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森の民に拾われ天使と呼ばれた私は、今日もスープを煮込みます
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朝露に濡れた森は、いつだって澄んだ匂いがする。
鳥の囀りに目を覚まし、窓の外で揺れる木々のざわめきを耳に台所へと向かう。
湯気を立てるスープと焼きたてのパンをテーブルに並べ、香りに誘われて顔を出すであろうこの家の主を待つ。
――そんな穏やかな日常を、私は享受していた。
自分がどうしてここにいるのかは分からない。
名前も、過去も、何ひとつ思い出せない。
それでもこの森の人々は素性も知れぬ私を拒まず、あたたかく迎え入れてくれた。
「おはよう。今日の調子はどうだ?」
「おはようございます、ライオネル様。おかげさまで、すっかり元気になりました」
「それは良かった。……だが、あまり無理はするな」
向かいのスツールに腰を下ろしたのは、私を拾い、同居人としてこの家に招き入れてくれた森の民の長――ライオネル様。
深い森を生き抜くにふさわしい逞しさを備え、大地のような雄大さを琥珀色の瞳に宿した方だ。
ふたりで両手を揃え、日々の恵みに感謝を捧げる。
彼は口数は多くないし表情もあまり変わらないけれど、そばにいるだけで不思議と心が落ち着いた。
「……このソースは本当に美味いな。これがあのアボリの実だなんて、誰も思わないだろう」
「お口にあって良かったです。種を裏手の畑に植えれば、来年にはまた実をつけると思います」
「それはいいことを聞いた。……リコリスが教えてくれなかったら、あのまま腐らせていたことだろうな」
リコリス。そう呼ばれるたびに、胸の奥がこそばゆくなる。名前も分からぬと言った私に「この先困るだろう」と彼が与えてくれた名だ。
そしてライオネル様が言うアボリの実とは、黒い皮に覆われた、固くて渋い果実のこと。
村の冷洞に放置されていたそれを見たとき、不思議と「こうすればいい」と使い道がひらめいた。香草と一緒に煮詰めてみると、意外にも美味しいソースができあがったのだ。
皿の上から次々と消えていく料理を見ているだけで、私の心も満たされていく。
――私は、こんな幸せを享受していい存在だったかしら。
それすらも思い出せないけれど、今の生活だけは失いたくなかった。
森の暮らしは想像していたよりもずっと豊かだった。
男たちは狩りに出かけ、女たちは木々の実りを摘み取る。丸太小屋の中からは機織りの音が響き、子どもたちがお喋りしながら木陰で草を編んでいる。
これだけでも十分に暮らしていけるのだけれど、不思議なことに、この森には不定期に天から"恵み"が落ちてきた。
ときには果実のように誰もが喜ぶものが落ち、ときにはただの生ごみや異国の硬貨のように使い道のないものが混じる。さらには包丁や剣といった物騒なものまで地面に突き立っていたことがあるそうだ。
「本当に不思議ですね。この一帯には聖なる気が巡っているように感じます」
「そうなのか? 俺には聖なる気とやらはよく分からんが……流浪の民だった先祖がここに根を下ろした時には、何もなかったと聞いている」
もともと森の中でも岩地だったその場所に、やがて天から様々なものが落ち始めた。最初は衝撃でどれも壊れてしまったが、いつしか柔らかな光が満ちるようになったという。代を重ねるごとに光は広がり、今では落ちてくるものは天からそっと置かれたかのように、傷ひとつないままそこに佇むようになったのだ――と、ライオネル様が教えてくれた。
森の民はこの場所を『聖域』と呼び、天からの落下物を『恵み』として感謝しつつも、その理由を解き明かそうとはしなかった。天がもたらすものに疑問を抱くこと自体が不敬なのだという。信心深い彼等らしい考え方だ。
もっとも、聖域に落ちてきたものの中には、使い道の分からぬ奇妙なものも多かった。
たとえばそう――私みたいに。
何日たっても、自分が何者なのかは思い出せそうにない。けれども、最初に目を覚ましたときのことだけは今なお鮮明に覚えている。
眩しい光。
ざわめく声。
柔らかな光を帯びた地面に受け止められ、衰弱しきった身体でかろうじて息をしていたあの日。
私は、いくつものガラクタと一緒に地面に横たわっていた。
『……ここは……?』
森の民とは異なる姿をした女が突如として現れたのだ。人々が驚きに目を見張る中、震える声で言葉をこぼした私に真っ先に手を差し伸べてくれたのが――ライオネル様だった。
彼は一切の躊躇を見せず自らの家に運び、しばらく起き上がれないでいた私を懸命に看病してくれた。
やがて動けるようになると、彼は私を村人に紹介し、丁重に扱うようにと言い含めてくれた。
――あの日から、私の森での暮らしが始まったのだ。
「これは……きっとこうやって使うんですね」
私は手に取った銀色の筒の底を指先で軽く叩いた。すると、中からひんやりとした風が吹き出す。今朝、子どもたちが『聖域』で拾ってきたものだ。
目を丸くして見守る村人たちに向かって、私は安心させるように笑いかける。
「見てください。水を入れれば、冷たくしてくれますよ」
試しに水を注ぐと一瞬で冷えていく。村人たちは驚きと喜びの声を上げ、その日から集会では冷たい飲み水が並ぶようになった。
とはいえ、恵みと言いながらも役に立つものばかりというわけでもない。
ライオネル様に差し出された黒い砂の詰まった小瓶を見た瞬間、頭の中で鈍い警鐘が鳴り響いた。
「これは……良くないものです。すぐに手放してください」
私が慌てて首を振ると、彼は黒い小瓶を誰にも触れさせぬまま抱え、村はずれにあるという大穴へ足早に運んでいく。
なぜ使い道が分かるのかは自分でも説明できない。ただ見た瞬間に「これはこうだ」と理解してしまうのだ。
その不思議な感覚を伝えると、「それはきっとリコリスが天使だからだ」と、ライオネル様は真顔で口にした。
「私が……天使、ですか?」
「そうだ。俺たちの間には昔から伝承がある。――はるか上空にある天界から、時折聖なるものが舞い降りるのだと」
その聖なるものと呼ばれる存在が大地に降り立つたび、その力は土に溶け、森に聖なる気を満たしていった。
ときにはか弱い赤子を伴って舞い降りることもあり、生き延びた者が流浪の民と子を成して、この森に根付くようになったのだという。
「だから森の民の血には、ほんの少しだけ天の力が流れているのだ。……と昔の歌にもある」
「歌、ですか?」
「ああ。俺も子どもの頃に教わっただけだがな。……俺はお前がその"天から舞い降りたもの"だと思えるんだ。だから、きっと天使に違いない。記憶がないのは……何かの手違いで落ちてしまったのかもしれないな」
