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一章
1:タダナオ
しおりを挟むパキリと音が鳴るたびに何かが溢れていく。
上も下も左右前後も分からない。
立っているか横たわっているかも判然としない中で『自分』が砕けていく錯覚にとらわれていった。
自分が壊された経験は何度かあるけれど、これは今までの物と違って何もかもがバラバラにされていくようだった。
そうしてもう一度、必要な部分を繋ぎ合わせていくように記憶が、肉体が組まれていく。
1つ残らず組み合わされていくようで、いくつかはすり抜けていくように消えていく。
それがとてつもなく恐ろしくて手を伸ばすと一際輝いていた何かが手の中に収まりかけて溢れて落ちた。
そんな夢を見た。
目が冷めたのは泣き声がしたからだった。
子供の声だ、と、気付いて胸の辺りがざわついた。
動物のは平気だけど、人の泣き声はあまり好きじゃない。
自分が助けて貰えなかったことを思い出すから。
特に子供の泣き声は嫌でも昔のことを思い出すから体が強張ってくる時もある。
それでも放って置くのは気が引けて周囲を見渡してみる。
辺りは真っ暗で、自分の足元だけがほのかに明るかった。
一歩、声のする方に足を踏み出す。
すると、何故かふわりと花が咲いて散っていった。
色とりどりの花びらがひらひらと舞って地面に落ちていく。
奇妙なのは花びらが舞い散ると光の粒になって消えていくことだった。
ここは何処だろう、と、今更ながらに脳裏によぎるけど、子供の泣き声で思考が遮られる。
道はあるようでない。
行き止まりがありませんようにと願いながら、声のする方に歩いていく。
俺は確かトラックに跳ねられたんじゃなかったかしら、あの猫又は無事だろうかと思いつつ足を進める度に花が咲いては散っていって、それが感情の発露のように見えた。
「どうして、どうして、僕だけこんななの」
嗚咽の中に、確かな言葉が混じっていた。
それはいつか俺自身が嘆いた言葉だった。
どうして自分だけが不思議生物が見えるのか。
他の子どもと同じように生活していけないのか。
人間の友だちが欲しいのに、遊び相手は何時だって異形ばかりだったあの頃。
狸や狐のちびっこたちを紹介しようとして気味悪がられ、嘘つきと突き飛ばされたあの日。
通過儀礼だと突き放す言葉しか言ってくれなかった家族に、俺はただただ泣くしか出来なかった。
「みんななんか、見えなきゃよかった!」
辿り着いた先にいたのは、幼い俺だった。
そこは月明かりが射し込む石窟の一角で、中央に小島があって周りを湖に囲まれた場所だった。
歩く度に咲いては散った花々がそこかしこに群生していて柔らかく光を放っている。
わんわん泣く幼い自分を見るのはやるせなかった。
真っ白な服が死装束に見えた。今の俺にお似合いだ。
そんなことを思いながら手が伸びる。
頭を撫でようと手を置こうとするけれど、手は呆気なく通り抜けた。
それは幻想で、虚構だった。
「あ……………」
「それはお前の原点だ」
「ーーー?!」
朗々とした低い声が聞こえて、俺は勢いよく振り返る。
視線の先にいたのは巨大な獣だった。
黒い毛並みの獅子と虎をかけ合わせたような猛獣だった。
黄金の瞳が、さっきまで一緒にいた猫又を思い出させる。
「ライガー………?」
「ふむ、お前の世界では我(われ)はそう呼ばれているのか」
「………喋った!」
まさか猛獣が話すとは思わなくて目を見開くと、猛獣はのっそりと俺の傍にやってきて幼い俺に目を向けた。
「アレはお前の心の断片だ。そして、離れてしまった心でもある」
「離れて、しまった?」
「お前の心はバラバラに砕けてしまった。
そして、この世界に散らばってしまった」
「…………意味が分からない」
訝しむ俺に、猛獣は「分からぬのも無理はない」としたり顔で言った。
「時折、現れるのだ。
心が砕けたことにより魂の形が変質し、世界を渡ってしまう者が。これを異世界転移というが、この言葉に心当たりはないか」
「物語でよく聞く言葉ではある」
それこそ、ファンタジークロニクルみたいなゲームとかアニメなんかでありがちな設定だ。
「夢物語ではなく、異世界転移は実際にある。
その多くが事故や天災による一時的な熱源の変容による不慮のものだ。
そしてその変容に巻き込まれた者は肉体や精神が分散され、再構築される。
だが、稀に再構築から漏れ世界に断片が散らばってしまうことがある。それがお前に起きた」
「…………でも、俺の体はここにあるよ」
