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約束とはじまりの記憶
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ただでさえ大きな目を最大限広げて、僕を見る。
しまった、と僕は思った。
僕は彼女の歌を邪魔してしまったのだ、と。
「ごめんね、素敵な歌で……聞いたことがあったから、つい……」
気付いたら、ありったけの謝罪と賞賛を並べていた。
「そ、そうだよマリア。民人さんに悪気はなかったんだよ」
杏奈ちゃんも、必死に弁解してくれた。
しかし、彼女の口にした言葉は、僕の思っていたのとはまるで違うものだった。
「あなた……この歌をどこで聞いたの?」
僕の腕をつかみ、その大きな目で僕を睨む。
「どこ……? この歌、聞き覚えはあるけど……」
「私は、聴いたことないです。音楽は好きで、結構聴きますけど」
杏奈ちゃんが言う。
マリアは、耳にさがる大きめのイヤリングを揺らして頷いた。
「今まで各地方で歌ってきた……でも、誰一人としてこの歌を知らなかったの」
その必死な形相に、僕は怯んでしまった。
僕の腕を握る力は、徐々に強まる。
「私のことじゃなくて良い。何か知っていら教えて。この歌だけが……私の、私の過去の手掛かりなのよ!」
「過去……?」
杏奈ちゃんの声を聞いて、取り乱していたマリアは我に返ったようだった。
「……ごめんなさい民人さん、びっくりして」
僕の腕を離して、それから彼女は手のひらをじっと見つめた。
冷静さを保とうとしながらも、彼女はまだ混乱しているようだった。
「聞き覚えはあるんだ、確かに。……でも、ごめん。どこで聴いた、とか、いつ聴いたかとか迄は……思い出せない」
もしかしたら、空っぽの18年の中に残る、わずかな記憶の一部かもしれない。
「……そう、ごめんなさい」
彼女の声は、少し震えていた。
せめて、今までの4年のうちの出来事だったら。
「あの、マリア」
しんとした空気の中、恐る恐るといった風に、杏奈ちゃんが問う。
「マリアも、記憶がないの?」
「……"も"?」
マリアは思い切り、眉をひそめた。
そうだ、彼女はさっきこの歌を"自分の過去の手がかりだ"と言った。
それは、失った過去が、記憶があるということだ。
杏奈ちゃんは遠慮がちに僕を見た。
「僕はね、18より前の記憶がないんだ。だから聞き覚えがあるのも、もしかしたら……」
彼女は首を横に振った。
「ごめんなさい、言いたくないこと言わせてしまったみたいで。……ええ、私も全く記憶がない。今の名前や年齢、誕生日も、後から頂いたものだから」
彼女は、どこかうっとりした目で言った。
"頂いた"その相手を、かなり慕っているのだろう。
「構わないよ。僕、そんなに気にしてないから」
彼女は、何度かまばたきをする。
「記憶がないのを?」
「今の生活、楽しいから」
僕はもしかしたら、確実に僕の過去を知ってる人がいるから、安心してるんだろうか?
だとしたら僕は、随分と幸せな境遇にいるもんだ。
「私は……何か、覚えてなきゃいけないことも、たくさん忘れている気がして。それを、思い出さなきゃいけない気がして」
その言葉を聞いた後、僕は無意識に杏奈ちゃんの方に顔を向けていた。
彼女はどこか照れくさそうに笑う。
――確かに僕は、大事な約束を忘れていた。
今だって、自分の記憶として思い出せてはいない。
僕は細かいことが気にならない性格だし、今まで狭い社会で過ごしてきたから何とも思ってこなかったけれど、これはもしかしたら、あまりにも酷い事なのかもしれない。
記憶を取り戻したいと願う彼女が手がかりとする歌を知っていた僕には、彼女に協力する責任があるんじゃないかと思った。
――なにか、なんとかして彼女に協力できないだろうか?