「もしそうだとしたら……私、とても間抜けな天使じゃないですか?」
天使だなんて大層なものじゃないことくらい自分でもわかっている。気恥ずかしさから冗談めかして笑うと、ライオネル様もつられたように微笑んだ。
族長という立場からだろうか。彼は何かと私を気にかけてくれた。
食事は口に合うか。森の空気は体に合うか。――故郷は恋しくないか。
あまりにも大切にされるので恐縮してしまうけれど、何もしないで甘えてばかりはいられない。
私は村の女たちに頼んで裁縫を習い始めた。
……のは良かったのだけれど、どうにも裁縫とは相性が悪いらしい。針目はよれよれで、子どもたちにまで「天使さまの模様は面白いね」と笑われてしまう始末だった。
代わりに料理だけは自然と手が動いた。夕餉の支度をしているとライオネル様がふらりと台所にやって来て、鍋いっぱいに煮込まれたスープを覗き込んでは、呆れたように笑われた。
「またこんなに作ったのか」
「……ごめんなさい。たくさんお裾分けを頂いたものですから、つい」
「それなら皆で分ければいい。お前の作るスープは、食べると元気になると村でも評判だ」
そう言って鍋を軽々と抱え、彼は表へ運んでいく。
振る舞われた料理はあっという間に人々の胃袋に収まり、子どもたちは「天使さまのごはんだ!」と声を弾ませる。
たくさんの笑顔に囲まれていると、その平和な光景に不思議と込み上げるものがあった。喜んでもらえてよかった、という嬉しさもある。
だって、森の民はみな温厚で純朴で、実直な人ばかりだから。そんな人々に好かれたいと思うのはごく自然なことだろう。
とりわけ人一倍私を気にかけてくれる……ライオネル様にだって。
村の中を散歩していると、切り株に腰掛けて木片を削るライオネル様の姿をよく見かけた。
大きな体躯に似合わず手先は器用で、子どもたちは彼の作る笛や木彫りの人形を、宝物のように抱きしめている。
「また作っているんですね」
声をかけると、彼は少し照れたように肩をすくめ、花の形をした木彫りのペンダントを差し出してくれた。中央には聖域から拾ったという透明な石がはめ込まれている。
「これは、お前に」
「私に……ですか? でも、こんなに素敵なもの」
「リコリスは森に光をもたらしてくれた。その礼を形にしたかったんだ」
「そんな……私は何もしていません」
「いや。お前の知恵のおかげで森はいっそう豊かになった。それに……お前の笑顔は、俺たちを満たしてくれる」
その言葉と同時に、彼の口元に浮かんだ微笑に心臓が小さく跳ねる。
……私だって、あなたに笑いかけられるだけでこんなにも満ち足りた気持ちになるのに。
私は早速ペンダントを首に下げ、指先でそっと石をなぞった。胸元に触れるたび、彼の手の温もりまで伝わってくるようで落ち着かない。
「……似合いますか?」
「……ああ、とても」
眩しいものを見るように目を細め、呟くライオネル様。
貰ってばかりの私はまたひとつ、大切な宝物を頂いてしまった。
*
その日も、子どもたちが聖域からいくつかの恵みを抱えてきた。
金属の筒、砕けた色とりどりのガラス、そして――見たこともない黒くて硬い塊。
「これはなんだろう。天使さま、分かる?」
「なんだか……あったかいよ?」
子どもの腕の中で鈍く光るものを見た瞬間、全身がそれを強く拒絶した。
「それを手にしてはいけません!」
鋭い声が自分の口から飛び出す。普段はめったに声を荒げない私の叫びに、子どもたちはびくりと肩を震わせ、目を丸くして固まった。
「あっ……驚かせてしまってごめんなさい。でも、これは良くないものなんです。……きっと、火を噴きます」
口をついて出た言葉に自分自身が戸惑った。『火を噴く』とは何を意味するのか分からない。けれど、確信だけはあった。――これは、人を傷つけるものだ。
ライオネル様がそれを受け取り、村はずれの大穴に処分してくれた。それでも胸のざわめきは収まらない。
……それからというもの、聖域に落とされる恵みは妙に重く、冷たく、無機質なものばかりになっていった。
硬質な鋼で造られた小さな刃物は、雑事に使えると村人に重宝されたからまだ良い方だとして――。
黒ずんだガラス瓶に閉じ込められた液体は、底から泡を立て、蓋がされているのに鼻を突く臭いを放っている。
さらに、小指ほどの長さの筒が何十本も詰まった箱は、振るたびに不吉な音を鳴らした。
どれもこれも、森にもたらす"恵み"とは呼べないものばかり。
村人たちの中には「最近は食べられないものばかりだ」と不満をもらす者もいた。
「これを上手く使えば、狩りが楽になるんじゃないか?」
誰かがそう言ったけれど、実際に試す者はいない。気になって聖域から持ち込んでも、私が静かに首を振るとみな諦めたように大穴へ捨てに行く。そんな日々が続いていた。
「……リコリス。最近、落ちてくるものが変わってきたと思わないか?」
夕暮れ、いつものように森を巡回していたライオネル様が唸るように呟く。後ろを歩く私も頷いた。
「はい。胸がざわつくんです。……あれは恵みなんかじゃありません」
赤く沈む陽を浴びた彼の横顔には、いつもの落ち着いた表情とは違う影が差していた。
「天界で、何かが変わったのかもしれないな」
「天界……」
ライオネル様たち森の民がある信じて疑わない場所。
私もそこから舞い降りてきたのだとしたら――あの空の上で、いったい何が起きているのだろう。
「私は……何かを思い出すべきなのでしょうか」
長く続く空白に歯がゆさを覚える。こぼれた言葉に、ライオネル様は首を振った。
「無理に思い出さなくていい。悪いものを見分けてくれるだけで助かっている。それに……お前がここにいてくれる。俺はそれで十分だ」
安心させるように、彼の大きな手がそっと私の指先に触れる。その優しさと気遣いに身を委ねながらも、私は感じ取っていた。
――この静かな暮らしを脅かす何かが、もうすぐそこまで迫っているのだと。
嫌な予感というものはよく当たるものだ。
ある雨上がりの朝。聖域に、これまでにないほど重く鈍い金属音が響いた。
おっかなびっくり様子を見に行った村の青年たちが知らせてくれた先にあったのは、どす黒い硬殻に覆われた筒状の何か。
目にした瞬間、全身が総毛立つ。あれは爆ぜるもの。命を奪うためだけに造られた――兵器だ。
「ライオネル様、それに触らないでください!」
異常を感じ取った私は、黒い筒に手を伸ばそうとしたライオネル様の腕を思わず掴んでいた。
彼は眉をひそめ、重苦しい視線をその物体に落とす。
「……黒火薬の匂いがする。危険なものに違いない。いつも通り、外れの穴に――」
「だめです。その方法では作物が育たない土になってしまいます。ううん、もっと危ないことだって……」
ライオネル様が驚いたように目を見開く。私は震える手を押さえ込むように握りしめた。
「私が……これを、消します」
