ふたつの嘘

noriko

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ふたつのしあわせ

ふたつのしあわせ 1

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冷たい。
雨、塗れた地面。
体中が痛い。
力が入らない。
声が出ない。
雨が地面に叩きつけられる。
鬱陶しいくらいに単調で、やかましい音。
――なんだ?
――なんだって、何が?
何がって?
……わからない、すべてが。
雨音の中に、わずかに違う音が混じる。
なんだっていい。
どうせ、まともに見えやしない。
目をあけていたところで、水をまとった土しか見えない。
泥だらけだ。
汚れた、もうどこまでも。
ああ、あれは人の声だ。
でも、なんだっていい。
どうせ、これで終わりだ――
俺はやっと、解放される。




声が聞こえた。
僕を囲んで、2人くらい。
熱が下がらないとか、目を覚まさないとか。
そんなことを、苛立ったように話していた。
次に、瞼の向こうが明るいのに気づいた。
昼だ。
今日は晴れてる。
乾いた瞼を無理やりこじ開けようとして、失敗する。
喉が異様に乾燥していて、息をするのが少し辛い。


「――っ」
無理に息をしようとして、咳き込んだ。
涙が出て、少し目を開けるのが楽になる。
ぼんやりとした、白い世界が広がった。
「大助くん、気がつきましたよ」
落ち着いた男の人の声が聞こえる。
そちらの方向を見やると、はっきりとは見えないが……赤みがかった髪を固めた、眼鏡の男性がいた。


「綺羅君、俺がわかる? ごめん、俺がもっと早く気付いてれば……」
反対方向から、少年の声が聞こえた。
安堵の中に、すこしの心配が混じったような声。
短い、明るい茶色の髪、赤い瞳。
ああ、やっとはっきり見えるようになってきた。
「きみ、は……」
声がかすれて、言葉がつながらない。
彼は僕のことを知っているようだけど、僕には彼のこと、全く知らない。
君は、だれ?


「大助くん、水か何か、飲ませてあげてください」
「あ、はい」
"大助"と呼ばれた少年は、少し遠くの棚に向かって歩いていく。
一方で、男性は眉をひそめて、僕に声をかける。
「ご自分の名前、言えますか?」
名前。
名前とは、先ほど少年が言っていた……
「き、ら……?」
「フルネームは?」
そこまで訊かれて、初めて気づいた。


わからない、自分の名前が。
僕は、首を横に振った。
「そう……」
彼は、暗い顔をした。
「水、持ってきました」
少年は、少量をコップに注いで、僕の口に当てる。
少し苦しかったが、それでも喉は十分楽になった。
「乱暴な飲ませ方ですね」
「文句あるならあなたがやってください」
彼らは、僕を置いて喧嘩を始める。
「あの、僕……」


「僕!?」
少年が、素っ頓狂な声をあげた。
"僕"って、おかしかっただろうか。
何か言いたげな少年を宥めて、男性が僕にまた訊ねる。
「他には、なにか覚えていることは?」
もう一度、彼を見る。
彼は、困惑しているようだ。
「恵さん、もしかして……」


僕は、首を横に振る。
そこでやっと、彼の質問の意図がわかった。
「彼、何も覚えてないみたいです」
そう、僕は何も覚えていない。
自分のこと、他人のこと、すべて。
「何も……」
少年は、年にそぐわぬ難しい表情を見せた。
一方で、男性は落ち着いて話を始める。


「彼は河関大助くん。それで、ここは病院。あなたが外で倒れてるところを見つけて助けたのが彼です」
「そっか……大助君……ありがとう」
彼は笑う。
少し、寂しそうに。
「"くん"はいらないよ」
「……ありがとう、大助」
「うん。目を覚まして、本当によかった」
それは本心だったのかもしれないけれど、彼の返答には、力がなかった。
「そうだ、あなたは」