そう考えてマリアにかける言葉を探しているうちに、放送が北部への到着を告げ始めた。
ロビーにいた人々は、荷物を手に持って下船の支度を整え始めていた。
――はやく、なんでもいいから、彼女に言わないと。
「……マリア、何か連絡手段は?」
僕が真っ先に導き出した答えは、後日また会って話すことだった。
しかし、彼女はばつの悪そうな顔をして答えた。
「……ないわね」
「そうか……」
それなら今から、明日に会う約束でもとりつけようか。
そう思って口を開いたところを、立ち上がった彼女に止められる。
「いいのよ、私はしばらく北部にいるつもりだから、必ずどこかで会えるわ。あなたが私を導いてくれる人なら、一層ね」
自信に満ちた目で、不思議なことを言う。
ふぬけた声で、
「君に、協力したいんだけど」
僕はそう言った。
「ありがとう、民人さん。今度会うときまでに、必ず思い出しておいてね」
杏奈ちゃんにも「またね」と言って、小さな荷物と共に、颯爽と出口へ向かって行ってしまった。
呆然とそれを見る僕の隣で、杏奈ちゃんが静かに立ち上がった。
「私たちも行きましょう、民人さん」
「……うん、そうだね」
「今度は、ちゃんとマリアの歌を聞きたいですね」
杏奈ちゃんは僕を気遣ってか、笑ってそう言ってくれた。
「うん、そうだね」
僕らが船に残った最後の客らしく、2人だけで歩くロビーには、足音と僕らの声だけが響いていた。
少し、後味が悪い帰り道になった。
◇◆◇
丁度船を出て港に降りたとき、ポケットの中の携帯が震えた。
「すごいタイミングで……さすが圭君」
そう思ったが、僕に連絡をよこしたのは、圭君ではなかった。
「……民人さん?」
液晶に映し出された名前を見て、一瞬固まる。
圭君じゃない。
それを見てか、杏奈ちゃんが心配そうに僕の名前を呼んだ。
「ううん、なんでもないよ」
思い切って通話ボタンを押す。
「もしもし」
『久しぶりねえ民人、元気かしら』
僕を呼び捨てにする女性―らしい女性は、1人しか知らない。
「恵さん、どうしたんですか」
『何よ、折角迎えに来てあげたのにその言い方はないでしょ』
「迎えっ……て、恵さん。あなたなんで北部にいるんですか!」
彼女は先日婚約して、今は相手と中央にすんでいるはずだ。
だからもう、河闇家とは関係がないはずなのに。
『そんなこと今は関係ないじゃないの。ほら、船はもう降りたの?』
高いとも低いともいえない女性の声で、勝手に話を進めていく。
「降りましたよ。恵さんどこにいるんですか? 人が少なくなるまで――」
『私はそんなの待ちたくないわよ。今から探すから、そこで精一杯背伸びして、私にわかるように手振ってなさい』
言いたいことだけ言って、乱暴に電源が切られた。
「ったく……あの人ってば」
仕方なく、携帯を持った手を高く挙げて適当に揺らす。
これくらいの目印があれば、それなりにわかるだろう。
「誰か、来てくださるんですか?」
杏奈ちゃんが背筋を伸ばす。
「そうみたいだよ。そんなに緊張しなくてもいいと思うけど」
言ってはおいたけど、これで緊張がほぐれるわけないか。
彼女はすごく真剣な顔で、辺りをキョロキョロと見回していた。
背伸びして。
それにしても、結構な人だ。
決して肩が触れるほど……というわけではないが、それなりの圧迫感があった。
雨は丁度やんでいたから、傘がないのでこれでもあまりひどくはない方だろう。
港自体も広いし、船の近くで止まっておいた方が合流しやすいから、ここにいて正解だろう。
「どんな方なんですか?」
杏奈ちゃんが、目を輝かせながら訊く。
「来てくれるのは、河闇家のお手伝いさんだよ、多分」
「多分、ですか?」
「ちょっと前までは確かにお手伝いだったけどね、よくわかんないよ」
そういえば、最近ほとんど会っていなかったし。
「女の人なんですよね」
「そうだね、東さんとか千菜様より、すこし年上くらいかなあ」
そんなふうにしばらく恵さんについて話していると、後ろから軽く肩を叩かれた。
だいたい、電話してから3分。
「お待たせ、迎えに来たわよ。とりあえず車に乗りましょう」
後ろですっきりと髪を束ねた、僕より少し背の高い――ヒールの高い靴をはいているからだろう――女性に、挨拶もする間もなく言われた。
「ああ、そうですね。とりあえず移動しましょう」
言いたいことは色々あったが、(主に、杏奈ちゃんに挨拶ひとつしなかったこと)ここで言って足を止めるのも嫌だったから、とりあえず黙って彼女についていく。
案の定、となりにいる杏奈ちゃんはどこか曇った表情をしていた。
3分で僕らをみつけられる程だから、車は結構近い位置にあった。
真っ赤な、彼女の愛車。
これを見るのも久々だった。
「荷物は民人がトランクに入れといてね」
恵さんは車の鍵を開け、扉を開けて後部座席に杏奈ちゃんを座らせた。
「わかりました、適当にいれていいですよね?」
「大丈夫よ、どうせ何も積んでないから、たしか」
彼女に言われたとおり、僕と杏奈ちゃんの分の荷物をトランクにいれた。
そして、杏奈ちゃんのいない方のドアを開けて、杏奈ちゃんの隣に座った。
それを確認して、恵さんがエンジンをかける。
「ごめんなさいね、車が心配だったから急がせちゃって。挨拶がまだだったわね、私は朝倉恵って言います」
彼女は少し後ろを向いて、杏奈ちゃんに会釈した。
「池沢杏奈です。こ、これからお世話になります!」
彼女は緊張気味に、深々とお辞儀をした。
それを見て、恵さんは笑う。
相手は王の妹なのに、この人はなんて態度だ。
「誰かさんと違って若いのに礼儀正しいのねえ。民人が迷惑かけなかった?」
誰かさんってつまり、僕のこと?