「消す? そんなことが出来るのか?」
「離れていてください」
考えるより先に体が動いていた。ライオネル様が何かを言いかけたが、その声は全身を撫でる風にかき消される。私は黒い筒の前に立ち、その表面へ指先をそっと添えた。
もしも落下した場所がわずかに外れていたら――この森一帯は火の海に呑まれていたかもしれない。そう思うと、血の気が引いていくのをはっきりと感じた。
――この村を、誰にも傷つけさせはしない。
ライオネル様やその祖先が守ってきたこの地を、理不尽に奪わせはしない。
「……還りなさい」
力を込めてそう告げた瞬間、空気が震えた。
風が渦を巻き、森の木々がざわめく。目には見えぬ力が広がり、空間がゆっくりとねじれていく。
目が眩むほどの光が溢れ、指先の黒を呑み込んだ。
それは炎を上げることもなく、爆ぜることもなく、まるで天へ還されるように跡形もなく消えていった。
あたりは一瞬の静寂に包まれた。
次いで、遠巻きに見守っていた森の民たちが、誰からともなく小さく息を呑む。幼い子は母の袖をぎゅっと握り、女たちは口元に手を当て、男たちは呆然と天を仰いだ。
「……聖なる力……」
「族長の言うとおりだ。やはりリコリス様は天の御使いなのだ……」
囁きが波のように広がり、やがて祈りめいた沈黙に変わっていく。そのすべての視線は、光の余韻に包まれたまま立ち尽くす私へと注がれていた。
『――………………』
誰かの声を聞いた気がしたけれど、膝が崩れ落ち、全身から力が抜けていく。必死に顔を上げようとするも、安堵と身の内を削り取られていくような虚脱が入り混じり、呼吸が浅くなる。
「……大丈夫、です。これで、もう……」
掠れた声が闇に溶け、意識が遠のいていく。
最後に感じたのは、そっと私を抱きとめる大きな腕の温もりだった。
『もはやこいつも不要だ。……処分しろ』
――白い手袋に覆われた手が、私の腕を冷たく掴む。
その感触の生々しさに、はっと目を開けたとき、私は自室のベッドに横たわっていた。
きっとライオネル様が運んでくれたのだろう。いつもの木綿の掛布に加えて毛布まで重ねられ、サイドボードには水差しが置かれている。その細やかな気遣いに、ほっと息を漏らした。
窓の外の森は静まり返り、虫の声も風の音もひそやかに遠ざかっている。
足音を忍ばせて戸口を開けると、切ったばかりの薪の香りを残した木の家が背後に佇んでいた。
瞼を閉じてもなお鮮明に甦るのは、視界いっぱいに広がる緑。
機織りの響く音。子どもたちの笑い声。
大鍋を覗き込んで微笑む、ライオネル様。
陽だまりのなかにいたような日々ぜんぶが、私の大切な思い出たち。
天と地を繋ぐ穴が、この地に繁栄をもたらしたのは間違いない。
でももはや恵みなどではなく、悪意と災いを呼び込んでいる。
このまま放置すれば、いつか森ごと滅びる。
――あの穴は閉じなければならない。
まだほんのわずかにさっきの力の余韻が体に残っている。それが消える前に、私がこの森の未来を守らなくてはいけない。
聖域に辿り着くと、地面が光の粒をまとって脈動していた。見上げれば暗雲が渦を巻き、その奥から吹き上がる気流が裾をはためかせる。
「――何をするつもりだ?」
背後から低い声が響き、肩が跳ねた。
振り返れば、息を切らしたライオネル様が立っていた。ランタンも持たず、裸足のまま、それでも迷いなく私のもとへ歩み寄ってくる。
「……気づいていたのですね」
「お前は時々、どこかへ行ってしまいそうな顔をする。……目を離せるわけがないだろう」
彼にごまかしは通じない。私は正直に言葉を吐き出した。
「もう、天から通ずる穴を塞がなくてはなりません。かつては確かに恵みもあったのでしょう。でも、今は違う。あそこからは聖なる力も祝福も感じません。あるのは……悪意だけなんです」
ライオネル様は黙したまま、ただ真っ直ぐに私を見つめていた。
「私は名前も生まれも分かりません。でも、この森で暮らし、大切な人ができました。その人たちを守れるのなら……それが、私に与えられた役目だと思えるのです」
風が木々を揺らし、空の穴が呻く。
長い沈黙の末、ライオネル様は苦悩を滲ませながら、低く言葉を絞り出した。
「……そうか。なら、俺が無理に止めるのは違うんだろうな」
言葉とは裏腹に、ライオネル様の手はわずかに震えていた。
何を想ってくれているのか、私にはその気持ちは推し量れないけれど、族長としての葛藤が痛いほど伝わってくる。
「その穴とやらを……本当にお前が塞げるのか?」
「たぶん……としか言いようがありません。ですが、このまま手をこまねいているわけにはいきません」
彼はしばし黙し、眉を寄せて重たい息を吐いた。
「……分かった。お前を信じる。ただし、危険なことはしないでくれ。お前がいなくなるくらいであれば……俺たちはこの地を捨てても構わないんだ」
「そんなこと……言わないでください。私にこの場所を守らせてください」
「いいんだ。もともと俺たちの手に余るものだった。村のみんなにも伝える。……俺たちの天使さまは、最後まで森の未来を考えてくれたと」
彼の決断に深く感謝し、私はゆっくりと聖域の中心へと歩み出した。
遥か遠くの空では微かな唸りが続いている。
その裂け目に手をかざすと指先から光があふれる。柔らかく、揺るぎない光が。
「……これまでの恵みに感謝します。でも、もうこれ以上は要りません……!」
決別の祈りを口にした瞬間、光は聖域の中心から立ち昇り、天へと伸びていった。
それに呼応するように、大地を巡る聖なる気が足元から全身に満ちていく。
『――そうだ、終わらせよう』
不意に、誰かの声が脳に直接語りかけてきた。
『天に還ろう。あの子たちが待っている』
子を残してきた母の、慈しみに満ちた声が。
『……もう戻れない。私は役立たずなのだから』
自嘲と嘆きを帯びた声が。
『この娘の身体を借りれば……まだやり直せるかもしれない』
執念を滲ませた凛とした声が。
誰の声とも知れぬ幾重もの囁きが脳を満たしていく。
それはきっと、この地に染み込んだ無数の魂――必要とされぬまま落とされ、やがて大地へ還った者たちの残滓のように思える。
『私たちは不要品なんかじゃない! 今こそ、彼らに天誅を――!』
怨嗟の思念が雪崩れ込む。
復讐の熱に呑まれそうになった瞬間、胸が強く痛み、体がふわりと浮きかける。
吸い込まれるように足元が地面から離れ、視界がぐらりと傾き――。
「リコリス!」
背後から大きな腕が回り、力強く私を地に繋ぎとめた。
耳元で吼えるような声が落ちる。
「連れていかせるものか……! お前を渡すものか!」
その必死の声が、荒れ狂う怨念の渦を切り裂いた。
――違うの。私は復讐なんて望んでいないの。
これ以上、悲しみを増やしてはいけないの。
森の民には何の罪もないのだから……どうか私に力を貸して――!
