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【私】
しおりを挟む──灰になっていく。
姿形がどんどん崩れていき、次第に『それ』は人を失っていく。
残されるのは、身につけていた衣服のみ。
そして、死臭と呼ぶべき吐き気をもよおす瘴気が辺りに漂い始める。
慣れたとは言え、匂いも光景も、やはり気分の良いものではない。
全てが終わり、真っ白い灰だけが私の視界を占拠していた。
人の死。
人の最期。
それが、この灰だった。
何十年と積み上げてきた人生が、こんなちっぽけな灰となり、全てが終わってしまう。
目の当たりにする度、私は途方もない感情に襲われる。
哀れみ、同情、悲しみ、苦痛……どんな言葉を持ってしても自身の感情を表すことは難しい。
強いて言うならば、同じ光景を見たことのある者にしか抱くことのできない感情、それが適切なのだろう。
私は混沌に近い感情を抱きながら、目の前の灰を眺め続ける。
正気は、疾うに取り戻していた。
人の死を目撃した瞬間から、私は正気だった。
今、この光景を見つめ続けるのは、自身の重荷を知るため。
人の死は決して軽くない。
なのに、私は数え切れないほどの死を眺めてきた。背負ってきた。
──気が付けば、自責の念にいつも押しつぶされそうになる。
けれど、逃げることはできない。
どんなに苦しくても逃げることは許されない。
なぜならば、私の選んだ道だから。
私は白い灰を目に焼きつけ、深く瞳を閉じる。
その瞬間、目の前に先ほどまで存在していた人も、私の背負うべき責任となった。
──あまりにも重過ぎる。……逃げ出したい。
そんな心の声を、弱音を、本音を、私は無視して背負った責任を受け入れる。
ずっと続けてきたことだった。
昨日、今日から始まったことではない。
私の人生の大半を覆い尽くすほどの年月が掛かっている。
今日も変わらず死を背負った。
明日もそうであるだろう。
私が生き続ける限り、苦痛は延々に続いていく。……罪は、私の生と共にあり続けるのだから。
目を開く。
大分散ってしまった灰だけど、依然として私の目の前に存在している。
人の形だったことを私に忘れないよう、灰自身が教えてくれているような気がした。
忘れない。私はきっと、あなたを永遠に忘れないだろう。
かつての人に頭を下げ、私は路地裏の来た道を戻っていく。──否、戻ろうとした。
「……権兵衛」
『彼女』が目の前に立っていた。
【須藤紅視点】
「……権兵衛」
『その人』が振り返ると、見知った彼の顔があった。
全く予想していなかったわけではない。
飛田君に頼まれた時から、小さな予感はあったのだ。
権兵衛の家から帰る途中、飛田君が私のことを待ち伏せるように立っていた。
いつものように軽い挨拶を交わし、彼は私に頼みごとがあると言って、話を切り出してくる。
『あいつは多分無理をすると思う』
誰のことを指しているのかは一瞬で理解した。
でも、理由が分からない。
私の疑問なんてお構いなしに、飛田君は話を続け、『夜』『路地裏』二つのキーワードを一方的に残して、去って行く。彼らしくない態度が、嫌な予感を加速させた。
状況を理解しているわけではなかったが、飛田君に頼みごとをされること自体極めて稀であるし、それが病床の権兵衛を指していることは明白だったので、無視することもできなかった。
半信半疑のまま、夜の路地裏を訪れ……そして、今の状況に置かれた。
考えてみれば、『夜』と『路地裏』というキーワードは、『彼』が誰であるのかを示していたのだろう。
私は過去にその人を探したことさえあるのだから。
けれど、まさかと言う思いが無意識に否定していた。
その人物と『彼』が私の中でどうしても一致してくれなかったから。
でも、そんな思い込みはあくまで表面上の話。
内面で見てみれば、『彼』ほどその人に近い人間もいない。
──いえ……そんなことはどうでも良い。
頭を振る。
『彼』の正体が何だろうと今は関係ない。
重要なのはそんなことではないのだ。
先ほどまでの自分の考えを無理やり追い出して、叫ぶ。
「権兵衛!!」
私は怒っていた。
目の前で青白い顔をして、頼りなさげに立っている彼。
熱があるのか、青白い顔をしながらも肌の色は赤くもある。
明らかに体調が良くないことが、ひと目で分かる。
「あなた……自分が今どんな状況なのか分かっているのっ!?」
声に怒気が含まれてしまうことを抑えられない。
どうしてこの人はこんな状態で外を出歩いているのよ!?
「そう、だね」
いつになく穏やかな表情をして、彼は答えた。
そんな答えで私が納得すると思っているの!