そう言おうとしたけれど、それより先に杏奈ちゃんが口を開いた。
「そんな、まさか! 民人さんは私を体を張って助けてくれました、私はたくさん迷惑をかけましたけど……」
「へえ、あんたやるときはやるのね」
フロントミラー越しに、嫌な笑みを浮かべた恵さんと目があった。
「前見てください、事故りますよ」
「人によって態度変えるのはよくないわよ」
「あなただって同じでしょうに」
こんな他愛のない話も、久しぶりだった。
それが少し嬉しい。
正直、二度とこんな風に話せないと思っていたから。
「そうだ恵さん、さっきも訊きましたけどどうして北部にいるんですか? それで、どうして僕らを迎えに?」
彼女は少し唸って、忘れてなかったのね、と呟いた。
そして、いつもよりも奇妙に明るい声で言う。
「婚約ね、解消したの」
「え?」
事情のわからないはずの杏奈ちゃんさえ、驚きの声を上げた。
「だから、北部に帰ってきた」
彼女はそのまま、話を続けた。
相手はそれなりの人だと聞いた。
彼女にとって最高の縁談だった。
それなのに。
覚悟、してたのに。
少し手が震えた。
「私にはやりたいことがあるのよ。やっぱり家庭に入るなんて先時代的な考え、無理だったわ」
彼女はあくまでも、明るく話す。
それが彼女らしくて、僕はつい笑ってしまった。
そうだよ。
これからもまた、彼女と馬鹿なことを言い合えるんじゃないか。
自分の気持ちの浮き沈みの激しさが、ものすごく情けなかった。
「それで、よかったんですか?」
恐る恐る、といった様に、杏奈ちゃんは訊いた。
恵さんは、それに頷いてこたえた。
目前の信号は赤だった。
停車している間、誰も話そうとはしなかった。
僕の気分はなんか複雑で、まだ少し混乱していて、何を言ったらいいのかわからなかった。
……しかし、発進すると共に、恵さんが話し出した。
「私ほどの美女にもなるとね、いつでも本気出せば王様くらいイチコロなんだから」
杏奈ちゃんがぎょっとして眼を見開き、彼女はフロントミラー越しにそれを見たのか大笑いした。
「冗談よ、気にしないで杏奈さん」
「恵さん……時代が時代なら討ち首ですよ、それ」
「どういう意味よ」
「そのままの意味です」
笑いながら言う恵さん。
杏奈ちゃんもくすくすと笑い始めた。
「いいの。こうして、ここにいるのが一番幸せ」
恵さんは、穏やかな声で言った。
そこには、自分に言い聞かせてるとか、そういうのはなくて。
居候の身だけど、それが僕にとってもすごく幸せだった。
そうこうしているうちに、辺りの景色は見慣れたものへと変わっていた。
帰ってきた。
北部に、久しぶりに。
「……ここはもう河闇の土地なのよ」
恵さんは得意げに話す。
かつて、僕にそうしたように。
それを聞いた杏奈ちゃんは、目を輝かせて前後左右を忙しく見回し始めた。
圭君の趣味でたくさん植えられた常緑樹は、どれも世話が行き届いている。
木だけでなく花もあったりして、特に雨上がりはなんとも上品だった。
僕は景色と、2人の女性を交互に見やる。
先程、僕の中で一つの疑問に結論が出た。
東さんに感じたあの懐かしさ。
――恵さんと似てたんだ、雰囲気が。
馬鹿にされてるのに、不快じゃない。
むしろ、何か優しさを感じる。
そんな共通点がある。
……何故か僕に対してのみ、というのも含めて。
だからきっと、上手くいけば杏奈ちゃんもすぐに馴染めるだろう。
似ている故に東さんのいない寂しさが増さなければ……意外な形で、僕のちょっとした心配は解決されるわけだ。
恵さんがこうして今ここにいるのも、何かの縁かな、と思った。
恵さんは大きな門を通るときに一度車を止めて、門のまわりを見張る守衛さんと何やら会話を交わした。
話はすぐに終わって(身分証明みたいなものだったねだろうか)、車は再び進む。
「すごい……あれが、お家なんですか?」
杏奈ちゃんは、ため息混じりに言う。
