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流刑地から愛を込めて
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発端は、なんであったか。
王族として生まれながらも、国の腐敗を憂い、市民に寄り添う姿勢を見せたからだろうか。
周辺諸国が続々と民主化を果たすなか、変わろうとしないこの国に、僕は抑えきれない苛立ちを覚えていたからだろうか。
「ナイルよ。まことに遺憾ながら、お前には国家転覆の嫌疑がかけられている。夜な夜な反体制サロンとやらで王家を批判していたそうだな。弟とて、見過ごすわけにはいかぬ」
兄の言葉を皮切りに拘束され――時勢を顧みたのか極刑は免れたものの、ロストル島への流刑が言い渡された。
その後に並べられた罪状はどれもこれも身に覚えのないものばかりだったが、王家に対して不満が無かったわけではない。
突かれてしまえば言い繕うことも難しく、兄の派閥に加わった貴族たちも敵に回した僕に、弁明の余地など残されていなかった。
流刑――そんな処罰を受けたのは、実に久しぶりのことだったらしい。
失意のうちに送り込まれたロストル島は、罪人の末裔が細々と暮らす、世間から切り離された孤島だった。
「ナイル様……! 必ずお迎えに参ります。どうか、どうかご辛抱を……!」
幼い頃から仕えてくれた侍従のデュークは、最低限の衣類と食糧を渡すと、後ろ髪を引かれるようにして本土へと戻っていった。
彼もまた処罰を受け、王都から追放されたのだと聞いた。
迎えに来るだなんて……正気とは思えない。
兄に逆らえば、次は命を奪われるかもしれないというのに。
だから僕は、ただ一言――「二度と来るな」とだけ告げ、背を向けた。
それからの生活は、想像以上に辛いものだった。
王族という肩書きはこの島ではむしろ疎まれ、日々を懸命に生きる島民たちは、僕に冷ややかな視線を向けた。
何をするでもなく、ただ最低限の食料を得て過ごすだけの日々。
ひと月、ふた月と、虚ろな時間が過ぎていくうちに、僕は次第に己の輪郭が薄れていくのを感じていた。
いや、もしかするともう、ほとんど狂っていたのかもしれない。
孤独は人の心を蝕むから。
誰でもいい。
話し相手になって欲しい。
「ナイル」という存在が、確かにここに生きていると、誰かに認めて欲しい。
そんな思いがあったからだろう。
ある日、漁村の子どもたちが風船を空に放っているのを目にして、警戒する子から一つを譲り受けた僕は――衝動のままに、手紙を結びつけた。
飛ばした風船は、たった一つだけ。
これなら返事が来なくても当然だと諦めがつく。
いくつも飛ばしてしまっては、それだけ希望に縋ってしまうから。
風船は、きっと海の藻屑に消えるだろう。
仮に誰かの手に渡ったとしても、一笑に付されて捨てられてしまうに違いない。
それでも名乗らないのは不誠実だと思えて、馬鹿正直に素性を明かしてしまった。
届くはずのない手紙。
返ってくるはずのない返事。
与えられた掘っ立て小屋に籠もり、窓からただ、海を眺めるだけの日々。
そんな日々の中――その手紙は、ある日突然届いた。
「ナイル様。お手紙でございます」
早朝。ノックの音に驚いて扉を開けると、仏頂面の郵便局員が立っていた。
「……手紙? 僕に?」
「はい。宛先の確認をお願いします」
促されるまま差し出された封筒に目をやる。
そこには確かに、ロストル島の郵便局を宛先に、僕の名前が記されていた。
――まさか、本当に届いた?
信じがたい思いで封を切り、便箋を広げる。慎重に、恐る恐る目を通していくと――。
『まさか天から便りが届くとは思わず、神様の粋な計らいかと感謝してしまいました。
初めまして、ナイル様。私はオーウェルに住むエリーズと申します。
ロストル島とは遠い地ですね。過ごしやすい気候なのでしょうか?
