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9.封じられた箱
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「――どうした、ツヴァイ。ぼうっとして」
懐かしい声が耳の奥を震わせる。
それだけで世界が反転した。
轟音。焦げた空気。石壁を揺るがす衝撃波。
煙と灰の匂いが鼻を突き、肺を焼いた。
曇天は血のように染まり、魔王城を取り囲む山々の向こうでは、火の粉が空を焦がしている。
遠くで角笛が鳴った。人間どもの進軍を知らせる合図だ。
門はすでに破られ、第一防衛線が崩れたのだろう。
断続的に響く爆裂音は、魔導砲か、それとも勇者の聖術か――。
ただ、肝心のその姿はどこにも見えない。闇の中から見えぬ刃だけが迫ってくるようだった。
私は、瓦礫の散らばる城壁に立っていた。
さっきまで、レルネン国の王城内に与えられた私室で休んでいたはずなのに。
これは――夢か、記憶か。
ぼんやりとした視界の向こうで、ひときわ強い魔力の波が空気を震わせる。
振り向けば、黄金の髪が炎を反射して揺れた。
深紅の瞳が曇天を射抜き、ひときわ高い場所で立ち尽くすその姿。
顎を上げ、威厳と美を纏ってこちらを見下ろすその人は――。
「……魔王様、でございますか?」
自分でも驚くほど掠れた声が漏れる。
あり得ない。すでに遠い昔に失われたはずの光景のはずなのに。
それでも、炎の反射に照らされたあの御方の輪郭は、疑いようもない現実味を帯びている。
「……まさか、この私を忘れたとでも言うつもりか?」
私の愚かな問いかけに、唇の端を僅かに吊り上げて呆れたように笑うのは我が主、フィオランテ=ナ=エクリプス様。
褐色の肌は戦火の赤を映してなお艶やかに輝き、燃える城砦を背景に凛として立つ。
かつて王位継承争いで片側の角を失われたが、残る一本はまるで黒曜石の刃のように輝き、そこに宿る魔力の奔流が大気を鳴らしている。
その力だけで、天を裂き、地を震わせることもできるだろう。
――圧倒的な力の持ち主。
この世界を統べるにふさわしい御方。
その傍らに、いま再び自分が立っている。
……なんと僥倖であることか。
「申し訳ございません。少しばかり、考え事をしておりました」
「お前らしくもない。……やはり疲れているのではないか?」
「いえ、とんでもございません」
即座に否定しながらも、未だ残る違和感は消せない。
ああ、そうだった。
人間どもが攻め寄せてくるという報せを受け、討って出ようとする魔王様を引き留め、籠城戦に持ち込むよう進言したのだった。
「私ひとりで十分だ」と不服そうにしていたが、最後には折れてくださった。
強情な奴だと、低く笑いながら。
「その頑固さは昔から変わらないな。そう考えると……お前との付き合いも長くなったものだ」
「そうですね。すっかり古参になってしまいました。そろそろ隠居を考える時期かもしれません」
「ハハッ、面白いことを言う。強制的に魔力を吸い取らねば働き続ける男の言うこととは思えないな」
「課題は山積みでございますから。……魔王様こそ、今になって統一を成し遂げようなどと。いったい何を企んでいるのですか?」
これまで人間とは良好な関係を築いていたはずなのに、今や天地を割る戦乱の渦中にある。
勇者率いる軍勢はすでに眼前に迫っていた。
真意を確かめようとすると、魔王様はいつもの軽い調子で口を開かれた。
「お前は、目に入る蟻を殺そうと思うか?」
「……は? 蟻、でございますか? ……意図せず踏み潰すことはあるでしょうが、わざわざ殺しはしませんね」
魔王様じゃあるまいし、と心の中でそっと付け加える。