門をくぐってからその先に見えるのは、1カ所に集まっている3つほどの大きな赤茶色の建物。
家というよりは、学校や病院などの施設の、かなり高級なのを彷彿させる見た目と規模だった。
「一番手前の横長いのは、私たちみたいに家で働いてる人間が住んでる寮みたいなものよ」
5階建て、一度見ただけでは数えられないほど無数の窓。
150人は優に止まれるんじゃないだろうか、という大きさだった。「具体的には、働いてる人って?」
恵さんは唸ってから、杏奈ちゃんに答える。
「平たく言うと、執事、メイド、秘書、料理人、あ……あと庭師とかかしら。とにかく色々いるのよ。私みたいに河闇の人に懐かれちゃうと、そんな区分なくなっちゃうけど」
深く、ため息をつく。
杏奈ちゃんが「素敵……」とうっとりした様に言ったのを、僕は聞き逃さなかった。
彼女は将来、バリバリのキャリアウーマンとなるに違いない。
「その横にあるのが、お客さんが止まるところね」
屋根のついた、3階建ての建物。
僕は4年前、最初のうちはここで寝ていた。
だいたい50部屋くらいあったはずだ。
そんなに来客があるのか、と常々思う。
しまった、と僕は思った。
僕は彼女の歌を邪魔してしまったのだ、と。
「ごめんね、素敵な歌で……聞いたことがあったから、つい……」
気付いたら、ありったけの謝罪と賞賛を並べていた。
「そ、そうだよマリア。民人さんに悪気はなかったんだよ」
杏奈ちゃんも、必死に弁解してくれた。
しかし、彼女の口にした言葉は、僕の思っていたのとはまるで違うものだった。
「あなた……この歌をどこで聞いたの?」
僕の腕をつかみ、その大きな目で僕を睨む。
「どこ……? この歌、聞き覚えはあるけど……」
「私は、聴いたことないです。音楽は好きで、結構聴きますけど」
杏奈ちゃんが言う。
マリアは、耳にさがる大きめのイヤリングを揺らして頷いた。
「今まで各地方で歌ってきた……でも、誰一人としてこの歌を知らなかったの」
その必死な形相に、僕は怯んでしまった。
僕の腕を握る力は、徐々に強まる。
「私のことじゃなくて良い。何か知っていら教えて。この歌だけが……私の、私の過去の手掛かりなのよ!」
「過去……?」
杏奈ちゃんの声を聞いて、取り乱していたマリアは我に返ったようだった。
「……ごめんなさい民人さん、びっくりして」
僕の腕を離して、それから彼女は手のひらをじっと見つめた。
冷静さを保とうとしながらも、彼女はまだ混乱しているようだった。
「聞き覚えはあるんだ、確かに。……でも、ごめん。どこで聴いた、とか、いつ聴いたかとか迄は……思い出せない」
もしかしたら、空っぽの18年の中に残る、わずかな記憶の一部かもしれない。
「……そう、ごめんなさい」
彼女の声は、少し震えていた。
せめて、今までの4年のうちの出来事だったら。
「あの、マリア」
しんとした空気の中、恐る恐るといった風に、杏奈ちゃんが問う。
「マリアも、記憶がないの?」
「……"も"?」
マリアは思い切り、眉をひそめた。
そうだ、彼女はさっきこの歌を"自分の過去の手がかりだ"と言った。
それは、失った過去が、記憶があるということだ。
杏奈ちゃんは遠慮がちに僕を見た。
「僕はね、18より前の記憶がないんだ。だから聞き覚えがあるのも、もしかしたら……」
彼女は首を横に振った。
「ごめんなさい、言いたくないこと言わせてしまったみたいで。……ええ、私も全く記憶がない。今の名前や年齢、誕生日も、後から頂いたものだから」
彼女は、どこかうっとりした目で言った。
"頂いた"その相手を、かなり慕っているのだろう。
「構わないよ。僕、そんなに気にしてないから」
彼女は、何度かまばたきをする。
「記憶がないのを?」
「今の生活、楽しいから」
僕はもしかしたら、確実に僕の過去を知ってる人がいるから、安心してるんだろうか?