漁業が盛んだと聞いておりますが、どんな魚が獲れるのかしら。
もしお暇でしたら、島の方々と一緒に漁に出てみても良いかもしれませんね。
どんな経験が何に繋がるか分からないものですから。
ご事情があるのであればこそ、ただ時間を無為に過ごすのは勿体ないと思います』
柔らかな筆跡。
まるで、子どもじみた僕の愚痴を優しく諭すような、あたたかな言葉がそこには並んでいた。
大層なことは何ひとつ書かれていない。
ごく当たり前の、一般論とも言える内容だ。
それなのに、読み進めていくうちに、自然と涙がこぼれていた。
風船をくれた子どもに礼を述べると、警戒を解いたその子が、この島にしか咲かないという野花のことを教えてくれた。
感謝の気持ちを伝えたくて、返事の手紙にその花を添える。
そして彼女の言葉に従い、思い切って漁師たちにも声をかけてみることにした。
最初こそ目を瞬かせ、「そんなやわな身体で漁ができるかね」と鼻で笑われたけれど、早朝から一緒に時間を過ごすうちに、少しずつ輪の中に入れてもらえるようになった。
『先日は可愛らしいお花をありがとうございます。
でも、押し花にしてみると、もっと素敵になるかもしれませんね』
二通目の手紙は、そんな柔らかな書き出しで始まっていた。
サロンで得意気に民主主義の素晴らしさを語るだけだった僕は、彼女の言葉で初めて「押し花」のつくり方を知った。
さっそく野花を摘み、紙で挟んで、慰め代わりに持たされていた分厚い歴史書の中にそっと閉じる。
色移りを防ぐために、間にはガーゼのハンカチも挟み込んだ。
一週間ほど放置してみると、思った以上に綺麗な仕上がりに自分で驚いてしまう。
すっかり得意になってしまい、つい島の子どもたちに披露したところ、これがなかなか好評だった。
『そういえば、アーデルマールでは絶対王政に対する不満が高まっているようですね。
民衆の間に不穏な空気が流れているとも聞いておりますが、ナイル様のお身体に何か起きぬか、案じております』
エリーズ嬢はずいぶんと見識の広い方のようで、アーデルマールの情勢についても驚くほど詳しかった。
でも――今の僕は、祖国のことよりもエリーズ嬢のことが知りたくてたまらない。
顔も知らぬ相手だというのに、これほど一人の女性に心を奪われるとは思わなかった。
返事を書く手にも、自然と熱がこもってしまうというものだ。
『僕はただ、少しでもこの国を良くしたかっただけなのです。
民を思えば心苦しいですが、この島にいる限り、僕に出来ることは何もないでしょう』
『ナイル様は民衆を想っておいでだったのですね。
そのお気持ちには深い感銘を受けましたが――まずは地盤を築かねば、大衆には受け入れられぬもの。
ロストル島から再出発されるという道も、きっとあるのではないでしょうか』
追いやられたと腐るのではなく、この地に根を張り、自らの力で立ち上がる。
それはサロンでは得られなかった知見であり、何より柔軟で現実的な発想だった。
それからも手紙のやり取りは幾度となく続いた。
ロストル島の住民とは、それなりに打ち解けられたと思う。
彼らは政争とは無縁の地で静かに暮らしていて、最初こそ僕のことを腫れ物のように扱っていたが、やがて王族だからといって特別扱いすることもなくなっていった。
それもこれも、エリーズ嬢の助言のおかげだ。
文面から伝わる思慮深さに、僕よりも少し年上だろうと想像していたが、その慧眼にはただただ頭が下がるばかりだった。
『また栞を同封してくださって、ありがとうございます。
ナイル様はとても手先が器用なのですね。
お時間があるようでしたら、いろいろと挑戦してみてはいかがでしょうか。
例えば……詩を作ってみたり、絵を描いてみたり。
私は新聞を切り抜きするのが趣味なんですよ』
アーデルマールにいた頃は、乗馬やチェスをたしなんでいた。
けれどもこの島には馬などいないし、チェス盤すら存在しない。
身ひとつでできるものと言えば、彼女の言うように詩や絵かもしれない。
さっそく取り組んでみたが――生憎と詩の才能は、まるでなかったようだ。
いや、もしかすると高尚すぎたのかもしれない。島の人々には、まったく理解してもらえなかった。
ただ、絵は一目瞭然だからだろうか。「上手いもんだ」と素直に褒めてもらえた。
王子だったから気を遣ったわけではないというのは、詩の反応で十分に理解している。
純粋な称賛だということが伝わってきた。
果たして、エリーズ嬢は僕の絵をどう見るだろう。
芸術にも多く触れていそうな彼女のことだ。鼻で笑われてしまうかもしれない。
――それでも、何か少しでもお返しがしたくて。
ロストル島のことを知ってもらいたくて。
野花が咲き誇る花畑を、小さな紙切れに描いて封筒に同封した。
絵具は、親しくなった島民が用立ててくれた。
その代わりに「俺にも描いてくれ」と頼まれたけれど、それすらも嬉しかった。
『素敵なスケッチをありがとうございます!