「お願い……私はこの地を守りたいだけなの……!」
胸元のペンダントから強い光が溢れ、光の柱はさらに輝きを増してゆく。
烈風が木々をしならせ、夜空が白に染まる。
やがて光は私の願いに呼応するようにしなやかに、けれど確かにその裂け目を縫い合わせていった。
ひときわ強い閃光が空に弾け――。
荒れ狂っていた風はぴたりと止み、暗雲は静かに沈黙を取り戻した。
閉ざされた天を仰ぎ見たまま、私は彼の腕に身を委ねていた。
「……終わった、のか」
耳元で低く搾り出すような声。
彼の腕の力がさらに強まった。
私は夜空から目を離さぬまま、小さく頷いた。
「これでもう、あそこからは何も落とされないはずです。……天と地は分かたれました」
「構わん。俺たちは俺たちの力で生きていける。……お前がいてくれるのなら、なおさらだ」
闇に沈む森の中で、彼の抱擁だけが確かな温もりとなって私を包んでくれる。
私の中に満ちた聖なる力。
もはや役目を終えたのか、今ではその片鱗すら感じ取れなかった。
夜が明けると、ライオネル様は村人たちを伴い、村の外れで口を開いたままの大穴の処理に取りかかった。
これまで廃棄されてきた恵みの残骸を、光の残滓を宿す聖域の土で覆い、最後に炎を入れる。
清らかな火が立ち上り、長く淀んでいた影を焼き払い、灰すらも浄化していく。
聖域の土には不思議な力がまだ息づいていたから、これで大地が穢されることはないだろう。
――聖域は、閉じられた。
天からの恵みが絶えたことに不満を口にする者もいたが、残された果実の種は変わらず芽吹き、やがて確かな実りを約束してくれている。
ライオネル様はそのひとつひとつを大切に扱い、過分な望みを抱いてはならないと、村人たちに根気強く言い聞かせていた。
その声音には、天からの恵みに頼らずとも、この森と共に生きていけるという確信が滲んでいた。
森は今日も変わらず、私たちに豊かな暮らしを与えてくれる。
森に静けさが戻ってしばらくして、村では小さな祭りが催された。
聖域が閉じられたことを『新しい始まり』として祝うように篝火が焚かれ、人々の歌声が夜空に響き渡る。
その賑わいから少し離れ、篝火のそばで二人きりになったとき、私は勇気を振り絞って切り出した。
「ライオネル様……。やっぱり私、どうしても記憶が戻らないんです」
燃える薪を見つめたまま、彼はしばらく黙っていた。ぱちぱちと枯れ枝がはぜる音だけが、張りつめた沈黙を埋めていく。
私は不安を押し隠せず、俯いたまま言葉を続けた。
「もう何の力も持たない上に……天の怒りを買いました。私がこの地に留まると、いつか厄災を招くかもしれません。だから、私は……」
「その必要はない。お前の居場所は、ここ以外にあり得ない」
私の声を遮るように火のような熱を帯びた声が返ってくる。
思わず顔を上げると、炎に照らされた琥珀の瞳が、迷いなく私を射抜いていた。
「生きている人間が落ちてきた時は驚いたが……お前をこの地に招き入れたのは、お前が天の恵みだからじゃない。俺自身がそうしたかったんだ。そして、それは間違いじゃなかった。……こんなに誰かに恋焦がれたのは、生まれて初めてのことなんだ」
あまりにも真っ直ぐで真摯な告白に、目を逸らすことが出来ないでいる。
「私が何者でも……気にしないと言ってくださるんですか?」
「気にしない。本当に天から舞い降りた天使でも、この地に堕とされた悪魔でも」
「……この安寧の地を脅かす存在かもしれないのに?」
「それでも構わない。お前と共に生き、お前と共に朽ちよう」
彼の言葉には一片の迷いもない。
篝火にきらめくそのまなざしが、私を捉えて離さない。
「力など必要ない。お前には……ずっと俺の傍にいてほしい」
答えるより先に大きな腕が私を抱き寄せた。森のように優しい香り。大地のように逞しい力。
……彼には「なにも思い出せない」と言ったけれども、本当は断片的な記憶が私を苛んでいた。
お前など目障りだ、もういらないと、奈落へ突き落とされたときの記憶だけが――。
不要なものとして落とされたはずの自分が、今はこんなにも切望されている。
それがどれほど尊いことか。
「……じゃあ、明日からもスープを作ります。きっと作りすぎてしまうと思いますけれど」
「それなら鍋ごと抱えていくさ。皆、お前の料理を楽しみにしている」
「裁縫も……もう少し頑張ってみます」
「無理はするな。お前のその……味のある刺繍も、俺は好きだ」
顔を見合わせ、どちらともなく笑みがこぼれる。
私たちの笑い声が、篝火の火の粉とともに森へと溶けていった。
天からの恵みがなくとも、この地が潰えることはないとライオネル様は言う。彼がそう断言するのだから、きっとそうなのだろう。事実、森の恵みを享受するだけでも私たちは何ら変わらぬ日々を過ごせている。
「天から与えられた恵みは、これまで森の民に平等に分け与えてきた。だがな。お前のことだけは、俺のものにしたいと思ってしまった。……族長失格だろう?」
私を抱き寄せるその人は、もっと朴念仁かと思っていたのに思った以上に情熱的な人だった。
蕩けそうな甘い言葉に耳まで熱くなり、心までぐずぐずに溶かされていく。
「どうして私のことを、そこまで想ってくれたのですか?」
「……最初は、お前が天界に住まう人間だからだと思ったんだ。俺たち森の民は、ずっと天に焦がれていたから」
そう言って一度空を仰いだライオネル様は、ゆっくりと首を振った。
「だが、それだけじゃなかった。木漏れ日の中で居眠りするお前が美しいと思ったし、針を折る不器用な姿もたまらなく愛おしいと思った。……どうしようもないんだ。抗えぬ本能とはまた別に、お前を求めてしまう。……お前こそ、俺のどこに?」
「……ぜんぶです」
言ったそばから恥ずかしさに視線を伏せてしまう。
けれど、大きな手がそっと顎を持ち上げ――まっすぐな琥珀の瞳とぶつかった。
「……それはずるいだろう」
低く囁かれ、唇が重なる。
短いけれど、脳まで痺れるほどの口づけ。鼓動が速くなりすぎて、息をするのも忘れてしまう。
――愛する人がいて。愛してくれる人がいる。
地に根を張った暮らしこそが私たちにとって何よりの恵みであり、祝福になるのだと知った。
………………………………
……………………
…………
遠い遠い空の上には、天上界と呼ばれる世界があった。
そこに住まう人々は豊かな資源と高度な文明を誇り、不要になったものはすべて『廃棄場』と呼ばれる穴へと捨て続けてきた。
豊作で余った果実も、使い古された魔道具も、失敗作の毒薬も、時代遅れとなった兵器も。
――体制に従わず、ただ平和を訴えるばかりの聖女さえも。
聖女が死ねば新しい聖女が生まれる。
それは彼らにとっては当然の理であり、長い歴史の中でも揺るぎない仕組みであった。
だからこそ、力を失った者や役立たずとされた者はすぐに廃棄されてきた。そうすれば、やがて別の聖女が現れるからだ。
だが今回は――待てど暮らせど、新たな聖女は現れなかった。
人々は気にも留めなかった。
属人化された聖なる力など、進歩した科学の前では不要の長物にすぎない。