だとしたら僕は、随分と幸せな境遇にいるもんだ。
「私は……何か、覚えてなきゃいけないことも、たくさん忘れている気がして。それを、思い出さなきゃいけない気がして」
その言葉を聞いた後、僕は無意識に杏奈ちゃんの方に顔を向けていた。
彼女はどこか照れくさそうに笑う。
――確かに僕は、大事な約束を忘れていた。
今だって、自分の記憶として思い出せてはいない。
僕は細かいことが気にならない性格だし、今まで狭い社会で過ごしてきたから何とも思ってこなかったけれど、これはもしかしたら、あまりにも酷い事なのかもしれない。
記憶を取り戻したいと願う彼女が手がかりとする歌を知っていた僕には、彼女に協力する責任があるんじゃないかと思った。
――なにか、なんとかして彼女に協力できないだろうか?
そう考えてマリアにかける言葉を探しているうちに、放送が北部への到着を告げ始めた。
ロビーにいた人々は、荷物を手に持って下船の支度を整え始めていた。
――はやく、なんでもいいから、彼女に言わないと。
「……マリア、何か連絡手段は?」
僕が真っ先に導き出した答えは、後日また会って話すことだった。
しかし、彼女はばつの悪そうな顔をして答えた。
「……ないわね」
「そうか……」
それなら今から、明日に会う約束でもとりつけようか。
そう思って口を開いたところを、立ち上がった彼女に止められる。
「いいのよ、私はしばらく北部にいるつもりだから、必ずどこかで会えるわ。あなたが私を導いてくれる人なら、一層ね」
自信に満ちた目で、不思議なことを言う。
ふぬけた声で、
「君に、協力したいんだけど」
僕はそう言った。
「ありがとう、民人さん。今度会うときまでに、必ず思い出しておいてね」
杏奈ちゃんにも「またね」と言って、小さな荷物と共に、颯爽と出口へ向かって行ってしまった。
呆然とそれを見る僕の隣で、杏奈ちゃんが静かに立ち上がった。
「私たちも行きましょう、民人さん」
「……うん、そうだね」
「今度は、ちゃんとマリアの歌を聞きたいですね」
杏奈ちゃんは僕を気遣ってか、笑ってそう言ってくれた。
「うん、そうだね」
僕らが船に残った最後の客らしく、2人だけで歩くロビーには、足音と僕らの声だけが響いていた。
少し、後味が悪い帰り道になった。
◇◆◇
丁度船を出て港に降りたとき、ポケットの中の携帯が震えた。
「すごいタイミングで……さすが圭君」
そう思ったが、僕に連絡をよこしたのは、圭君ではなかった。
「……民人さん?」
液晶に映し出された名前を見て、一瞬固まる。
圭君じゃない。
それを見てか、杏奈ちゃんが心配そうに僕の名前を呼んだ。
「ううん、なんでもないよ」
思い切って通話ボタンを押す。
「もしもし」
『久しぶりねえ民人、元気かしら』
僕を呼び捨てにする女性―らしい女性は、1人しか知らない。
「恵さん、どうしたんですか」
『何よ、折角迎えに来てあげたのにその言い方はないでしょ』
「迎えっ……て、恵さん。あなたなんで北部にいるんですか!」
彼女は先日婚約して、今は相手と中央にすんでいるはずだ。
だからもう、河闇家とは関係がないはずなのに。
『そんなこと今は関係ないじゃないの。ほら、船はもう降りたの?』