花の香りが届いてくるようで、ロストルで生きるあなたの姿まで目に浮かぶようでした』
――良かった。気に入ってもらえたようだ。
それから僕の日課に「絵を描くこと」が加わった。
切り株に腰かけて夢中で筆を走らせていると、島の人たちが覗き込んできて、あれこれと声をかけてくれる。
すっかり顔なじみになった彼らとのやり取りに、学びや知性こそなかったが、確かに「人間の温もり」があった。
知性を感じさせてくれるものは、彼女から届く手紙で十分だ。
――いつからだろう。彼女の手紙を心待ちにするようになったのは。
一目会いたい。直接、礼を言いたい。そう思うようになっていた。
果たして、これは「恋」なのだろうか?
……いや、きっと違う。
たまたま相手が女性だっただけで、短絡的に恋に結びつけるのは無粋というものだ。
僕は、もっと大きなものを彼女から受け取っている。
――それは、「愛」だ。
うん、そうだ。愛に違いない。
仮に彼女が男だったとしても、たとえ市井の一人であったとしても、僕が抱くこの感情に揺らぎはなかっただろう。
この島に来て、どれほどの時が過ぎただろうか。
代わり映えのない毎日ではあるけれど、不思議と満ち足りていた。
ただ――この島を取り巻く環境は、決して良いものではない。
彼らはただ祖先が罪人だったという理由だけで、古い因習に縛られ、島の外に出ることすら許されていない。
そんなの、おかしいだろう?
だって彼らは僕が王都で見てきたどの貴族よりも、よほど清廉だ。
エリーズ嬢の手紙によれば、本土では僕の罪に対して懐疑の目が向けられ始めているらしい。
喜ばしい話ではあるけれど、それでこの島を出られるかといえば話は別だった。
募るのは、漠然とした焦燥感と不満。
そして、それを癒してくれるのは、エリーズ嬢から届く手紙だけ。
……一目、会いたい。
そんな気持ちを抱えながら、島に突如として現れたデュークの話に耳を傾けていた。
「ああ、ご無事で何よりでした……! お待たせしてしまい、誠に申し訳ございません。ようやく準備が整いつつあるのです」
「準備? いったい何をするつもりなんだ?」
「革命を起こすのです。ナイル様はご存じないかもしれませんが、本国では革命の機運が高まり、民衆の間では暴動が起こるほどで――」
「貴族街が焼かれたんだろう? 僕だってそれくらいは知っているさ」
デュークが大きく目を見開くのも無理はない。この島では新聞すら届かず、外の情報はほとんど入ってこないのだから。
郵便局があるといっても、それは本土との物資のやり取りが主であり、僕のように個人宛の手紙が届くのは極めて稀だった。
……そう。
僕にとって唯一の情報源は、エリーズ嬢からの手紙だった。
そうだ。彼女の素晴らしさを、誰かに伝えたいと思っていたんだ。
そんな思いから、僕はデュークに手紙のいくつかを見せた。
きっと彼にもあの方の懐の深さと視野の広さが伝わるだろうと思ったからだ。
一枚、また一枚と便箋をめくるデューク。
やがて封筒の裏に記された宛先を目にした彼は、ふと顔を強張らせた。
そして、静かに――ただ一言、こう言った。
「ナイル様……。あなた様は、騙されています」
「なっ……! 騙されているとは、なんたる無礼だ! どういうつもりだ!」
「オーウェルのエリーズ嬢といえば――エリゼリア・ミレデイア・オーウェル八世。つまりは、オーウェル最後の女王と呼ばれる御方です。そのような人物のもとに、風船で届いた手紙が返されるなど……信じられますか?」
――その名は、近代史の授業で聞いたことがあった。
女王に即位するや否や、王政の解体を表明し、いち早く民主主義へと舵を切った人物。
まさか、あのエリーズ嬢がその女王だったというのか?