従順な傀儡としてさえ役立たぬのであれば、この世界に聖女など、もはや必要ないのだろう――。
彼らは知らない。
落とされた聖女の魂が大地に染み渡り、森に聖なる力を宿していったことを。
彼らは知らない。
腹の中で生き延びた赤子が流浪の民に救われ、新たな一族の始まりとなったことを。
彼らは知らない。
いつものように投げ落としたひとりが、聖なる大地に抱きとめられて、深い穴の底で生き長らえていたことを。
そして、誰ひとり穴が閉ざされたことにも気づかぬまま、不要品を投げ捨て続け――。
最後には最新技術で作り上げられた兵器さえも、「一時休戦の証」として放り込んだ。
天上界は、一瞬にして閃光に呑み込まれた。
驕れる者たちがその後どうなったのかは誰も知る由もないが――。
ただ、もしも誰も苦しまずに消え去ったのだとしたら。
それは彼らが不要と切り捨ててきた、聖女たちがもたらす最後の慈悲だったのかもしれない。
森の民たちは今日も楽しげに歌を紡いでいる。
――かつて空より、一人の天使が舞い降りた。
その天使は翼を持たぬまま地に立ち、族長の庇護のもと、優しい笑顔で村に恵みをもたらすのだと。
リコリスと呼ばれた天使は、今も森の奥に暮らしている。
今日も変わらず、愛する人のために、大鍋いっぱいのスープをぐるぐると煮込みながら。
鳥の囀りに目を覚まし、窓の外で揺れる木々のざわめきを耳に台所へと向かう。
湯気を立てるスープと焼きたてのパンをテーブルに並べ、香りに誘われて顔を出すであろうこの家の主を待つ。
――そんな穏やかな日常を、私は享受していた。
自分がどうしてここにいるのかは分からない。
名前も、過去も、何ひとつ思い出せない。
それでもこの森の人々は素性も知れぬ私を拒まず、あたたかく迎え入れてくれた。
「おはよう。今日の調子はどうだ?」
「おはようございます、ライオネル様。おかげさまで、すっかり元気になりました」
「それは良かった。……だが、あまり無理はするな」
向かいのスツールに腰を下ろしたのは、私を拾い、同居人としてこの家に招き入れてくれた森の民の長――ライオネル様。
深い森を生き抜くにふさわしい逞しさを備え、大地のような雄大さを琥珀色の瞳に宿した方だ。
ふたりで両手を揃え、日々の恵みに感謝を捧げる。
彼は口数は多くないし表情もあまり変わらないけれど、そばにいるだけで不思議と心が落ち着いた。
「……このソースは本当に美味いな。これがあのアボリの実だなんて、誰も思わないだろう」
「お口にあって良かったです。種を裏手の畑に植えれば、来年にはまた実をつけると思います」
「それはいいことを聞いた。……リコリスが教えてくれなかったら、あのまま腐らせていたことだろうな」
リコリス。そう呼ばれるたびに、胸の奥がこそばゆくなる。名前も分からぬと言った私に「この先困るだろう」と彼が与えてくれた名だ。
そしてライオネル様が言うアボリの実とは、黒い皮に覆われた、固くて渋い果実のこと。
村の冷洞に放置されていたそれを見たとき、不思議と「こうすればいい」と使い道がひらめいた。香草と一緒に煮詰めてみると、意外にも美味しいソースができあがったのだ。
皿の上から次々と消えていく料理を見ているだけで、私の心も満たされていく。
――私は、こんな幸せを享受していい存在だったかしら。
それすらも思い出せないけれど、今の生活だけは失いたくなかった。
森の暮らしは想像していたよりもずっと豊かだった。
男たちは狩りに出かけ、女たちは木々の実りを摘み取る。丸太小屋の中からは機織りの音が響き、子どもたちがお喋りしながら木陰で草を編んでいる。
これだけでも十分に暮らしていけるのだけれど、不思議なことに、この森には不定期に天から"恵み"が落ちてきた。
ときには果実のように誰もが喜ぶものが落ち、ときにはただの生ごみや異国の硬貨のように使い道のないものが混じる。さらには包丁や剣といった物騒なものまで地面に突き立っていたことがあるそうだ。
「本当に不思議ですね。この一帯には聖なる気が巡っているように感じます」
「そうなのか? 俺には聖なる気とやらはよく分からんが……流浪の民だった先祖がここに根を下ろした時には、何もなかったと聞いている」
もともと森の中でも岩地だったその場所に、やがて天から様々なものが落ち始めた。最初は衝撃でどれも壊れてしまったが、いつしか柔らかな光が満ちるようになったという。代を重ねるごとに光は広がり、今では落ちてくるものは天からそっと置かれたかのように、傷ひとつないままそこに佇むようになったのだ――と、ライオネル様が教えてくれた。
森の民はこの場所を『聖域』と呼び、天からの落下物を『恵み』として感謝しつつも、その理由を解き明かそうとはしなかった。天がもたらすものに疑問を抱くこと自体が不敬なのだという。信心深い彼等らしい考え方だ。
もっとも、聖域に落ちてきたものの中には、使い道の分からぬ奇妙なものも多かった。
たとえばそう――私みたいに。
何日たっても、自分が何者なのかは思い出せそうにない。けれども、最初に目を覚ましたときのことだけは今なお鮮明に覚えている。
眩しい光。
ざわめく声。
柔らかな光を帯びた地面に受け止められ、衰弱しきった身体でかろうじて息をしていたあの日。
私は、いくつものガラクタと一緒に地面に横たわっていた。
『……ここは……?』
森の民とは異なる姿をした女が突如として現れたのだ。人々が驚きに目を見張る中、震える声で言葉をこぼした私に真っ先に手を差し伸べてくれたのが――ライオネル様だった。
彼は一切の躊躇を見せず自らの家に運び、しばらく起き上がれないでいた私を懸命に看病してくれた。
やがて動けるようになると、彼は私を村人に紹介し、丁重に扱うようにと言い含めてくれた。
――あの日から、私の森での暮らしが始まったのだ。
「これは……きっとこうやって使うんですね」
私は手に取った銀色の筒の底を指先で軽く叩いた。すると、中からひんやりとした風が吹き出す。今朝、子どもたちが『聖域』で拾ってきたものだ。
目を丸くして見守る村人たちに向かって、私は安心させるように笑いかける。
「見てください。水を入れれば、冷たくしてくれますよ」
試しに水を注ぐと一瞬で冷えていく。村人たちは驚きと喜びの声を上げ、その日から集会では冷たい飲み水が並ぶようになった。
とはいえ、恵みと言いながらも役に立つものばかりというわけでもない。
ライオネル様に差し出された黒い砂の詰まった小瓶を見た瞬間、頭の中で鈍い警鐘が鳴り響いた。
「これは……良くないものです。すぐに手放してください」
私が慌てて首を振ると、彼は黒い小瓶を誰にも触れさせぬまま抱え、村はずれにあるという大穴へ足早に運んでいく。
なぜ使い道が分かるのかは自分でも説明できない。ただ見た瞬間に「これはこうだ」と理解してしまうのだ。
その不思議な感覚を伝えると、「それはきっとリコリスが天使だからだ」と、ライオネル様は真顔で口にした。
「私が……天使、ですか?」
「そうだ。俺たちの間には昔から伝承がある。――はるか上空にある天界から、時折聖なるものが舞い降りるのだと」