僕は男性を振り返る。
彼は微笑み、落ち着いた声で言う。
「私は、朝倉恵です。そうですね……私も彼と同じく通りがかった……会社員です」
「は?」
何故か大助が聞き返す。
その彼の声を、咳払いで静止する。
「ええと……ここは大助くんの家なので、色々と、安心してください。あ、お医者様はいらっしゃるそうですよ。大助くんに助けてもらえて、幸運でしたね」
幸運、そうかもしれない。
よく考えれば。

自分のことは覚えてないけど、常識的なことは覚えているようだった。
ここは大助の家と聞いたが、普通の家であればこんなに広い部屋は簡単に用意できない。
また、医者も来るという。
つまり、大助は相当な財力のある家の息子ということのようだ。
それを考えたら、たしかに不幸中の幸いだろう。



「ところで、お腹すいてませんか? 3日も眠ってたんですよ、あなた」
沈黙を仕切り直すように、恵さんが軽く手を叩く。
3日も。
もう少し早く目覚めていれば、記憶はあったのだろうか?
「体が痛くて、食べれそうにないです」
「そうですか……。なにか柔らかいものが必要ですね、重湯とか」
彼はそう言って、僕の答えも聞かずに部屋をでていってしまった。


「行っちまった……どこ行くつもりだよ」
大助が呟く。
「あの、大助。ちょっと質問」
「俺に?」
「君はどうして僕の名前を知ってるの? やっぱり、君は僕の知り合いなの?」
彼は、ばつの悪そうな顔をする。
「身分証明書、見た」
「その証明書はどこに?」
「落とした」


バレバレの嘘だった。
「名字はなんて書いてあった?」
僕はあえて、嘘に乗ってやる。
「瀬戸、だったかな。……でもね、綺羅君。綺羅君がこのままこの名前を使い続けるのは少々危険なんじゃないかって思う」
彼は、声をひそめた。
「……どうして?」
「あんまりこんなことは言いたくないけれど、あんた、事故かもしれないけど、誰かに狙われたのかもしれないらしいんだ。だから、もしあんたが生きてるって知れたら」


「今度こそ、危ないかもしれないって?」
「そういうこと。ここにいればまず安心だとは思うけど、一生いるわけにもいかないだろう?」
僕は、ただうなずく。
目覚める前の情報がいくらあっても、僕にはそれは客観的な事実としか映らなかった。
完全に新しい人生を始めるのも、悪くはないのかもしれない。
「名前、かあ」


「ゆっくりでいいから、考えときな。元気になるまでに」
そう言って、大助もまた部屋を出ていった。
部屋は静まり返る。
「お礼、言えなかった」
いつでも、言えるだろうか?


僕は体を起こそうとした。
しかし、力を入れるとそこらじゅうが痛む。
いつになったら、動けるのか。
ずっとこんな豪華なところに入院してるわけにもいかないし。
それにしても、名前。
自分で考えるのか。
彼に使うなと言われたのだから、使わない方がいいのだろう。

大助たちが良い人だったら、きっと僕は生きていける。
悪い人だったら、あっけない一生になるかもしれない。
どうせ僕は何も知らないんだし、彼らの言うことを聞けばいい。
最悪死んだって、今なら別にどうって事ない。
時間はたくさんあるし、とりあえず確認しておきたいことを、できるだけしておこう。
まずは自分のことだ。
手足は痛むが、指の先まで動く。
声は出たし、耳は聞こえる。


目は……遠くは少しぼやける。
奥の壁にカレンダーがあるのはわかるが、数字は読めなかった。
そのさらに上にかけられた時計も同じく。
ぼんやりと見える針の位置から、今が3時くらいだというのはわかった。
それくらいだ。
少し、近視らしい。
それから、今わかることは……
そう、髪が鬱陶しい。

前髪は顎まで届くし、後ろの髪は多分、腰まで届いているだろう。
趣味か、何かの願掛けなのか。
もしかしたら、けっこう変わった人だったのかもしれない。

もしかしたら今はただ、記憶が混乱しているだけなのかもしれない。
もう一度眠って目が覚めたら、きっともっと思い出しているだろう。
安心したのか疲れたのか、一度あくびをした後、暖かい日差しの中、僕はうっかり眠ってしまったようだった。
  

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