いや、そんな現実味のない話……デュークがからかっているのでは、とすら思った。
けれど――。
「……でも、それなら納得できる。情勢に詳しく民主主義にも明るかった。すごい……僕はそんな方と手紙を交わしていたなんて!」
「ですから、それが信じがたいのです! おそらく第一王子派の手の者に違いありません。文通を装い、ナイル様の動向を探っていたのでしょう」
「そんなはずがない。ちゃんと内容を読んでくれ。彼女の言葉には、僕を探るような意図など一つもなかった。……確かに、少し知識を試すような部分はあったけれど……」
デュークは難しい顔をして何度も手紙に目を通し、やがて最初に送られた便箋に目を留めると、ハッとしたような表情を見せた。
「……ナイル様。この手紙、私にお預けいただけませんか」
「駄目だ。仮にエリーズ嬢が女王だったとしても、あるいはその名を騙っていただけだとしても、僕はどちらでも構わない。彼女の言葉に救われた。それだけで十分なんだ」
「……かしこまりました。では確認のため、ひとつ。ナイル様は復権を望んでおられない。ただし、民主主義の実現には強く期待しておられる――その理解でよろしいですね?」
「なるのであれば、な。そのために僕にできることがあるなら協力は惜しまない。だが……ただ僕を王に押し上げたいだけなら、そんなことはやめてくれ。今さら王位など望んではいない」
背を向けて、僕は外出の支度を始めた。
明日からしばらく天気が崩れるという話だった。今日中に描いておきたい風景があったのだ。
「……準備が整いましたら、またお迎えに上がります。それまでどうかご自愛くださいませ」
いったい何の準備をするつもりなのだろうか。
仮に革命を起こすにしても、血が流れるようなことには加担したくない。
そもそも、何を為すにもそれなりの金が要る。
第二王子派がかき集めたところで到底足りやしないだろう、莫大な、理想を実現するための資金が――。
そう、冷めた目でデュークを見送ったのだけれども、彼はまた僕の元を訪れた。
支援を得た。民衆の支持も十分に集まっている。
今こそ立ち上がる時なのだと。
――そして、エリゼリア・ミレデイア・オーウェル八世に倣うべきなのだと。
『貴方たちの進む道に、幸あらんことを』
彼女の言葉と共に託された莫大な資金。
本国が混乱している今であれば、船を用立て、僕が島を出るのに十分な額であり、革命を成し遂げるにすら余りある金だった。
『――ただ、武力制圧では民衆はついてきません。世論を動かすには、もはや剣は要りません。声を上げなさい。対話を重ねなさい。そして余った資金はすべて、新たな国の礎とするのです』
それは、まさに僕の背を押す金言だった。
彼女の言葉に従い、覚悟を決めた僕は、しばらく連絡が取れなくなる旨の手紙を送り、デュークと共に蒸気船に乗り込んだ。
第一王子派はすでに瓦解していたのだろう。
本土の土を踏むのはあまりにもあっけなく、港に降り立った僕を民衆は歓声と共に迎え入れた。
確かに、エリーズ嬢から機運が高まっていると聞いてはいた。
でも、ここまでのものだったとは――正直、想像すらしていなかった。
各地で演説を重ねるたび、圧政に苦しむ彼らを助けたいという気持ちが芽生えていく。
やがて兄とも対面し、デュークらが用意してくれた冤罪の証拠を突きつければ、彼は苦々しい表情を浮かべたまま項垂れた。
血は流れなかった。
後に「無血革命」と呼ばれるそれは、実のところ、民衆を抑えきれなくなった兄が投げ出しただけに過ぎない。
それでも新聞の一面には、美化された僕の姿が躍り。
僕はそのまま共和国の議員となり、新しい国家の安定に尽力することになった。
……民衆は「不屈の王子」などと謳ってくれるけれど、知り合いもいない孤島で、寂しさに打ちひしがれていただなんて、誰も思いもよらないだろう。
大の大人が見知らぬ相手にすがるように「誰かと話したい」と手紙を飛ばしていたなんて、誰も想像しないだろう。
新聞を飾る"英雄"の僕と、本当の僕とは、ずいぶん違っている。
これじゃあ、まるで人々を欺いているみたいで――詐欺師。うん、詐欺師と呼ばれても、仕方ないのかもしれない。
だって今の僕を形づくったのは、エリーズ嬢に他ならない。
そして、彼女に胸を張って会うためだけに――僕は国を動かしている。
彼女も王位を退いたあと、表舞台からは姿を消したという。
それならば僕もそれに倣って、国を出たって問題はないだろう?