その聖なるものと呼ばれる存在が大地に降り立つたび、その力は土に溶け、森に聖なる気を満たしていった。
ときにはか弱い赤子を伴って舞い降りることもあり、生き延びた者が流浪の民と子を成して、この森に根付くようになったのだという。
「だから森の民の血には、ほんの少しだけ天の力が流れているのだ。……と昔の歌にもある」
「歌、ですか?」
「ああ。俺も子どもの頃に教わっただけだがな。……俺はお前がその"天から舞い降りたもの"だと思えるんだ。だから、きっと天使に違いない。記憶がないのは……何かの手違いで落ちてしまったのかもしれないな」
「もしそうだとしたら……私、とても間抜けな天使じゃないですか?」
天使だなんて大層なものじゃないことくらい自分でもわかっている。気恥ずかしさから冗談めかして笑うと、ライオネル様もつられたように微笑んだ。
族長という立場からだろうか。彼は何かと私を気にかけてくれた。
食事は口に合うか。森の空気は体に合うか。――故郷は恋しくないか。
あまりにも大切にされるので恐縮してしまうけれど、何もしないで甘えてばかりはいられない。
私は村の女たちに頼んで裁縫を習い始めた。
……のは良かったのだけれど、どうにも裁縫とは相性が悪いらしい。針目はよれよれで、子どもたちにまで「天使さまの模様は面白いね」と笑われてしまう始末だった。
代わりに料理だけは自然と手が動いた。夕餉の支度をしているとライオネル様がふらりと台所にやって来て、鍋いっぱいに煮込まれたスープを覗き込んでは、呆れたように笑われた。
「またこんなに作ったのか」
「……ごめんなさい。たくさんお裾分けを頂いたものですから、つい」
「それなら皆で分ければいい。お前の作るスープは、食べると元気になると村でも評判だ」
そう言って鍋を軽々と抱え、彼は表へ運んでいく。
振る舞われた料理はあっという間に人々の胃袋に収まり、子どもたちは「天使さまのごはんだ!」と声を弾ませる。
たくさんの笑顔に囲まれていると、その平和な光景に不思議と込み上げるものがあった。喜んでもらえてよかった、という嬉しさもある。
だって、森の民はみな温厚で純朴で、実直な人ばかりだから。そんな人々に好かれたいと思うのはごく自然なことだろう。
とりわけ人一倍私を気にかけてくれる……ライオネル様にだって。
村の中を散歩していると、切り株に腰掛けて木片を削るライオネル様の姿をよく見かけた。
大きな体躯に似合わず手先は器用で、子どもたちは彼の作る笛や木彫りの人形を、宝物のように抱きしめている。
「また作っているんですね」
声をかけると、彼は少し照れたように肩をすくめ、花の形をした木彫りのペンダントを差し出してくれた。中央には聖域から拾ったという透明な石がはめ込まれている。
「これは、お前に」
「私に……ですか? でも、こんなに素敵なもの」
「リコリスは森に光をもたらしてくれた。その礼を形にしたかったんだ」
「そんな……私は何もしていません」
「いや。お前の知恵のおかげで森はいっそう豊かになった。それに……お前の笑顔は、俺たちを満たしてくれる」
その言葉と同時に、彼の口元に浮かんだ微笑に心臓が小さく跳ねる。
……私だって、あなたに笑いかけられるだけでこんなにも満ち足りた気持ちになるのに。
私は早速ペンダントを首に下げ、指先でそっと石をなぞった。胸元に触れるたび、彼の手の温もりまで伝わってくるようで落ち着かない。
「……似合いますか?」
「……ああ、とても」
眩しいものを見るように目を細め、呟くライオネル様。
貰ってばかりの私はまたひとつ、大切な宝物を頂いてしまった。
*
その日も、子どもたちが聖域からいくつかの恵みを抱えてきた。
金属の筒、砕けた色とりどりのガラス、そして――見たこともない黒くて硬い塊。
「これはなんだろう。天使さま、分かる?」
「なんだか……あったかいよ?」
子どもの腕の中で鈍く光るものを見た瞬間、全身がそれを強く拒絶した。
「それを手にしてはいけません!」
鋭い声が自分の口から飛び出す。普段はめったに声を荒げない私の叫びに、子どもたちはびくりと肩を震わせ、目を丸くして固まった。
「あっ……驚かせてしまってごめんなさい。でも、これは良くないものなんです。……きっと、火を噴きます」
口をついて出た言葉に自分自身が戸惑った。『火を噴く』とは何を意味するのか分からない。けれど、確信だけはあった。――これは、人を傷つけるものだ。
ライオネル様がそれを受け取り、村はずれの大穴に処分してくれた。それでも胸のざわめきは収まらない。
……それからというもの、聖域に落とされる恵みは妙に重く、冷たく、無機質なものばかりになっていった。
硬質な鋼で造られた小さな刃物は、雑事に使えると村人に重宝されたからまだ良い方だとして――。
黒ずんだガラス瓶に閉じ込められた液体は、底から泡を立て、蓋がされているのに鼻を突く臭いを放っている。
さらに、小指ほどの長さの筒が何十本も詰まった箱は、振るたびに不吉な音を鳴らした。
どれもこれも、森にもたらす"恵み"とは呼べないものばかり。
村人たちの中には「最近は食べられないものばかりだ」と不満をもらす者もいた。
「これを上手く使えば、狩りが楽になるんじゃないか?」
誰かがそう言ったけれど、実際に試す者はいない。気になって聖域から持ち込んでも、私が静かに首を振るとみな諦めたように大穴へ捨てに行く。そんな日々が続いていた。
「……リコリス。最近、落ちてくるものが変わってきたと思わないか?」
夕暮れ、いつものように森を巡回していたライオネル様が唸るように呟く。後ろを歩く私も頷いた。
「はい。胸がざわつくんです。……あれは恵みなんかじゃありません」
赤く沈む陽を浴びた彼の横顔には、いつもの落ち着いた表情とは違う影が差していた。
「天界で、何かが変わったのかもしれないな」
「天界……」
ライオネル様たち森の民がある信じて疑わない場所。
私もそこから舞い降りてきたのだとしたら――あの空の上で、いったい何が起きているのだろう。
「私は……何かを思い出すべきなのでしょうか」
長く続く空白に歯がゆさを覚える。こぼれた言葉に、ライオネル様は首を振った。
「無理に思い出さなくていい。悪いものを見分けてくれるだけで助かっている。それに……お前がここにいてくれる。俺はそれで十分だ」
安心させるように、彼の大きな手がそっと私の指先に触れる。その優しさと気遣いに身を委ねながらも、私は感じ取っていた。
――この静かな暮らしを脅かす何かが、もうすぐそこまで迫っているのだと。
嫌な予感というものはよく当たるものだ。
ある雨上がりの朝。聖域に、これまでにないほど重く鈍い金属音が響いた。
おっかなびっくり様子を見に行った村の青年たちが知らせてくれた先にあったのは、どす黒い硬殻に覆われた筒状の何か。
目にした瞬間、全身が総毛立つ。あれは爆ぜるもの。命を奪うためだけに造られた――兵器だ。
「ライオネル様、それに触らないでください!」
異常を感じ取った私は、黒い筒に手を伸ばそうとしたライオネル様の腕を思わず掴んでいた。
彼は眉をひそめ、重苦しい視線をその物体に落とす。