「しかし『実体』になるまでは至ってない。
あの子どもを受け入れれば、実体を手に入れることができるだろう。
だが、それには痛みが伴う」
「痛み………」
「我の存在に殊更驚かず、此処が何処であるか慌てふためかず、狼狽えぬのはお前が『欠けて』いるからだ。
あの子どもを内に収めればそれもなくなるだろうが、それはそれでまた別の痛みを覚えるだろう。
生きることとは痛みを知ることでもある。
このまま死んでいるとも生きているともつかぬ姿のまま悠久の時を過ごすのもお前の為やもしれぬ」
どうする、と猛獣は問い掛けてくる。
俺はもう一度、幼い俺を見た。
幼い俺はまだ泣いている。多分、俺が取り込まなければずっと泣き続けることだろう。
猛獣は、アレは俺の原点だと言った。
俺という存在を受け止めてくれなかったという悲しみ、傍にいる不思議な生き物たちの存在否定、普通という物への憧れ、その根源があの幼い自分なのだろう。
受け止めることは出来そうだった。
けれど、受け入れるとなったらどうだろう。
そこから更に発展して、自分にほんの少しでも期待出来るようになるだろうか。
この苦しみを抱えて、俺は自分の足で立って、歩いて生きていくと断言できるだろうか。
『普通の人間』に足りたくて努力してきたつもりだった。
その結果に得たのはなんだったろう。苦しいことしか思い出せない。
これも猛獣の言う『欠けた』状態の弊害だろうか。
分からない。分からない。分からない。
何度考えても、答えは出てくれなかった。
「………俺は、どうすればいいんだろう」
「そう焦らなくても良かろうさ。
そういう現象に巻き込まれていることを、今は知っておけばいい」
柔らかな声音で言う猛獣にの言葉に俺は頷くしか出来なかった。
◎◎◎◎◎◎◎
泣き続ける幼い俺を置いてきて、俺と猛獣は暗がりの道を歩いていた。
変わらず歩く度に花が咲いては散っていくが、これはこの空間の仕様なのだと猛獣は言った。
「なあ、ここは何処なんだ?」
「此処は『箱庭』と呼ばれている世界だ。その北方、アルテス山脈の中腹に位置する」
「アルテス山脈………」
何処かで聞いたことのある名称だった。
アルプスに似てるからとかそういうのじゃなく、アルテスという名前に聞き覚えがある気がしたけれど、はっきりとは思い出せなかった。
「アルテスは独特のマナの流れをしていてな。
不思議なことがよく起こる。異界から人が落ちてくることもあるし、物が降ってくることもある」
「俺みたいなケースは流石に珍しい?」
「頻度で換算すれば珍しい方だろう」
「今まで『欠けた』人たちはどうしてた?」
「様々な決断をしていたな。
心の破片を探しに行く者もいれば、探しに行かず新たな生活を始める者もいた」
実体があれば大抵のことは出来るからな、と猛獣は言う。
弱体化しているから注意して生活しないといけないけれど、体力配分さえ間違えなければ通常生活には困らないことも多いんだってさ。
でも、俺の場合は実体化出来ないくらい『心の破片』が世界のあちこちに散らばってしまったから、それも難しい。
下手に実体のないまま探しに行ったらゴーストモンスターに間違われて退治されてしまう可能性もあるそうだ。
それならそれでいいんだけどなと思うと、見透かしたように猛獣が溜息を吐いた。
「お前はどうにも生に対して執着が薄いようだ」
「まあ、カケモノだから」
「だとしても希薄すぎる」
心が欠けていても、大抵の転移者は生に対する執着があったと猛獣は言った。
あれこれ話しているうちに辿り着いたのは石窟の中とは思えない程広い場所だった。
人工的な石畳の道の向こうにはギリシャ神殿によく似た建物があった。
中に入ると広々とした空間に巨大な玉座があって、猛獣は玉座に近付くとゆったりと腰をおろして尾を揺らした。
「………アンタ、何者なんだ?」
「我は世界の管理者のひとり。こうして玉座に座り、アルテスの山々を見守る役目を担っている。
変事があれば変事を解決し、またこうして寝床に戻る日々よ。
まあ、今は解決には程遠い状況だがな」
「確かにね」
実体はないのに床が透けないのが不思議だと思いつつ頷くと猛獣は「お前にはいつくか選択肢がある」と告げた。
「ひとつは、心の破片を探しに行く。これはお前の実体は勿論、本来持っていた筈の能力の奪還することも意味する。
もうひとつは、探さずこのままの状態を維持する。
そして最後のひとつは、存在の消滅を諮りどの世界からも消え去る、というものだ」
「どの世界からも消え去るっていうのは?」
「輪廻の輪から外れ、魂そのものを抹消することを意味する」