返しきれないほどの恩を貰ったんだ。
だからこれからの人生は、彼女の傍に寄り添い、生きるために使うべきだ。
ああ、早く彼女に会いたい。
感謝の言葉を伝えたい。
援助してもらった資金をお返し、ロストル島を案内して。
――それから、彼女も望むのであれば、これからの日々を共に過ごしていけたら。
そう思いながら、僕は港町から彼女の屋敷へと向かう馬車に揺られていた。
日差しは眩しく、空は青く澄んでいて――これから起こる全てが、明るい未来に続いているように思えて仕方がなかった。
ああ、もうすぐだ。
もうすぐ、彼女に会える。
王族として生まれながらも、国の腐敗を憂い、市民に寄り添う姿勢を見せたからだろうか。
周辺諸国が続々と民主化を果たすなか、変わろうとしないこの国に、僕は抑えきれない苛立ちを覚えていたからだろうか。
「ナイルよ。まことに遺憾ながら、お前には国家転覆の嫌疑がかけられている。夜な夜な反体制サロンとやらで王家を批判していたそうだな。弟とて、見過ごすわけにはいかぬ」
兄の言葉を皮切りに拘束され――時勢を顧みたのか極刑は免れたものの、ロストル島への流刑が言い渡された。
その後に並べられた罪状はどれもこれも身に覚えのないものばかりだったが、王家に対して不満が無かったわけではない。
突かれてしまえば言い繕うことも難しく、兄の派閥に加わった貴族たちも敵に回した僕に、弁明の余地など残されていなかった。
流刑――そんな処罰を受けたのは、実に久しぶりのことだったらしい。
失意のうちに送り込まれたロストル島は、罪人の末裔が細々と暮らす、世間から切り離された孤島だった。
「ナイル様……! 必ずお迎えに参ります。どうか、どうかご辛抱を……!」
幼い頃から仕えてくれた侍従のデュークは、最低限の衣類と食糧を渡すと、後ろ髪を引かれるようにして本土へと戻っていった。
彼もまた処罰を受け、王都から追放されたのだと聞いた。
迎えに来るだなんて……正気とは思えない。
兄に逆らえば、次は命を奪われるかもしれないというのに。
だから僕は、ただ一言――「二度と来るな」とだけ告げ、背を向けた。
それからの生活は、想像以上に辛いものだった。
王族という肩書きはこの島ではむしろ疎まれ、日々を懸命に生きる島民たちは、僕に冷ややかな視線を向けた。
何をするでもなく、ただ最低限の食料を得て過ごすだけの日々。
ひと月、ふた月と、虚ろな時間が過ぎていくうちに、僕は次第に己の輪郭が薄れていくのを感じていた。
いや、もしかするともう、ほとんど狂っていたのかもしれない。
孤独は人の心を蝕むから。
誰でもいい。
話し相手になって欲しい。
「ナイル」という存在が、確かにここに生きていると、誰かに認めて欲しい。
そんな思いがあったからだろう。
ある日、漁村の子どもたちが風船を空に放っているのを目にして、警戒する子から一つを譲り受けた僕は――衝動のままに、手紙を結びつけた。
飛ばした風船は、たった一つだけ。
これなら返事が来なくても当然だと諦めがつく。
いくつも飛ばしてしまっては、それだけ希望に縋ってしまうから。
風船は、きっと海の藻屑に消えるだろう。
仮に誰かの手に渡ったとしても、一笑に付されて捨てられてしまうに違いない。
それでも名乗らないのは不誠実だと思えて、馬鹿正直に素性を明かしてしまった。
届くはずのない手紙。
返ってくるはずのない返事。
与えられた掘っ立て小屋に籠もり、窓からただ、海を眺めるだけの日々。
そんな日々の中――その手紙は、ある日突然届いた。
「ナイル様。お手紙でございます」
早朝。ノックの音に驚いて扉を開けると、仏頂面の郵便局員が立っていた。
「……手紙? 僕に?」
「はい。宛先の確認をお願いします」
促されるまま差し出された封筒に目をやる。
そこには確かに、ロストル島の郵便局を宛先に、僕の名前が記されていた。
――まさか、本当に届いた?
信じがたい思いで封を切り、便箋を広げる。慎重に、恐る恐る目を通していくと――。
『まさか天から便りが届くとは思わず、神様の粋な計らいかと感謝してしまいました。
初めまして、ナイル様。私はオーウェルに住むエリーズと申します。
ロストル島とは遠い地ですね。過ごしやすい気候なのでしょうか?
