタイミングで”手”をかざして欲しい』
すぅーはぁー、と深呼吸。覚悟は決まっている。何を今更、と自分を鼓舞した。
モニターを凝視して、恐る恐る右手を伸ばす。
指先が震えている。腕の震えを自覚した途端、これ以上前に手が進まなくなった。
心の中に残存していた弱い感情の破片が、弱音を吸って、水かさを増してしまったのだろう。
……情けない。私は本当に情けない女だ。
この大切なタイミングで、枷となる自身の醜さが許せない。私という存在が堪らなく嫌で仕様がない。
自己嫌悪の奔流に呑まれそうになり──ふわりと、背中に暖かくて小さな感触。
振り返る。
もう振り返らないと誓っていたのに、私は振り返ってしまった。
案の定、陽だまりのように優しい人の姿が、視界に映りこんでしまう。
真上から見えた外はねミディアムヘアが微かに甘く香っている。私の樺茶色の髪よりも長い、見慣れた濃色の金髪だった。
「お嬢様、あたしが付いています。お嬢様が旅立つまであたしが目を逸らさず見守っていると、お約束しましたでしょう?」
「鏡子……」
先ほどまで真後ろで静かに佇んでいた鏡子が、今は間近でニコリと笑い、ストレートな優しさをぶつけてくる。
彼女は生まれた時から私の面倒を見てくれていた心の母だ。
慈愛に溢れた彼女の言の葉が、心にじんわり染み込んでくる。
弱さを増していた私の中身に、あたたかさが宿ったのが分かる。瞳にもジワリときた。
……失敗した。こんなはずではなかったのに、と目の前が歪んでしまう。
「もう、お嬢様ったら……。泣き顔も無しですってお約束しましたでしょう? まったく、仕方のない人なんですから」
やさしく目じりを下げた鏡子の眼差しは、在りし日に、私の母にも向けてくれたもの。
母も私も、鏡子より背が高くて大人びているはずなのに、いつも頭が上がらなくて、親子二代でこうして敵わない。
けれど、鏡子の微笑が、私の心をどうしようもなく温めて、どんなことにも負けない気持ちにさせてくれた。
私は今、勇気を貰ったのだ。
弱音混じりの本音を明かすことのできる、束の間の勇気を。
「……鏡子。こちらに居る間は私を離さないでください。……本当は怖いのです」
情けない吐露だが、虚勢を排した素直な心の内である。情けなくて、弱さが過ぎることは誰よりも私が自覚している。
それなのに、鏡子は笑い飛ばすことも、失望する様子も見せることなく、須藤未奈という存在を背中からギュッと改めて抱きしめ直してくれた。
……母の匂いがする。心地良い、陽だまりのあたたかさだ。──大好きです、鏡子。
「お嬢様が旅立つまで、ずっとこのままで居ますからね。大丈夫、あなたはせんぱいと紅の子供なのです。誰よりも強くて、カッコいいとあたしが保証してあげます」
多分、鏡子は目を細めて笑顔を浮かべている。
お日様のような、彼女の面影が脳裏にはっきりと浮かぶ。
鏡子と過ごした日々を思い出すだけで、心の中にこみ上げてくるものがあった。
「……私、できればカッコいいよりも、かわいいと言われたいですよ……」
鏡子が抱きしめてくれるから、私はついつい甘えた口調となる。
鏡子の、育ての母の顔を見た瞬間に、私は甘えんぼうになり、どこまでも彼女に縋ってしまう。
結局のところ、私は子供だった。
「はいはい、美人美人」
「こころ……こもって、ない……ですよ……」
適当にあしらわれたのに、何故だかポロポロと涙がこぼれてくる。
なのに、鏡子はちっともそれらしい雰囲気になってくれないからズルイ。「もう、仕方がないんだから」って私の耳元で優しくささやいてくれて──その音色で私は満足だった。
鏡子と共に居続けることは望んで止まないけれど、ほんの少し前までの自分は、心の母に立派な姿を見せると誓っていたはずだ。
初心を思い出し、もう一度、決意を胸に集める。なけなしの強さが心に宿った気がした。
誓いの有言実行を鏡子も望んでいると思えば、頑張ることができる。
振り返らない。私はもう振り返ることはない。
甘えた顔を拭い去り、可能な限りの決意で我が身を動かそう。
大丈夫、もう大丈夫だよ、鏡子。
温もりを背中に感じながら、パソコンのモニターに、右手をグイッと突き出す。
画面と触れる直前に、別れの挨拶を、昨日と同じ言葉を、鏡子にかける。私は振り返らなかった。
「いってきます鏡子。どうかお元気で」
「いってらっしゃいませ、お嬢様。どうか……良い、旅路を……」
そして、私の右手はノートパソコンの液晶画面へと──触れる。
固くも柔らかくもない、無の感触。
この世界、存在世界で唯一、相対世界に繋がっているモノ。
触れたのは、別の可能性を持った世界へと繋がる扉。
終わってしまったこの世界とは違う、可能性に溢れた世界。
私は世界最後の子として、これから先、違う世界で生きていかなければならない。
皆が、家族が、鏡子が、確かに存在した証明であるこの記憶を、私が最期まで紡いでいくのだ。
──あまりにも壮大な使命であることは分かっています。それでも、必ず、何があったとしても、果たします。
それが私の誓いで、この世界との約束。
私を抱きしめていた鏡子の感触が急速に薄れていく。
知っている世界がセピア色に変わる。白黒に色あせていく。
最後に目にしたのは、白いキャンバスに鉛筆書きしたような、終わってしまった灰色の風景。
滅びを待つしかない悲しい世界であっても、私にとっては掛け替えのない生まれ故郷で、十三年もの月日を生きてきた場所だった。
鏡子には心配されるかもしれないけれど、今だけは許して欲しい。
一筋、流れる涙を自覚しながら、正真正銘最後の別れを告げる。
──さようなら、私の生まれた世界。心の底から、最大限の感謝を捧げます。
同時に、私という存在が、この世界から消えていく。
──そして叶うなら……私が人となれるまで、どうかお守り下さい。
微かな願いを胸に抱き、私は相対世界へと旅立っていった。
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