ムジカ狂騒曲

Mag_Mel

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白銀のエチュード

05 北部で始まる新生活

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 私の新しい人生は、北部ヴィンターハルトの地で再スタートを切ることになった。

 雪と、獣と、白狼ノースと。
 そして熊のように大きな背中を持つシグルドさんと過ごす暮らし。
 学ぶこと、教わること、知ること。
 それらはすべて、王都の机の上では決して得られなかったものばかりだった。
 北部では知識は飾りではなく、生き延びるための道具なのだ。

 シグルドさんは、遠くの雪原を指差しながら言った。

「あそこにいるのがフロストグリュスだ。この時期は吹雪の少ない東湖に集まる。群れから逸れると凍え死ぬからな」
「凄い、あんなにたくさん! 群れないと、生きられないんですね……」
「そういう種もいるってことだ。そんで、連中を狙ってるのがムジカなわけだが……ああ、いたいた、あそこだ」

 シグルドさんが指差した方向へ目を凝らす。たくさんの鳥の奥で確かにちょこんと愛らしい影が動いた。

「わあ、本当だ! 一匹……いえ、三匹います!」

 もこもこの毛皮のコートに身を包んだ私が指差すと、シグルドさんが「ほう」と低く感心したように唸った。

「目がいいじゃねぇか。遠くの動きを捉えられるのは才能だ。磨けるぞ」

 目を磨く……? どうやって?
 首を傾げていると、シグルドさんはボウガンを構え一切の躊躇なく矢を放つ。
 ミュッ、という可愛らしい悲鳴。直後、白銀の雪原に紅い飛沫がパッと散り、二匹のムジカが雪煙をあげて転がった。フロストグリュスたちが一斉に羽ばたいていく。
 
 私も小ぶりのボウガンを握りしめ、教わった通りに弦を引こうとする。けれど、練習よりもずっと重たいそれに腕がぷるぷると震え、ノースが鼻先で「無理するな」と言わんばかりにつついてきた。

 そんなやり取りをしている間に、残るムジカもシグルドさんの放った矢によって正確に射止められた。

「まずは筋肉をつけないとな。そんなんじゃ、逆に奴らの餌にされちまうぞ」
「は、はい、頑張ります!」

 シグルドさんは腰のナイフを抜き、素早い手さばきでムジカの亡骸に刃を滑らせた。
 白銀の雪の上にじわりと生々しい赤が広がっていく。毛皮が剥がれ、赤身の肉が現れ、湯気を立てる内臓が次々と取り出されていく。
 鼻腔を突くのは鉄の匂い。吐き気を堪えながら、私は決して目を逸らさずにその工程を網膜に焼き付けた。

 骨の位置、関節の向き、皮の扱い方、そして徹底した血抜きの手際。ひとつひとつが協会の中で図鑑を眺めているだけでは知ることのできなかった世界。
 これまでも「命を頂く」ことに感謝しているつもりだったけれど、私は結局、上澄みの部分しか知らなかったのだ。
 目の前の動きは、決して残酷なだけのものではない。無駄のない所作には一切の迷いがなく、むしろ神聖な儀式のようにすら見えてくる。

「……熱心に見てもらって嬉しい限りだが、あんまり無理すんじゃねぇぞ」

 気づけば、肩に力が入りすぎていたらしい。シグルドさんの声はいつも荒削りだけれど、こうして気遣ってくれる声は不思議と柔らかく耳に届く。

「いえ。大丈夫です」
「そうか。じゃ、こっちは嬢ちゃんに任せるぜ」
「う。は、はい……」

 ……容赦がないところもあるけれど。
 
 きれいに解体された二匹のムジカの横に、まだ縫いぐるみのような柔らかい姿を保ったままの一匹が転がっている。私は半泣きになりながらも、震える手でナイフを構え、慎重に刃を入れた。
 雪の上にさらに赤が広がった瞬間、ふわりと命の残滓のような温かい匂いが立ち上る。
 体温が消えていく生々しい感触。そこに確かに命があったのだという事実が、手のひらからじんと伝わってきた。