漁業が盛んだと聞いておりますが、どんな魚が獲れるのかしら。
もしお暇でしたら、島の方々と一緒に漁に出てみても良いかもしれませんね。
どんな経験が何に繋がるか分からないものですから。
ご事情があるのであればこそ、ただ時間を無為に過ごすのは勿体ないと思います』
柔らかな筆跡。
まるで、子どもじみた僕の愚痴を優しく諭すような、あたたかな言葉がそこには並んでいた。
大層なことは何ひとつ書かれていない。
ごく当たり前の、一般論とも言える内容だ。
それなのに、読み進めていくうちに、自然と涙がこぼれていた。
風船をくれた子どもに礼を述べると、警戒を解いたその子が、この島にしか咲かないという野花のことを教えてくれた。
感謝の気持ちを伝えたくて、返事の手紙にその花を添える。
そして彼女の言葉に従い、思い切って漁師たちにも声をかけてみることにした。
最初こそ目を瞬かせ、「そんなやわな身体で漁ができるかね」と鼻で笑われたけれど、早朝から一緒に時間を過ごすうちに、少しずつ輪の中に入れてもらえるようになった。
『先日は可愛らしいお花をありがとうございます。
でも、押し花にしてみると、もっと素敵になるかもしれませんね』
二通目の手紙は、そんな柔らかな書き出しで始まっていた。
サロンで得意気に民主主義の素晴らしさを語るだけだった僕は、彼女の言葉で初めて「押し花」のつくり方を知った。
さっそく野花を摘み、紙で挟んで、慰め代わりに持たされていた分厚い歴史書の中にそっと閉じる。
色移りを防ぐために、間にはガーゼのハンカチも挟み込んだ。
一週間ほど放置してみると、思った以上に綺麗な仕上がりに自分で驚いてしまう。
すっかり得意になってしまい、つい島の子どもたちに披露したところ、これがなかなか好評だった。
『そういえば、アーデルマールでは絶対王政に対する不満が高まっているようですね。
民衆の間に不穏な空気が流れているとも聞いておりますが、ナイル様のお身体に何か起きぬか、案じております』
エリーズ嬢はずいぶんと見識の広い方のようで、アーデルマールの情勢についても驚くほど詳しかった。
でも――今の僕は、祖国のことよりもエリーズ嬢のことが知りたくてたまらない。
顔も知らぬ相手だというのに、これほど一人の女性に心を奪われるとは思わなかった。
返事を書く手にも、自然と熱がこもってしまうというものだ。
『僕はただ、少しでもこの国を良くしたかっただけなのです。
民を思えば心苦しいですが、この島にいる限り、僕に出来ることは何もないでしょう』
『ナイル様は民衆を想っておいでだったのですね。
そのお気持ちには深い感銘を受けましたが――まずは地盤を築かねば、大衆には受け入れられぬもの。
ロストル島から再出発されるという道も、きっとあるのではないでしょうか』
追いやられたと腐るのではなく、この地に根を張り、自らの力で立ち上がる。
それはサロンでは得られなかった知見であり、何より柔軟で現実的な発想だった。
それからも手紙のやり取りは幾度となく続いた。
ロストル島の住民とは、それなりに打ち解けられたと思う。
彼らは政争とは無縁の地で静かに暮らしていて、最初こそ僕のことを腫れ物のように扱っていたが、やがて王族だからといって特別扱いすることもなくなっていった。
それもこれも、エリーズ嬢の助言のおかげだ。
文面から伝わる思慮深さに、僕よりも少し年上だろうと想像していたが、その慧眼にはただただ頭が下がるばかりだった。
『また栞を同封してくださって、ありがとうございます。
ナイル様はとても手先が器用なのですね。
お時間があるようでしたら、いろいろと挑戦してみてはいかがでしょうか。
例えば……詩を作ってみたり、絵を描いてみたり。
私は新聞を切り抜きするのが趣味なんですよ』
アーデルマールにいた頃は、乗馬やチェスをたしなんでいた。
けれどもこの島には馬などいないし、チェス盤すら存在しない。
身ひとつでできるものと言えば、彼女の言うように詩や絵かもしれない。
さっそく取り組んでみたが――生憎と詩の才能は、まるでなかったようだ。
いや、もしかすると高尚すぎたのかもしれない。島の人々には、まったく理解してもらえなかった。
ただ、絵は一目瞭然だからだろうか。「上手いもんだ」と素直に褒めてもらえた。
王子だったから気を遣ったわけではないというのは、詩の反応で十分に理解している。
純粋な称賛だということが伝わってきた。
果たして、エリーズ嬢は僕の絵をどう見るだろう。
芸術にも多く触れていそうな彼女のことだ。鼻で笑われてしまうかもしれない。
――それでも、何か少しでもお返しがしたくて。
ロストル島のことを知ってもらいたくて。
野花が咲き誇る花畑を、小さな紙切れに描いて封筒に同封した。
絵具は、親しくなった島民が用立ててくれた。
その代わりに「俺にも描いてくれ」と頼まれたけれど、それすらも嬉しかった。
『素敵なスケッチをありがとうございます!
