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婚約破棄されました:3

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  悲鳴と怒号が飛び交う広間をあとにして、アルテイシアはクロフォードに手を引かれたままオリタリア王宮の廊下を歩いていた。
  クロフォードの傍(かたわ)らには護衛らしき初老の騎士がひとり控えており、手慣れた様子で王宮内を進んでいくと、来客用の離宮に到着した。

「ここは………」
「さあ、アルテイシア嬢。君もおいで」

  辿り着いた離宮の意味を理解し、アルテイシアが思わず立ち止まると手を引くクロフォードはやんわりと笑って門を潜るよう促す。
  アルテイシアは若干戸惑いながらも門を通り更に歩いていくと、離宮の庭先にある小さな建物が目に入った。
  何代か前の正妃が建設したという屋敷は別名安寧の館と呼ばれ、妃にとっての心の砦であったとされる場所である。
  無論、安易に客を招き入れられる場所ではない。
 
「安寧の館…………」
「流石、王妃候補。ここのことは知っているんだね」
「はい。オリタリアにとって、とても大事な場所だとうかがっております。
  クロフォード様は、こちらに滞在されておられるのですか?」
「ああ。ギルバート殿が薦めてくれたんだ。
  ここならエンシャントのように寛げるだろうと。
  せっかく心を尽くしてくれたのに、ギルバート殿には酷いことをしてしまった」

  オリタリアはエリオットが言うように大国と呼んで差し支えのない国である。
  その国王が心を砕く相手はそう多くない。
  今回の式典は国内外から多数の賓客を招いたとはいえ、大半の準備は役人たちが済ませたことだろう。
  その中にあって、安寧の館を利用する意味は唯一つ。
  エンシャント聖王国はオリタリアより格上の国だということだ。
  通常の勉学ならいざ知らず、妃教育にはそういった『機微』も学ぶ。
 だが、アルテイシアはエンシャントについてなにも教えられていなかった。
  教育に手を抜かれたと見るべきか。それとも、正式に婚約したと発表された後に更なる妃教育が待っていたのか。
  今となっては知る由はない。
  大事なのは今後の生活についてだった。

「お帰りなさいませ、陛下」
「ただいま。ラトーヤ。人数分のお茶とお菓子を用意しておくれ」
「はい、ただいま」

  館の内部に入ると褐色の肌の侍女が一同を出迎えた。歳の頃はアルテイシアより少し歳上くらいだろう。年重に見積もって20代の半ばには到達してはおるまい。
  見たことのない容姿だが美しく、髪色も珍しい緑色だ。思わず見惚れていると、クロフォードがアルテイシアに席をすすめながら「南大陸の人は初めて見たかい?」と問いかけてきたので素直に頷いた。

「失礼しました。不躾でしたわ」
「どうぞお気になさらず。慣れております」

  と、侍女は努めて冷静に言ってティーカップを置いていく。
 青い陶器の茶器はオリタリアでは見たことがない。エンシャントから持ってきたのかも知れない。

「ラトーヤは凄いよ。裁縫から炊事洗濯、屋根裏のネズミ退治までなんでもできるんだ。 我が国自慢のひとつだ」
「エンシャントのお城にもネズミが出ますの?」
「エリオット王太子の言葉ではないが、エンシャントは古いばかりが取り柄でね。季節の折々にネズミが巣を作ろうとするんだ。その度にラトーヤには世話になりっぱなしだ」
「特別手当が出ますので、私はその時期が待ち遠しいです」
「おい、ラトーヤ」

  しれっと答えながらお茶を淹れるラトーヤに、控えていた初老の騎士が声を批難の声を上げる。
  しかし、クロフォードが手で制すると騎士は深々と息を吐いただけで終わらせた。
  その分、機嫌取りとばかりに茶菓子が多めに振る舞われていたのは見なかったことにした。
  出された茶菓子はハーブが練り込まれたクッキーだった。
  ひとくち頬張るとサクサクとした食感と共にハーブの爽やかな香りが鼻に抜けていく。
  ほんのりとした甘さもお茶に合っていてとても美味しかった。

「このクッキー、とても美味しいです。紅茶の味も引き立てて、それでいてお菓子としてもきちんと美味しい。
  どこでお買い求めになりましたの?」
「これはラトーヤの手作りだ。良かったね、ラトーヤ。お前の菓子は都でも通用するようだ。お店でも出店するかい?」
「お気持ちは嬉しいですが、私は陛下や妃殿下のお傍で仕事をしている方が幸せです。私の幸福を取らないでください」
「おや、嬉しいことを言ってくれる。そんなラトーヤには素敵な後輩が出来たと報せなくてはね」
「後輩、ですか?」

  ラトーヤがきょとりと瞬きすると、クロフォードがアルテイシアに目を向ける。
  アルテイシアはその視線を受け小さく声を上げた。

「もしかして………」
「そう。君の働き口だ。我がエンシャント城で息子の世話をやいてほしい」
「息子………ということは、王子殿下、でしょうか?」

  意味を咀嚼するように言葉を紡ぐと、クロフォードは肯定するように頷いた。

「本来、紳士の身の周りのことは近侍がするべきなんだろう。
  だが、生憎我が国は常に人手が不足していてね。慣例などに構っているわけにはいかないのだよ。
  為せる者が為すべき場所へ、というのが自然に標語になるくらいでね。
  おかげで本来現場を退いてる筈の騎士も出張らせないとならない」

  言いながら、クロフォードは後ろに控える老騎士に目を向ける。老騎士は何を言うでもなく紅茶を飲んでいた。

「必要な戸籍はこちらで用意する。
  シュタイナーは当然、エリオットやオリタリア王家側から君に手出しが出来ないよう手配しよう。
  君が彼らとの関係を再構築する術を探すなら、その手助けもする」
「オリタリア方面の気遣いは無用ですわ。
  放逐されたのですもの。今更古巣に帰ろうとは思いません」

  きっぱりと決別を宣言するアルテイシアに、クロフォードは少し目を見開いて瞬きをした。

「強引に君を引き取った私を責めないのかい?」
「強引だとは思いましたが、わけもわからず極刑にされるよりマシです。極刑宣告された際、一瞬だけ来世に期待してしまいましたけれど、やはり生きてこそだと思うのです」
「ほう………。では、エンシャントを支えてくれるかい?」
「私に何処まで出来るかわかりませんが、それでも良ければ、宜しくお願い致します」

  アルテイシアは深々と頭を下げる。
  すると、クロフォードはやんわりと笑って頷いた。

「ああ、宜しく頼む。アルテイシア」

  アルテイシアの再出発はこうして早々に決まったのである。
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