高いとも低いともいえない女性の声で、勝手に話を進めていく。
「降りましたよ。恵さんどこにいるんですか? 人が少なくなるまで――」
『私はそんなの待ちたくないわよ。今から探すから、そこで精一杯背伸びして、私にわかるように手振ってなさい』
言いたいことだけ言って、乱暴に電源が切られた。
「ったく……あの人ってば」
仕方なく、携帯を持った手を高く挙げて適当に揺らす。
これくらいの目印があれば、それなりにわかるだろう。
「誰か、来てくださるんですか?」
杏奈ちゃんが背筋を伸ばす。
「そうみたいだよ。そんなに緊張しなくてもいいと思うけど」
言ってはおいたけど、これで緊張がほぐれるわけないか。
彼女はすごく真剣な顔で、辺りをキョロキョロと見回していた。
背伸びして。
それにしても、結構な人だ。
決して肩が触れるほど……というわけではないが、それなりの圧迫感があった。
雨は丁度やんでいたから、傘がないのでこれでもあまりひどくはない方だろう。
港自体も広いし、船の近くで止まっておいた方が合流しやすいから、ここにいて正解だろう。
「どんな方なんですか?」
杏奈ちゃんが、目を輝かせながら訊く。
「来てくれるのは、河闇家のお手伝いさんだよ、多分」
「多分、ですか?」
「ちょっと前までは確かにお手伝いだったけどね、よくわかんないよ」
そういえば、最近ほとんど会っていなかったし。
「女の人なんですよね」
「そうだね、東さんとか千菜様より、すこし年上くらいかなあ」
そんなふうにしばらく恵さんについて話していると、後ろから軽く肩を叩かれた。
だいたい、電話してから3分。
「お待たせ、迎えに来たわよ。とりあえず車に乗りましょう」
後ろですっきりと髪を束ねた、僕より少し背の高い――ヒールの高い靴をはいているからだろう――女性に、挨拶もする間もなく言われた。
「ああ、そうですね。とりあえず移動しましょう」
言いたいことは色々あったが、(主に、杏奈ちゃんに挨拶ひとつしなかったこと)ここで言って足を止めるのも嫌だったから、とりあえず黙って彼女についていく。
案の定、となりにいる杏奈ちゃんはどこか曇った表情をしていた。
3分で僕らをみつけられる程だから、車は結構近い位置にあった。
真っ赤な、彼女の愛車。
これを見るのも久々だった。
「荷物は民人がトランクに入れといてね」
恵さんは車の鍵を開け、扉を開けて後部座席に杏奈ちゃんを座らせた。
「わかりました、適当にいれていいですよね?」
「大丈夫よ、どうせ何も積んでないから、たしか」
彼女に言われたとおり、僕と杏奈ちゃんの分の荷物をトランクにいれた。
そして、杏奈ちゃんのいない方のドアを開けて、杏奈ちゃんの隣に座った。
それを確認して、恵さんがエンジンをかける。
「ごめんなさいね、車が心配だったから急がせちゃって。挨拶がまだだったわね、私は朝倉恵って言います」
彼女は少し後ろを向いて、杏奈ちゃんに会釈した。
「池沢杏奈です。こ、これからお世話になります!」
彼女は緊張気味に、深々とお辞儀をした。
それを見て、恵さんは笑う。
相手は王の妹なのに、この人はなんて態度だ。
「誰かさんと違って若いのに礼儀正しいのねえ。民人が迷惑かけなかった?」
誰かさんってつまり、僕のこと?