花の香りが届いてくるようで、ロストルで生きるあなたの姿まで目に浮かぶようでした』
――良かった。気に入ってもらえたようだ。
それから僕の日課に「絵を描くこと」が加わった。
切り株に腰かけて夢中で筆を走らせていると、島の人たちが覗き込んできて、あれこれと声をかけてくれる。
すっかり顔なじみになった彼らとのやり取りに、学びや知性こそなかったが、確かに「人間の温もり」があった。
知性を感じさせてくれるものは、彼女から届く手紙で十分だ。
――いつからだろう。彼女の手紙を心待ちにするようになったのは。
一目会いたい。直接、礼を言いたい。そう思うようになっていた。
果たして、これは「恋」なのだろうか?
……いや、きっと違う。
たまたま相手が女性だっただけで、短絡的に恋に結びつけるのは無粋というものだ。
僕は、もっと大きなものを彼女から受け取っている。
――それは、「愛」だ。
うん、そうだ。愛に違いない。
仮に彼女が男だったとしても、たとえ市井の一人であったとしても、僕が抱くこの感情に揺らぎはなかっただろう。
この島に来て、どれほどの時が過ぎただろうか。
代わり映えのない毎日ではあるけれど、不思議と満ち足りていた。
ただ――この島を取り巻く環境は、決して良いものではない。
彼らはただ祖先が罪人だったという理由だけで、古い因習に縛られ、島の外に出ることすら許されていない。
そんなの、おかしいだろう?
だって彼らは僕が王都で見てきたどの貴族よりも、よほど清廉だ。
エリーズ嬢の手紙によれば、本土では僕の罪に対して懐疑の目が向けられ始めているらしい。
喜ばしい話ではあるけれど、それでこの島を出られるかといえば話は別だった。
募るのは、漠然とした焦燥感と不満。
そして、それを癒してくれるのは、エリーズ嬢から届く手紙だけ。
……一目、会いたい。
そんな気持ちを抱えながら、島に突如として現れたデュークの話に耳を傾けていた。
「ああ、ご無事で何よりでした……! お待たせしてしまい、誠に申し訳ございません。ようやく準備が整いつつあるのです」
「準備? いったい何をするつもりなんだ?」
「革命を起こすのです。ナイル様はご存じないかもしれませんが、本国では革命の機運が高まり、民衆の間では暴動が起こるほどで――」
「貴族街が焼かれたんだろう? 僕だってそれくらいは知っているさ」
デュークが大きく目を見開くのも無理はない。この島では新聞すら届かず、外の情報はほとんど入ってこないのだから。
郵便局があるといっても、それは本土との物資のやり取りが主であり、僕のように個人宛の手紙が届くのは極めて稀だった。
……そう。
僕にとって唯一の情報源は、エリーズ嬢からの手紙だった。
そうだ。彼女の素晴らしさを、誰かに伝えたいと思っていたんだ。
そんな思いから、僕はデュークに手紙のいくつかを見せた。
きっと彼にもあの方の懐の深さと視野の広さが伝わるだろうと思ったからだ。
一枚、また一枚と便箋をめくるデューク。
やがて封筒の裏に記された宛先を目にした彼は、ふと顔を強張らせた。
そして、静かに――ただ一言、こう言った。
「ナイル様……。あなた様は、騙されています」
「なっ……! 騙されているとは、なんたる無礼だ! どういうつもりだ!」
「オーウェルのエリーズ嬢といえば――エリゼリア・ミレデイア・オーウェル八世。つまりは、オーウェル最後の女王と呼ばれる御方です。そのような人物のもとに、風船で届いた手紙が返されるなど……信じられますか?」
――その名は、近代史の授業で聞いたことがあった。
女王に即位するや否や、王政の解体を表明し、いち早く民主主義へと舵を切った人物。
まさか、あのエリーズ嬢がその女王だったというのか?