「3つ目を選んだら怒られそうだね」
「そんなことはせんさ。若いみそらで勿体ないことをするとは思うが」
「でも、さっき生に対する執着がどうこうって言っていただろ」
「アレはお前の現状を指摘しただけだ。小言を言ったわけではない」
「五十歩百歩って言葉知ってる?」
「さて、異界のことわざにはとんと疎くてな」
「分かってんじゃんか」
ぼやくと、猛獣は素知らぬ顔でグルルと唸った。笑ったのかもしれない。
「俺は異世界転移したんだよね?」
「それは確かだ。次元の渦から溢れてきたからな」
「じゃあ、あのトラックに轢かれたのがきっかけなんだろうな………。そうだ、尻尾が二股に別れた猫を見なかった?」
「二股に別れた猫………フェアリーキャットのことか?」
「こっちではそういうんだ………金目の黒猫なんだけど」
「我は見ていないな。それがどうしたのだ」
「一緒に転移してきたかも知れないんだ。俺のことはどうでもいいから、ソイツが無事だか調べてもらうことって出来る?」
「やれなくはないが、知ってどうする」
「どうするって………幸せなら放っとく。嫌な目に遭ってるなら助けるだけだよ。
俺のせいで転移したようなもんだし」
不思議生物と決別したくせに何を言ってるんだと自分でも思う。
けれど、何故かあの猫又を放って置くことは許せなかった。
そんな俺の決意を他所に、猛獣は呆れ混じりに問い掛けた。
「実体もないのにか?」
「それを言われると………困る…………」
現実を突き付けられて自然と渋い顔になった。
結局はそこに行き着くんだよな。
実体がないと何も出来ない。
「他の俺の破片を集めたら実体が戻ってくることはない?」
「可能だが、ひとつ回収しただけでは難しいぞ。せいぜい気配が濃厚になる程度だ。
存在が確固たるものになるのは『原点』を取り返すことが一番の近道でもある」
「けど、俺は『原点』を受け止められる状態じゃない」
「……………………」
「多分、受け入れる前に発狂して可笑しくなると思う」
「……………そうか」
俺の見解に猛獣は静かに答えた。
「フェアリーキャットについてはこちらで捜索してみよう。お前は己が何をしたいのか、今一度考えてみるがいい」
◎◎◎◎◎◎◎
実体が曖昧なせいか、時間の感覚がどうにも鈍くなっていた。
何をするでもなく一日二日と日々は過ぎていくけれど、原点を受け入れる覚悟はまだできていない。
猛獣はそれでいいと言ってくれている。
けれど、猫又を探しに行くにはこの体は不便で、実体があるのが必須だった。
神殿には図書館もあったから何かヒントがないか探ってみたけれど、文字は俺の知っているものではなくて一行も読むことが出来なかった。
猛獣が言うには破片を集めれば読めるようになるという。
文字が読めるだけじゃない。この世界の言語で会話することも容易になるんだそうだ。
俺が猛獣と会話できるのは、猛獣側が俺の言語を知っているからだ。
他所の国ではこうはいかない。
「原点を取り込めば、会話や読み書きの心配はなくなる?」
「恐らくは。完全に再構築された『異世界人』はあらゆる面で有能であった。まるで神のような特異な力を有し、強靭な肉体と精神を持ち合わせ、世界を救うこともあった。滅ぼしかけたこともあるな」
「えーと、つまり、ちゃんとした異世界人はチートになるってこと、なのか?」
よく分からなくて首を傾げると猛獣は「ありていに言えばそうなる」と肯定した。
そっか。俺、チートになり損なってるのか。
なら、破片を集めたがった人の気持ちも分からないでもない。集めただけで最強になれるんだ。楽して暮らしたいやつにはもってこいの話だろう。
「じゃあ、原点を取り戻したら、俺はどれくらい強くなるんだろ」
「なんだ、強者に興味があるのか?」
「そんなんでもないよ。強くなっても力の使い方が分かってなけりゃただの粗忽者になるだけだ。俺は普通の人間になりたいんだ」
「普通というのも厄介だぞ」
「そうかな。俺はずっと普通になりたかったから、その厄介さが理解できないよ」
「欲がないな。多くの者は強者であることを望むというのに」
「弱虫なだけさ」
肩を軽く上下させ、俺は今日も泣き続ける幼い子どもを遠目で見つめる。
触れるという選択肢はまだない。
猛獣もそれを責めたりしたい。
ずっとこのまま有耶無耶に出来ればいいのにとさえ思う。
だけど、状況はそれを許してくれなかった。
「お前が気にしていたフェアリーキャットだが」
「…………見つかったの?」
「見つかったと言えば見つかったが、不明といえば不明な状況だ」