そう言おうとしたけれど、それより先に杏奈ちゃんが口を開いた。
「そんな、まさか! 民人さんは私を体を張って助けてくれました、私はたくさん迷惑をかけましたけど……」
「へえ、あんたやるときはやるのね」
フロントミラー越しに、嫌な笑みを浮かべた恵さんと目があった。
「前見てください、事故りますよ」
「人によって態度変えるのはよくないわよ」
「あなただって同じでしょうに」
こんな他愛のない話も、久しぶりだった。
それが少し嬉しい。
正直、二度とこんな風に話せないと思っていたから。
「そうだ恵さん、さっきも訊きましたけどどうして北部にいるんですか? それで、どうして僕らを迎えに?」
彼女は少し唸って、忘れてなかったのね、と呟いた。
そして、いつもよりも奇妙に明るい声で言う。
「婚約ね、解消したの」
「え?」
事情のわからないはずの杏奈ちゃんさえ、驚きの声を上げた。
「だから、北部に帰ってきた」
彼女はそのまま、話を続けた。
相手はそれなりの人だと聞いた。
彼女にとって最高の縁談だった。
それなのに。
覚悟、してたのに。
少し手が震えた。
「私にはやりたいことがあるのよ。やっぱり家庭に入るなんて先時代的な考え、無理だったわ」
彼女はあくまでも、明るく話す。
それが彼女らしくて、僕はつい笑ってしまった。
そうだよ。
これからもまた、彼女と馬鹿なことを言い合えるんじゃないか。
自分の気持ちの浮き沈みの激しさが、ものすごく情けなかった。
「それで、よかったんですか?」
恐る恐る、といった様に、杏奈ちゃんは訊いた。
恵さんは、それに頷いてこたえた。
目前の信号は赤だった。
停車している間、誰も話そうとはしなかった。
僕の気分はなんか複雑で、まだ少し混乱していて、何を言ったらいいのかわからなかった。
……しかし、発進すると共に、恵さんが話し出した。
「私ほどの美女にもなるとね、いつでも本気出せば王様くらいイチコロなんだから」
杏奈ちゃんがぎょっとして眼を見開き、彼女はフロントミラー越しにそれを見たのか大笑いした。
「冗談よ、気にしないで杏奈さん」
「恵さん……時代が時代なら討ち首ですよ、それ」
「どういう意味よ」
「そのままの意味です」
笑いながら言う恵さん。
杏奈ちゃんもくすくすと笑い始めた。
「いいの。こうして、ここにいるのが一番幸せ」
恵さんは、穏やかな声で言った。
そこには、自分に言い聞かせてるとか、そういうのはなくて。
居候の身だけど、それが僕にとってもすごく幸せだった。
そうこうしているうちに、辺りの景色は見慣れたものへと変わっていた。
帰ってきた。
北部に、久しぶりに。
「……ここはもう河闇の土地なのよ」
恵さんは得意げに話す。
かつて、僕にそうしたように。
それを聞いた杏奈ちゃんは、目を輝かせて前後左右を忙しく見回し始めた。
圭君の趣味でたくさん植えられた常緑樹は、どれも世話が行き届いている。
木だけでなく花もあったりして、特に雨上がりはなんとも上品だった。
僕は景色と、2人の女性を交互に見やる。
先程、僕の中で一つの疑問に結論が出た。
東さんに感じたあの懐かしさ。
――恵さんと似てたんだ、雰囲気が。
馬鹿にされてるのに、不快じゃない。
むしろ、何か優しさを感じる。
そんな共通点がある。
……何故か僕に対してのみ、というのも含めて。
だからきっと、上手くいけば杏奈ちゃんもすぐに馴染めるだろう。
似ている故に東さんのいない寂しさが増さなければ……意外な形で、僕のちょっとした心配は解決されるわけだ。
恵さんがこうして今ここにいるのも、何かの縁かな、と思った。
恵さんは大きな門を通るときに一度車を止めて、門のまわりを見張る守衛さんと何やら会話を交わした。
話はすぐに終わって(身分証明みたいなものだったねだろうか)、車は再び進む。
「すごい……あれが、お家なんですか?」
杏奈ちゃんは、ため息混じりに言う。
門をくぐってからその先に見えるのは、1カ所に集まっている3つほどの大きな赤茶色の建物。
家というよりは、学校や病院などの施設の、かなり高級なのを彷彿させる見た目と規模だった。
「一番手前の横長いのは、私たちみたいに家で働いてる人間が住んでる寮みたいなものよ」
5階建て、一度見ただけでは数えられないほど無数の窓。
150人は優に止まれるんじゃないだろうか、という大きさだった。「具体的には、働いてる人って?」
恵さんは唸ってから、杏奈ちゃんに答える。
「平たく言うと、執事、メイド、秘書、料理人、あ……あと庭師とかかしら。とにかく色々いるのよ。私みたいに河闇の人に懐かれちゃうと、そんな区分なくなっちゃうけど」
深く、ため息をつく。
杏奈ちゃんが「素敵……」とうっとりした様に言ったのを、僕は聞き逃さなかった。
彼女は将来、バリバリのキャリアウーマンとなるに違いない。
「その横にあるのが、お客さんが止まるところね」
屋根のついた、3階建ての建物。
僕は4年前、最初のうちはここで寝ていた。
だいたい50部屋くらいあったはずだ。
そんなに来客があるのか、と常々思う。
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