「……黒火薬の匂いがする。危険なものに違いない。いつも通り、外れの穴に――」
「だめです。その方法では作物が育たない土になってしまいます。ううん、もっと危ないことだって……」
ライオネル様が驚いたように目を見開く。私は震える手を押さえ込むように握りしめた。
「私が……これを、消します」
「消す? そんなことが出来るのか?」
「離れていてください」
考えるより先に体が動いていた。ライオネル様が何かを言いかけたが、その声は全身を撫でる風にかき消される。私は黒い筒の前に立ち、その表面へ指先をそっと添えた。
もしも落下した場所がわずかに外れていたら――この森一帯は火の海に呑まれていたかもしれない。そう思うと、血の気が引いていくのをはっきりと感じた。
――この村を、誰にも傷つけさせはしない。
ライオネル様やその祖先が守ってきたこの地を、理不尽に奪わせはしない。
「……還りなさい」
力を込めてそう告げた瞬間、空気が震えた。
風が渦を巻き、森の木々がざわめく。目には見えぬ力が広がり、空間がゆっくりとねじれていく。
目が眩むほどの光が溢れ、指先の黒を呑み込んだ。
それは炎を上げることもなく、爆ぜることもなく、まるで天へ還されるように跡形もなく消えていった。
あたりは一瞬の静寂に包まれた。
次いで、遠巻きに見守っていた森の民たちが、誰からともなく小さく息を呑む。幼い子は母の袖をぎゅっと握り、女たちは口元に手を当て、男たちは呆然と天を仰いだ。
「……聖なる力……」
「族長の言うとおりだ。やはりリコリス様は天の御使いなのだ……」
囁きが波のように広がり、やがて祈りめいた沈黙に変わっていく。そのすべての視線は、光の余韻に包まれたまま立ち尽くす私へと注がれていた。
『――………………』
誰かの声を聞いた気がしたけれど、膝が崩れ落ち、全身から力が抜けていく。必死に顔を上げようとするも、安堵と身の内を削り取られていくような虚脱が入り混じり、呼吸が浅くなる。
「……大丈夫、です。これで、もう……」
掠れた声が闇に溶け、意識が遠のいていく。
最後に感じたのは、そっと私を抱きとめる大きな腕の温もりだった。
『もはやこいつも不要だ。……処分しろ』
――白い手袋に覆われた手が、私の腕を冷たく掴む。
その感触の生々しさに、はっと目を開けたとき、私は自室のベッドに横たわっていた。
きっとライオネル様が運んでくれたのだろう。いつもの木綿の掛布に加えて毛布まで重ねられ、サイドボードには水差しが置かれている。その細やかな気遣いに、ほっと息を漏らした。
窓の外の森は静まり返り、虫の声も風の音もひそやかに遠ざかっている。
足音を忍ばせて戸口を開けると、切ったばかりの薪の香りを残した木の家が背後に佇んでいた。
瞼を閉じてもなお鮮明に甦るのは、視界いっぱいに広がる緑。
機織りの響く音。子どもたちの笑い声。
大鍋を覗き込んで微笑む、ライオネル様。
陽だまりのなかにいたような日々ぜんぶが、私の大切な思い出たち。
天と地を繋ぐ穴が、この地に繁栄をもたらしたのは間違いない。
でももはや恵みなどではなく、悪意と災いを呼び込んでいる。
このまま放置すれば、いつか森ごと滅びる。
――あの穴は閉じなければならない。
まだほんのわずかにさっきの力の余韻が体に残っている。それが消える前に、私がこの森の未来を守らなくてはいけない。
聖域に辿り着くと、地面が光の粒をまとって脈動していた。見上げれば暗雲が渦を巻き、その奥から吹き上がる気流が裾をはためかせる。
「――何をするつもりだ?」
背後から低い声が響き、肩が跳ねた。
振り返れば、息を切らしたライオネル様が立っていた。ランタンも持たず、裸足のまま、それでも迷いなく私のもとへ歩み寄ってくる。
「……気づいていたのですね」
「お前は時々、どこかへ行ってしまいそうな顔をする。……目を離せるわけがないだろう」
彼にごまかしは通じない。私は正直に言葉を吐き出した。
「もう、天から通ずる穴を塞がなくてはなりません。かつては確かに恵みもあったのでしょう。でも、今は違う。あそこからは聖なる力も祝福も感じません。あるのは……悪意だけなんです」
ライオネル様は黙したまま、ただ真っ直ぐに私を見つめていた。
「私は名前も生まれも分かりません。でも、この森で暮らし、大切な人ができました。その人たちを守れるのなら……それが、私に与えられた役目だと思えるのです」
風が木々を揺らし、空の穴が呻く。
長い沈黙の末、ライオネル様は苦悩を滲ませながら、低く言葉を絞り出した。
「……そうか。なら、俺が無理に止めるのは違うんだろうな」
言葉とは裏腹に、ライオネル様の手はわずかに震えていた。
何を想ってくれているのか、私にはその気持ちは推し量れないけれど、族長としての葛藤が痛いほど伝わってくる。
「その穴とやらを……本当にお前が塞げるのか?」
「たぶん……としか言いようがありません。ですが、このまま手をこまねいているわけにはいきません」
彼はしばし黙し、眉を寄せて重たい息を吐いた。
「……分かった。お前を信じる。ただし、危険なことはしないでくれ。お前がいなくなるくらいであれば……俺たちはこの地を捨てても構わないんだ」
「そんなこと……言わないでください。私にこの場所を守らせてください」
「いいんだ。もともと俺たちの手に余るものだった。村のみんなにも伝える。……俺たちの天使さまは、最後まで森の未来を考えてくれたと」
彼の決断に深く感謝し、私はゆっくりと聖域の中心へと歩み出した。
遥か遠くの空では微かな唸りが続いている。
その裂け目に手をかざすと指先から光があふれる。柔らかく、揺るぎない光が。
「……これまでの恵みに感謝します。でも、もうこれ以上は要りません……!」
決別の祈りを口にした瞬間、光は聖域の中心から立ち昇り、天へと伸びていった。
それに呼応するように、大地を巡る聖なる気が足元から全身に満ちていく。
『――そうだ、終わらせよう』
不意に、誰かの声が脳に直接語りかけてきた。
『天に還ろう。あの子たちが待っている』
子を残してきた母の、慈しみに満ちた声が。
『……もう戻れない。私は役立たずなのだから』
自嘲と嘆きを帯びた声が。
『この娘の身体を借りれば……まだやり直せるかもしれない』
執念を滲ませた凛とした声が。
誰の声とも知れぬ幾重もの囁きが脳を満たしていく。
それはきっと、この地に染み込んだ無数の魂――必要とされぬまま落とされ、やがて大地へ還った者たちの残滓のように思える。
『私たちは不要品なんかじゃない! 今こそ、彼らに天誅を――!』
怨嗟の思念が雪崩れ込む。
復讐の熱に呑まれそうになった瞬間、胸が強く痛み、体がふわりと浮きかける。
吸い込まれるように足元が地面から離れ、視界がぐらりと傾き――。
「リコリス!」
背後から大きな腕が回り、力強く私を地に繋ぎとめた。
耳元で吼えるような声が落ちる。
「連れていかせるものか……! お前を渡すものか!」
その必死の声が、荒れ狂う怨念の渦を切り裂いた。
――違うの。私は復讐なんて望んでいないの。
これ以上、悲しみを増やしてはいけないの。
森の民には何の罪もないのだから……どうか私に力を貸して――!