「どういうこと」
「ひとところに留まっていない。今日はあちら、明日はこちらと根無し草でな。
何かから逃げているようにも見えるし、自由奔放とも見える」
「アイツ、野良っぽかったからなあ」
「どうする。探しに行くか」
「でも、実体がないと大変じゃないか」
「我が術をかければ実体化は出来る」
あっさりと告げられた言葉に、俺は目を丸くさせた。
「そんな術があるのか?!」
「ある。しかし、出来るのは実体化のみだ。体力や言語翻訳能力は損なわれたままだ。
あまり勧めたくはない」
唸る猛獣に、俺はなるほどと返事をするしかなかった。
周りを把握する特典能力が欠けた状態では余計な騒動に巻き込まれる可能性がある。それも、逃げ場がないやつだ。
猛獣はそれを心配してくれているらしい。
「猫又、危ない場所にいたりする?」
「いや、最後に感知したのは魔物もでない静かな森だ。ここからも近い」
「じゃあ、ちょっとだけ行ってみてもいいかな。危険がないなら、実体がなくても大丈夫な気がするし………」
「賛成しかねる。油断は死を招くぞ」
「ちょっとだけだよ。猫又が幸せなら、直ぐにかえってくるから」
お願いと手を合わせて懇願すると、猛獣は暫く考え込むように虚空を眺める。
その下で、俺はお願いと何度も言うと猛獣は仕方ないと言うように大きく息を吐いた。
「見つけたら直ぐに引き返してくるのだぞ」
「うん、分かった。ありがとう! 大好き! 」
嬉しくなって堪らず抱き着く。
すると、俺には実体が無いはずなのに猛獣には抱き着けたしモフモフの毛並みを堪能することも出来た。
なんだろ。この曖昧な感じ。不思議生物だから可能なことなのかな。
ふっかふかな感触に自然と頬が緩むと、頭上から「おい」と低い声が聞こえた。
「あまり抱き着くでない。あらぬ疑いをかけられるぞ」
「あらぬ疑い?」
「我の番(つがい)と間違えられると言うておるのだ」
「つが…………なんて?」
ただ抱き着いただけで番認定って重くないだろうか。
「アンタに抱き着く奴、いないの?」
「一応、高位生物の扱いを受けているのでな。敬われることはあっても親愛を示されることはない。況してや抱き着かれるなど、この世界の者からすれば目が飛び出る事態だぞ」
「ふうん」
「理解してないな」
「ああ、うん。俺、カケモノだから」
「上手く逃げおって。まあ、よい。お前には懐かれていると思うことにする」
溜息混じりに猛獣は言って、何事かを呟くと俺の首に緩やかに光の線が巻き付いてくる。
線は何度か色を変えるとパチンと弾けて小さな飾りの付いたチョーカーになった。
「何かあったら我の名を呼び、飾りを引け。さすれば直ぐに此処に戻してやるからな」
「うん。分かった」
頷いて神殿の外に出る。
階段を降りて、坂を下っていくところまで猛獣はついてきてくれた。
「そういえばさ」
「なんだ」
「俺、アンタの名前知らないんだ」
「奇遇だな。我もお前の名前を知らぬ」
したり顔で言い合うと、どちらともなく笑い声が出た。
名前を知らなくても、関係は普通に構築できるらしい。
でも、知っていた方がなにかと便利だろうから、俺も猛獣も名乗ることにした。
「俺、タダナオ」
「タダナオか。我はモストゥルムという」
「モストゥルムね………ん? モストゥルム??」
モストゥルム。何処かで聞いた名前だ。
何処だっけ??
「可笑しいか?」
「ううん。全然。名前分かって良かったよ」
「我もだ。名は記号だが、呪(まじな)いでもあるからな」
「異世界の名前でも効果あるのか?」
「あるさ」
整備された石窟を抜けると、眼下に広いレンガの道があった。此処から少し行ったところに、猫又がいるかもしれない森がある。
「我がついてこれるのはここまでだ。魔物がいないからといって何が起きるか分からぬ。道中はくれぐれも気をつけるのだぞ」
「分かってるよ。心配性だな、モストゥルムは」
「お前の状態を思えば心配にもなる」
「ん、気をつける」
真っ直ぐに心配されたことがないから、なんだか気恥ずかしくなってきて後ろを振り返らず返事をする。
それじゃあ行ってきますと言って一歩を踏み出す。
こうして俺の異世界での最初の冒険が始まった。
筈だった。
「お前、どうして俺が『ジェイク』だって知っているんだ?」
「ーーーんぐっ!」
まさか2時間も経たないうちに自分に触れる人間がいて、なおかつ首を絞められることになるなんて、この時の俺は思ってもみなかった。
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