いや、そんな現実味のない話……デュークがからかっているのでは、とすら思った。
けれど――。
「……でも、それなら納得できる。情勢に詳しく民主主義にも明るかった。すごい……僕はそんな方と手紙を交わしていたなんて!」
「ですから、それが信じがたいのです! おそらく第一王子派の手の者に違いありません。文通を装い、ナイル様の動向を探っていたのでしょう」
「そんなはずがない。ちゃんと内容を読んでくれ。彼女の言葉には、僕を探るような意図など一つもなかった。……確かに、少し知識を試すような部分はあったけれど……」
デュークは難しい顔をして何度も手紙に目を通し、やがて最初に送られた便箋に目を留めると、ハッとしたような表情を見せた。
「……ナイル様。この手紙、私にお預けいただけませんか」
「駄目だ。仮にエリーズ嬢が女王だったとしても、あるいはその名を騙っていただけだとしても、僕はどちらでも構わない。彼女の言葉に救われた。それだけで十分なんだ」
「……かしこまりました。では確認のため、ひとつ。ナイル様は復権を望んでおられない。ただし、民主主義の実現には強く期待しておられる――その理解でよろしいですね?」
「なるのであれば、な。そのために僕にできることがあるなら協力は惜しまない。だが……ただ僕を王に押し上げたいだけなら、そんなことはやめてくれ。今さら王位など望んではいない」
背を向けて、僕は外出の支度を始めた。
明日からしばらく天気が崩れるという話だった。今日中に描いておきたい風景があったのだ。
「……準備が整いましたら、またお迎えに上がります。それまでどうかご自愛くださいませ」
いったい何の準備をするつもりなのだろうか。
仮に革命を起こすにしても、血が流れるようなことには加担したくない。
そもそも、何を為すにもそれなりの金が要る。
第二王子派がかき集めたところで到底足りやしないだろう、莫大な、理想を実現するための資金が――。
そう、冷めた目でデュークを見送ったのだけれども、彼はまた僕の元を訪れた。
支援を得た。民衆の支持も十分に集まっている。
今こそ立ち上がる時なのだと。
――そして、エリゼリア・ミレデイア・オーウェル八世に倣うべきなのだと。
『貴方たちの進む道に、幸あらんことを』
彼女の言葉と共に託された莫大な資金。
本国が混乱している今であれば、船を用立て、僕が島を出るのに十分な額であり、革命を成し遂げるにすら余りある金だった。
『――ただ、武力制圧では民衆はついてきません。世論を動かすには、もはや剣は要りません。声を上げなさい。対話を重ねなさい。そして余った資金はすべて、新たな国の礎とするのです』
それは、まさに僕の背を押す金言だった。
彼女の言葉に従い、覚悟を決めた僕は、しばらく連絡が取れなくなる旨の手紙を送り、デュークと共に蒸気船に乗り込んだ。
第一王子派はすでに瓦解していたのだろう。
本土の土を踏むのはあまりにもあっけなく、港に降り立った僕を民衆は歓声と共に迎え入れた。
確かに、エリーズ嬢から機運が高まっていると聞いてはいた。
でも、ここまでのものだったとは――正直、想像すらしていなかった。
各地で演説を重ねるたび、圧政に苦しむ彼らを助けたいという気持ちが芽生えていく。
やがて兄とも対面し、デュークらが用意してくれた冤罪の証拠を突きつければ、彼は苦々しい表情を浮かべたまま項垂れた。
血は流れなかった。
後に「無血革命」と呼ばれるそれは、実のところ、民衆を抑えきれなくなった兄が投げ出しただけに過ぎない。
それでも新聞の一面には、美化された僕の姿が躍り。
僕はそのまま共和国の議員となり、新しい国家の安定に尽力することになった。
……民衆は「不屈の王子」などと謳ってくれるけれど、知り合いもいない孤島で、寂しさに打ちひしがれていただなんて、誰も思いもよらないだろう。
大の大人が見知らぬ相手にすがるように「誰かと話したい」と手紙を飛ばしていたなんて、誰も想像しないだろう。
新聞を飾る"英雄"の僕と、本当の僕とは、ずいぶん違っている。
これじゃあ、まるで人々を欺いているみたいで――詐欺師。うん、詐欺師と呼ばれても、仕方ないのかもしれない。
だって今の僕を形づくったのは、エリーズ嬢に他ならない。
そして、彼女に胸を張って会うためだけに――僕は国を動かしている。
彼女も王位を退いたあと、表舞台からは姿を消したという。
それならば僕もそれに倣って、国を出たって問題はないだろう?
返しきれないほどの恩を貰ったんだ。
だからこれからの人生は、彼女の傍に寄り添い、生きるために使うべきだ。
ああ、早く彼女に会いたい。
感謝の言葉を伝えたい。
援助してもらった資金をお返し、ロストル島を案内して。
――それから、彼女も望むのであれば、これからの日々を共に過ごしていけたら。
そう思いながら、僕は港町から彼女の屋敷へと向かう馬車に揺られていた。
日差しは眩しく、空は青く澄んでいて――これから起こる全てが、明るい未来に続いているように思えて仕方がなかった。
ああ、もうすぐだ。
もうすぐ、彼女に会える。
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こんなにも作者冥利に尽きるお言葉を頂けるとは思わず、大変光栄に思います。自分でも気に入っているお話の一つなので、楽しんでいただけて本当に良かったです。
作品を発表してもなかなか反応を頂ける機会に恵まれないものですから、こうして応援いただけて本当に励みになりました。
また目に留まる作品があったら、ぜひお読みいただければと思います。
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ありがたいお言葉の数々、本当にありがとうございました!