「お願い……私はこの地を守りたいだけなの……!」
胸元のペンダントから強い光が溢れ、光の柱はさらに輝きを増してゆく。
烈風が木々をしならせ、夜空が白に染まる。
やがて光は私の願いに呼応するようにしなやかに、けれど確かにその裂け目を縫い合わせていった。
ひときわ強い閃光が空に弾け――。
荒れ狂っていた風はぴたりと止み、暗雲は静かに沈黙を取り戻した。
閉ざされた天を仰ぎ見たまま、私は彼の腕に身を委ねていた。
「……終わった、のか」
耳元で低く搾り出すような声。
彼の腕の力がさらに強まった。
私は夜空から目を離さぬまま、小さく頷いた。
「これでもう、あそこからは何も落とされないはずです。……天と地は分かたれました」
「構わん。俺たちは俺たちの力で生きていける。……お前がいてくれるのなら、なおさらだ」
闇に沈む森の中で、彼の抱擁だけが確かな温もりとなって私を包んでくれる。
私の中に満ちた聖なる力。
もはや役目を終えたのか、今ではその片鱗すら感じ取れなかった。
夜が明けると、ライオネル様は村人たちを伴い、村の外れで口を開いたままの大穴の処理に取りかかった。
これまで廃棄されてきた恵みの残骸を、光の残滓を宿す聖域の土で覆い、最後に炎を入れる。
清らかな火が立ち上り、長く淀んでいた影を焼き払い、灰すらも浄化していく。
聖域の土には不思議な力がまだ息づいていたから、これで大地が穢されることはないだろう。
――聖域は、閉じられた。
天からの恵みが絶えたことに不満を口にする者もいたが、残された果実の種は変わらず芽吹き、やがて確かな実りを約束してくれている。
ライオネル様はそのひとつひとつを大切に扱い、過分な望みを抱いてはならないと、村人たちに根気強く言い聞かせていた。
その声音には、天からの恵みに頼らずとも、この森と共に生きていけるという確信が滲んでいた。
森は今日も変わらず、私たちに豊かな暮らしを与えてくれる。
森に静けさが戻ってしばらくして、村では小さな祭りが催された。
聖域が閉じられたことを『新しい始まり』として祝うように篝火が焚かれ、人々の歌声が夜空に響き渡る。
その賑わいから少し離れ、篝火のそばで二人きりになったとき、私は勇気を振り絞って切り出した。
「ライオネル様……。やっぱり私、どうしても記憶が戻らないんです」
燃える薪を見つめたまま、彼はしばらく黙っていた。ぱちぱちと枯れ枝がはぜる音だけが、張りつめた沈黙を埋めていく。
私は不安を押し隠せず、俯いたまま言葉を続けた。
「もう何の力も持たない上に……天の怒りを買いました。私がこの地に留まると、いつか厄災を招くかもしれません。だから、私は……」
「その必要はない。お前の居場所は、ここ以外にあり得ない」
私の声を遮るように火のような熱を帯びた声が返ってくる。
思わず顔を上げると、炎に照らされた琥珀の瞳が、迷いなく私を射抜いていた。
「生きている人間が落ちてきた時は驚いたが……お前をこの地に招き入れたのは、お前が天の恵みだからじゃない。俺自身がそうしたかったんだ。そして、それは間違いじゃなかった。……こんなに誰かに恋焦がれたのは、生まれて初めてのことなんだ」
あまりにも真っ直ぐで真摯な告白に、目を逸らすことが出来ないでいる。
「私が何者でも……気にしないと言ってくださるんですか?」
「気にしない。本当に天から舞い降りた天使でも、この地に堕とされた悪魔でも」
「……この安寧の地を脅かす存在かもしれないのに?」
「それでも構わない。お前と共に生き、お前と共に朽ちよう」
彼の言葉には一片の迷いもない。
篝火にきらめくそのまなざしが、私を捉えて離さない。
「力など必要ない。お前には……ずっと俺の傍にいてほしい」
答えるより先に大きな腕が私を抱き寄せた。森のように優しい香り。大地のように逞しい力。
……彼には「なにも思い出せない」と言ったけれども、本当は断片的な記憶が私を苛んでいた。
お前など目障りだ、もういらないと、奈落へ突き落とされたときの記憶だけが――。
不要なものとして落とされたはずの自分が、今はこんなにも切望されている。
それがどれほど尊いことか。
「……じゃあ、明日からもスープを作ります。きっと作りすぎてしまうと思いますけれど」
「それなら鍋ごと抱えていくさ。皆、お前の料理を楽しみにしている」
「裁縫も……もう少し頑張ってみます」
「無理はするな。お前のその……味のある刺繍も、俺は好きだ」
顔を見合わせ、どちらともなく笑みがこぼれる。
私たちの笑い声が、篝火の火の粉とともに森へと溶けていった。
天からの恵みがなくとも、この地が潰えることはないとライオネル様は言う。彼がそう断言するのだから、きっとそうなのだろう。事実、森の恵みを享受するだけでも私たちは何ら変わらぬ日々を過ごせている。
「天から与えられた恵みは、これまで森の民に平等に分け与えてきた。だがな。お前のことだけは、俺のものにしたいと思ってしまった。……族長失格だろう?」
私を抱き寄せるその人は、もっと朴念仁かと思っていたのに思った以上に情熱的な人だった。
蕩けそうな甘い言葉に耳まで熱くなり、心までぐずぐずに溶かされていく。
「どうして私のことを、そこまで想ってくれたのですか?」
「……最初は、お前が天界に住まう人間だからだと思ったんだ。俺たち森の民は、ずっと天に焦がれていたから」
そう言って一度空を仰いだライオネル様は、ゆっくりと首を振った。
「だが、それだけじゃなかった。木漏れ日の中で居眠りするお前が美しいと思ったし、針を折る不器用な姿もたまらなく愛おしいと思った。……どうしようもないんだ。抗えぬ本能とはまた別に、お前を求めてしまう。……お前こそ、俺のどこに?」
「……ぜんぶです」
言ったそばから恥ずかしさに視線を伏せてしまう。
けれど、大きな手がそっと顎を持ち上げ――まっすぐな琥珀の瞳とぶつかった。
「……それはずるいだろう」
低く囁かれ、唇が重なる。
短いけれど、脳まで痺れるほどの口づけ。鼓動が速くなりすぎて、息をするのも忘れてしまう。
――愛する人がいて。愛してくれる人がいる。
地に根を張った暮らしこそが私たちにとって何よりの恵みであり、祝福になるのだと知った。
………………………………
……………………
…………
遠い遠い空の上には、天上界と呼ばれる世界があった。
そこに住まう人々は豊かな資源と高度な文明を誇り、不要になったものはすべて『廃棄場』と呼ばれる穴へと捨て続けてきた。
豊作で余った果実も、使い古された魔道具も、失敗作の毒薬も、時代遅れとなった兵器も。
――体制に従わず、ただ平和を訴えるばかりの聖女さえも。
聖女が死ねば新しい聖女が生まれる。
それは彼らにとっては当然の理であり、長い歴史の中でも揺るぎない仕組みであった。
だからこそ、力を失った者や役立たずとされた者はすぐに廃棄されてきた。そうすれば、やがて別の聖女が現れるからだ。
だが今回は――待てど暮らせど、新たな聖女は現れなかった。
人々は気にも留めなかった。
属人化された聖なる力など、進歩した科学の前では不要の長物にすぎない。
従順な傀儡としてさえ役立たぬのであれば、この世界に聖女など、もはや必要ないのだろう――。
彼らは知らない。
落とされた聖女の魂が大地に染み渡り、森に聖なる力を宿していったことを。
彼らは知らない。
腹の中で生き延びた赤子が流浪の民に救われ、新たな一族の始まりとなったことを。
彼らは知らない。
いつものように投げ落としたひとりが、聖なる大地に抱きとめられて、深い穴の底で生き長らえていたことを。
そして、誰ひとり穴が閉ざされたことにも気づかぬまま、不要品を投げ捨て続け――。
最後には最新技術で作り上げられた兵器さえも、「一時休戦の証」として放り込んだ。
天上界は、一瞬にして閃光に呑み込まれた。
驕れる者たちがその後どうなったのかは誰も知る由もないが――。
ただ、もしも誰も苦しまずに消え去ったのだとしたら。
それは彼らが不要と切り捨ててきた、聖女たちがもたらす最後の慈悲だったのかもしれない。
森の民たちは今日も楽しげに歌を紡いでいる。
――かつて空より、一人の天使が舞い降りた。
その天使は翼を持たぬまま地に立ち、族長の庇護のもと、優しい笑顔で村に恵みをもたらすのだと。
リコリスと呼ばれた天使は、今も森の奥に暮らしている。
今日も変わらず、愛する人のために、大鍋いっぱいのスープをぐるぐると煮込みながら。
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