「ならば自室の中に入り込んだ蟻はどうする? 一匹、二匹であれば目を瞑ってやるかもしれんが……毎日毎日、十や百を超えれば鬱陶しいと思わんか?」
……確かに。和平を築いていたとはいえ、無断で国境を越えて入り込む人間は後を絶たなかった。魔国にある貴重な資源を求めて危険を冒してでも侵入を試みるのだ。
放置するわけにもいかず私もあちこち奔走した。それほどまでに目に余る事態ではあった。
それが数十年も続いたとあっては――。
「目障りだからな。巣から断つのが一番だ。そうすれば、これからは煩わされることもあるまい」
「……なるほど。ですが、蟻もただ黙ってはいなかったようですね」
数だけは多いからな、と魔王様は笑う。
圧倒的な力で捻じ伏せてきたはずなのに、異世界から召喚されたという勇者なる存在のせいで、いつの間にやら魔王軍は劣勢に追いやられていた。
それでもまだ持ち堪えている。城下で戦うアイン率いる獣人部隊の働きぶりなどがいい例だ。投石器から放たれた岩を真正面から受け止め、そのまま投げ返すなど、人間には到底できぬ芸当であろう。
こちらの視線に気づいたのか、アインは顔を上げ、白い牙を見せて満面の笑みを浮かべた。大きく手を振るその仕草が、戦場の空気をほんの少しだけ和らげる。
「……ふむ、アインは随分と張り切っているようだな。後で褒美でもくれてやるか」
「それは慈悲深いことで。きっと尻尾を振って喜ぶことでしょう」
「だろうな。ふふ……楽しいなぁ、ツヴァイ。私はお前――たちと、こうしている時が一番楽しい気がするよ」
それは私もですよ。
紡いだはずの言葉は、出なかった。
空気が裂ける音がして、勇者の影が目の前に躍り出たからだ。
その剣先は、あろうことか魔王様へと伸びている。
気が付けば魔王様を突き飛ばすという暴挙に出て――胸を引き裂く痛みを覚えたのは、それから少ししてからのこと。
紫色の鮮血が舞い、ゆらりと倒れた先には茜色に染まる空だけがあった。
懐かしい声が耳の奥を震わせる。
それだけで世界が反転した。
轟音。焦げた空気。石壁を揺るがす衝撃波。
煙と灰の匂いが鼻を突き、肺を焼いた。
曇天は血のように染まり、魔王城を取り囲む山々の向こうでは、火の粉が空を焦がしている。
遠くで角笛が鳴った。人間どもの進軍を知らせる合図だ。
門はすでに破られ、第一防衛線が崩れたのだろう。
断続的に響く爆裂音は、魔導砲か、それとも勇者の聖術か――。
ただ、肝心のその姿はどこにも見えない。闇の中から見えぬ刃だけが迫ってくるようだった。
私は、瓦礫の散らばる城壁に立っていた。
さっきまで、レルネン国の王城内に与えられた私室で休んでいたはずなのに。
これは――夢か、記憶か。
ぼんやりとした視界の向こうで、ひときわ強い魔力の波が空気を震わせる。
振り向けば、黄金の髪が炎を反射して揺れた。
深紅の瞳が曇天を射抜き、ひときわ高い場所で立ち尽くすその姿。
顎を上げ、威厳と美を纏ってこちらを見下ろすその人は――。
「……魔王様、でございますか?」
自分でも驚くほど掠れた声が漏れる。
あり得ない。すでに遠い昔に失われたはずの光景のはずなのに。
それでも、炎の反射に照らされたあの御方の輪郭は、疑いようもない現実味を帯びている。
「……まさか、この私を忘れたとでも言うつもりか?」
私の愚かな問いかけに、唇の端を僅かに吊り上げて呆れたように笑うのは我が主、フィオランテ=ナ=エクリプス様。
褐色の肌は戦火の赤を映してなお艶やかに輝き、燃える城砦を背景に凛として立つ。
かつて王位継承争いで片側の角を失われたが、残る一本はまるで黒曜石の刃のように輝き、そこに宿る魔力の奔流が大気を鳴らしている。
その力だけで、天を裂き、地を震わせることもできるだろう。