「……そうだ。それが内臓だ。後でノースに食わせてやれ」

 シグルドさんは私の未熟な動きを遮らず、ただ黙って見守ってくれていた。ノースは横で涎を垂らしながら期待に満ちた目で手元を覗き込んでいる。

 ようやく解体が終わると、シグルドさんが肉を部位ごとに手際よく切り分け、小屋へと持ち帰った。
 山小屋の重い扉をくぐったとたん、暖炉の熱が冷え切った指先と緊張をじんわりと溶かしてくれる。

「ほれ、嬢ちゃん。今日はこいつでスープだ」

 鉄鍋に放り込まれたのは、私が震える手で切ったばかりのムジカの肉だ。ぶくぶくと煮える音とともに、濃厚な脂が溶けていく匂いが山小屋の中に満ちていく。
 ノースは鍋の横にべったりと陣取って、しっぽをゆらゆら揺らしている。まるで「まだか?」と催促しているみたいだ。
 私は木のスプーンで鍋をかき混ぜながら、雪の上での光景を何度も反芻した。

 冷たい雪の上で命を奪い、解体し、温かい料理として私たちの血肉になる。
 ――すべては、途切れることのない一本の線でつながっているんだ。

「……『いただく』とは、こういうことだったんですね」
「そうだ。殺したもんは食う。食うから殺す。ムジカは繁殖力が強くてな。増えすぎると厄介だから率先して殺すが、だからって無駄にするわけじゃねぇ。こんな小せぇ毛皮だって、王都じゃ貴重品扱いだろ?」

 シグルドさんは火種を足しながら、湯気の立つ鍋を覗き込んだ。

「嬢ちゃんが今日覚えたことは、本を読んでるだけじゃ絶対に分からないことだ。……オイゲンはそれを知っていた。だから協会を作って、『獣の生態を正しく広めるべきだ』って言ってたんだがな」

 私の知らない、大好きだった祖父の話。
 その理念が王都で歪められてしまった悔しさも込み上げてきたけれど、私は鍋の表面に浮かぶ油を見つめ、ゆっくりと、力強く頷いた。

「……はい。これから私もちゃんと覚えていきます。全部。だから、教えてください!」
「いい返事だ」

 シグルドさんが、にんまりと笑った。

 鍋の中では、ムジカの肉がほろりとほどけるように煮えていく。噛みしめると、少し筋張っていたけれど、驚くほど力強い旨味が口いっぱいに広がった。

 それからも、薪の割り方を教わったり、屋根に積もった雪の落とし方を学んだり。
 シグルドさんは何度かラグノ村への移住も勧めてくれたけれど、私は迷いながらもこの山小屋を拠点にすることを選んだ。
 私が生きていると知られれば何かしらの厄介事を引き寄せてしまうかもしれないし、なによりも今の生活に何の不満も無かったからだ。

 とはいえ、それはあくまでも私の個人的な都合に過ぎない。
 広いとはいえ山小屋の一室を占領し、シグルドさんの厚意に甘え続けている現状は、もはや一時的な保護の範疇を超えてしまっているのではないかと。そんな不安が時折胸をかすめる。

「そんなこと気にする必要はねぇよ。それに、嬢ちゃんはもう北部の人間だ。俺の目の黒いうちは誰にも手出しさせねぇさ」

 シグルドさんは、まるで大したことではないと言わんばかりの調子で笑う。

「ノースも嬢ちゃんのことを気に入ってるしな。嬢ちゃんが気にしねぇなら、ずっとここにいてくれて構わねぇんだが……王都は恋しくないのか? 望むなら、帰れるように裏から手を回してやるぞ」

 その言葉は本当に有難いものだ。けれど王都に戻ったところで今の私にできることは何も残っていない。むしろメリンダ様の影に怯えて暮らし続けるくらいなら、この地で本物の獣の生態を学ぶ方がよほど価値があるようにさえ思えた。
 ……祖父の協会に未練がないと言えば、嘘になってしまうけれど。

「ま、すぐに決める必要はねぇよ。嬢ちゃんの人生だ。生きたいように生きりゃいい。……だが、どうせなら一矢報いてやりたいだろ? 協会だって、取り返せるもんなら取り返した方が良いに決まってる」

 私の不安を打ち消すように、大きな手がぐりぐりと私の頭を撫でた。
 雑ともいえる手つきなのに、私は嬉しくなって「痛いです」なんて声をあげて笑ってしまった。
 
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