「ふざけないでよっ! そんなに具合悪そうにして、本当は寝てなきゃいけないでしょう!」
ああ、私は本当に怒っている。
他人事のようにそんな考えが浮かんでしまう。
本気で怒ったのはいつ以来だっただろうか。
「……そう言うわけにもいかないよ」
彼の否定に、私の本気の感情が彼に届いていないことを知り、軽い失望すら覚える。
「何でよ!?」
まさに彼へと食って掛からんとする勢いで怒鳴りつける。
「私はあなたのことを本気で心配しているのよっ!」と恩着せがましく言いつけてやりたくもなった。
語り掛けなかった言葉も、すでに告げた言葉も、両方本心だった。嘘偽りない私の心の底から湧き上げっていた想いだった。
でも、彼は。
「『私』にはやらなければならないことがあるから」
ゾクリ、とした。
そして、目の前に居るこの人は誰なのだろう、そう思った。
一人称がいつもと違うだけのはずなのに、目の前の人物が、私の知っている権兵衛ではないように見えてしまう。別の人に錯覚する。……それは私にとって、とても恐ろしいことのように感じてしまう。
「……っ……」
言葉が詰まった。
咄嗟に浮かぶ台詞がない。
だけど、それでも、私は自分に活を入れて、無理矢理でも発する言葉を捻り出した。もしかしたら、須藤紅という私の意地だったのかもしれない。
「そ、そんなこと! 知ったことじゃないわよ!」
言っていることは我ながら滅茶苦茶で、支離滅裂になりつつもある。
でも、支離滅裂でも何でも良いから、とにかく彼を自宅まで連れていかなければならないという譲ることのできない想いがあった。
臆する自分を隠して私は彼に手を伸ばす。
「とにかく行くわよ!」
こんなにも寒くて、薄暗いところに居ては良くなるものも良くはならない、渦巻くマイナスな感情の中で、私が唯一掴んでいた正論だった。
秋の季節の夜は、肌寒いで済むものではない。風邪を悪化させるに足る気温が周囲に漂っている。
私は有無を言わさず彼の手を引くと、彼の手は火照るように熱かった。
瞬間、彼から力が抜けたのが分かる。
「ちょっと……!?」
やはり体調が悪かったのだろう、彼は私の方にそのまま倒れてきた。
何とか倒れきる前に支えて、地面との衝突の事態は危うく回避する。
……こんな時だと言うのに、何故私は動悸を激しくしているのだろうか?
我ながら馬鹿らしい浮かんできた考えを払い、彼に声をかける。
「大丈夫? 歩ける?」
辛そうな彼の横顔を見ているだけで、怒りなどどこかに飛んでいってしまった。同時に、彼に感じていた恐れの感情も霧散する。今の彼は、多分私の良く知る権兵衛だった。
できるだけ負担にならないように、彼の体をなるべく優しく支え直す。
「……肩を、貸してもらえれば、何とか……」
苦しそうに呼吸をしながら、先ほどの私の問いに対する答えを、彼は辛うじて発していた。
「これなら大丈夫?」
「……何とか……」
態勢をもう一度整え、権兵衛に私の肩を貸す。
完全に私へともたれる形だが、彼は何とか歩くことができていた。
幸運なことに路地裏と彼の家とはそれほど距離が離れていない。
彼の火照る身体を労わりながら、私は道を進んでいく。
彼の苦しそうな呼吸だけが、静かな夜の中に響く。
「…………」
彼には訊ねたいこと、訊ねなければならないことがたくさんあった。
一方で、こんな状態でそれが叶わないことくらいは理解できる。
本当なら『どうしてあんなことをしているのか?』『あなたは何者なのか?』と口出したいところだったが、今は我慢する。
代わりに。
「体調が良くなったら、まとめてお説教するのでそのつもりでいなさい」
「……ははっ……お手柔らかに……」
僅かに困ったような声で、権兵衛が笑った。
ここに居るのは『私』と名乗る彼ではない、私の良く知る『名無しの権兵衛』と名乗る男性だった。
彼は普段の彼に戻っていた。
その切り替わりがどういう理由で行われるのかは私には分からない。
だけど、日常的に道化を演じている彼には、私もまだ知らない何らかの事情があることは明白だった。
一ヶ月程度の付き合いしかない私が言うのも変かもしれないが、彼にはまだまだ沢山の謎が付きまとっている。
……もしかしたら、彼が路地裏を訪れる理由を知ることができれば、他の謎も一気に芋づる式で分かるのかもしれない。
──そしてそれは、そう遠い日の話ではないような、そんな予感が私の中にはあった。
【須藤紅視点END】
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