――圧倒的な力の持ち主。
この世界を統べるにふさわしい御方。
その傍らに、いま再び自分が立っている。
……なんと僥倖であることか。
「申し訳ございません。少しばかり、考え事をしておりました」
「お前らしくもない。……やはり疲れているのではないか?」
「いえ、とんでもございません」
即座に否定しながらも、未だ残る違和感は消せない。
ああ、そうだった。
人間どもが攻め寄せてくるという報せを受け、討って出ようとする魔王様を引き留め、籠城戦に持ち込むよう進言したのだった。
「私ひとりで十分だ」と不服そうにしていたが、最後には折れてくださった。
強情な奴だと、低く笑いながら。
「その頑固さは昔から変わらないな。そう考えると……お前との付き合いも長くなったものだ」
「そうですね。すっかり古参になってしまいました。そろそろ隠居を考える時期かもしれません」
「ハハッ、面白いことを言う。強制的に魔力を吸い取らねば働き続ける男の言うこととは思えないな」
「課題は山積みでございますから。……魔王様こそ、今になって統一を成し遂げようなどと。いったい何を企んでいるのですか?」
これまで人間とは良好な関係を築いていたはずなのに、今や天地を割る戦乱の渦中にある。
勇者率いる軍勢はすでに眼前に迫っていた。
真意を確かめようとすると、魔王様はいつもの軽い調子で口を開かれた。
「お前は、目に入る蟻を殺そうと思うか?」
「……は? 蟻、でございますか? ……意図せず踏み潰すことはあるでしょうが、わざわざ殺しはしませんね」
魔王様じゃあるまいし、と心の中でそっと付け加える。
「ならば自室の中に入り込んだ蟻はどうする? 一匹、二匹であれば目を瞑ってやるかもしれんが……毎日毎日、十や百を超えれば鬱陶しいと思わんか?」
……確かに。和平を築いていたとはいえ、無断で国境を越えて入り込む人間は後を絶たなかった。魔国にある貴重な資源を求めて危険を冒してでも侵入を試みるのだ。
放置するわけにもいかず私もあちこち奔走した。それほどまでに目に余る事態ではあった。
それが数十年も続いたとあっては――。
「目障りだからな。巣から断つのが一番だ。そうすれば、これからは煩わされることもあるまい」
「……なるほど。ですが、蟻もただ黙ってはいなかったようですね」
数だけは多いからな、と魔王様は笑う。
圧倒的な力で捻じ伏せてきたはずなのに、異世界から召喚されたという勇者なる存在のせいで、いつの間にやら魔王軍は劣勢に追いやられていた。
それでもまだ持ち堪えている。城下で戦うアイン率いる獣人部隊の働きぶりなどがいい例だ。投石器から放たれた岩を真正面から受け止め、そのまま投げ返すなど、人間には到底できぬ芸当であろう。
こちらの視線に気づいたのか、アインは顔を上げ、白い牙を見せて満面の笑みを浮かべた。大きく手を振るその仕草が、戦場の空気をほんの少しだけ和らげる。
「……ふむ、アインは随分と張り切っているようだな。後で褒美でもくれてやるか」
「それは慈悲深いことで。きっと尻尾を振って喜ぶことでしょう」
「だろうな。ふふ……楽しいなぁ、ツヴァイ。私はお前――たちと、こうしている時が一番楽しい気がするよ」
それは私もですよ。
紡いだはずの言葉は、出なかった。
空気が裂ける音がして、勇者の影が目の前に躍り出たからだ。
その剣先は、あろうことか魔王様へと伸びている。
気が付けば魔王様を突き飛ばすという暴挙に出て――胸を引き裂く痛みを覚えたのは、それから少ししてからのこと。
紫色の鮮血が舞い、ゆらりと倒れた先には茜色に染まる空だけがあった。
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