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白銀のエチュード
06 ヴィンターハルトの歴史
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北部での暮らしに慣れ始めて、どれくらいの時間が経っただろう。
指先を赤く染めていた霜焼けはシグルドさんに教わった獣脂の軟膏によって治まり、代わりにボウガンやナイフを握るための硬い「たこ」が手のひらのあちこちに芽生え始めていた。
最初は重くて引き摺るようだった毛皮のコートも、今では自分の皮膚の一部のように馴染んでいる。そのずっしりとした重みこそが、過酷な冷気から命を守ってくれる頼もしい防壁のようだった。
雪の切れ間からのぞく灰色の大地を眺めながら、私は呼吸の仕方から覚え直しているような気持ちでいた。
王都で暮らしていた頃よりも視界はずっと広くて、空は底なしに高い。
けれど同時に、この地の厳しさは容赦なく肌に突き刺さる。
シグルドさんと散策していると、そんな世界の一端を不意に見せつけられることがあった。
「……あれ、なんの骨だろう?」
山小屋の裏手。雪崩の形跡が残る崖の陰に、白く乾ききった骨が無造作に散らばっていた。
「ああ、昔の狼だ。密猟者に牙と皮だけ剥がれて、あとは捨てられたんだろうよ」
「牙と皮だけ、ですか?」
「狼は皮が本命だ。重い肉なんざ持ち帰らねぇから、こうして骨だけが残るんだよ」
ノースが骨に鼻先を寄せ、くん、と短く鳴いた。その声がどこか寂しげに聞こえたのは、決して気のせいではないだろう。
「協会の働きかけで私兵が送られて、そのおかげで密猟者も減ったが……それまでは本当に好き放題だった。牙も毛皮も高値で売れたからな。この辺りにも群れがいたんだが、ほとんど絶えちまった」
「……今でも闇取引が行われていると聞いています」
「だろうな。監視の目は広げているが、どうしても掻い潜られる。白狼ももう滅多に見なくなっちまった。珍しいもんほど真っ先に狙われる。白なら尚更だ。最近じゃムジカが狙われているようだが……」
北部の森を見渡すシグルドさんの横顔は険しく、深い皺の影に悔しさが混じっていた。
「……だから、お祖父様は協会を興したんですよね」
「そうなんだろうよ。あいつは『王家が動かないなら、自分が動くしかない』って本気で嘆いてたからな。……その頃の俺は部族との戦いで忙しくしててな。大した助けになれなかったのが残念だ」
「部族、ですか? ごめんなさい、私、あまり詳しく知らなくて」
改めて問いかけると、シグルドさんは雪を踏み固め、遠い山脈の先へと視線を向ける。
「北方の部族どもは昔っからこっちの領土を狙ってきやがるんだ。王都の連中は『北部の人間は争い好きな野蛮人だ』なんて好きに言ってるらしいが……奴らの侵攻を止めてるおかげで今の平穏があるって忘れてんのかもしれねぇな」
「そんな大変なことを、ずっと……?」
「まぁな。下の世代が育ってくれたおかげで俺はそっちに駆り出されることもなくなったが、代わりにムジカが数を増やしちまってな。後顧の憂いを無くしてやるために猟師に転向したってわけだ」
この気候だけではなく、侵略からの防衛に密猟の取り締まり。この地が抱える課題はあまりに根深いものばかりだ。
「だから協会が作られたのはこちらとしても有難かったんだが……困ったもんだ」
シグルドさんはふっと短く鼻で笑い、私にちらりと視線をよこす。
「猟師団は協会から助成金を貰っていたんだが、最近になって急に途絶えちまった。まさか、その王妃様とやらに牛耳られていたせいか?」
「え……? 助成金が、途絶えた……?」
心臓がドクリと跳ねた。
北部の猟師団への支援は、お祖父様が決めた最優先事項の一つだ。当然、私が協会長を務めていた間も予算は一貫して確保していた。……いや、そのはずだったのに。
「そんなはずはありません。北部への助成金は、私が毎月承認していたはずです。書類上は滞りなく支払われていることに……」
そこまで言って、私は自分の指先が冷たくなっているのに気づいた。
事務作業を補佐していたのはデイヴだ。彼は「シーナは王妃様の対応に集中して。細かい計算は僕がやっておくから」と、笑って書類をまとめてくれていた。
――デイヴ。あなた、私の知らないところで何をしていたの……?
沸き上がる不信感を押し殺すように唇を噛む。
「……なるほど。王妃は、少し前に王家入りした女だったな。確か……ダリウス・リーの娘だったか」
「はい。宰相ダリウス様の末の娘、メリンダ様です。私と歳もそう変わらないので……いきなり王妃様だなんて、大変だと思っていました」
私は十九で、メリンダ様はその少し上。本来なら王子妃となるはずが、先王の急な崩御によって若くして国母の座に就かれた方だ。
王宮生活はさぞ窮屈だろう――そんな勝手な同情もあって、彼女が協会に関心を示してくれた時は私も率先して案内役を買って出た。王家の方が私たちの活動に目を向けてくれたことへの喜びもあったけれど、協会が彼女にとって少しでも気晴らしになればと願ったのだ。
「綺麗な世界で生きてきた連中には分からんのだろうな。その点、嬢ちゃんは偉いぜ。北部以外には足を運んでたんだろ?」
「はい。図鑑を眺めているだけじゃ分からないことは多いですから。……きっかけはともあれ、ここに来られたことも幸運だと思ってます」
「ハハッ! そりゃ結構なことだ。だが王都のお嬢さんにとっちゃ、ここでの生活は辛いんじゃないか?」
「確かに大変なことばかりですけれど……楽しいですよ? だって、面倒な御方の相手をしなくて済むんですもの」
一拍の間の後に、シグルドさんが大笑いする。ノースも混ぜろと言いたげに私とシグルドさんの間に割って入って、雪の上に腹ばいになった。
「馬鹿な連中の相手をするよりも、獣の相手をしている方がよほどマシってことか。……嬢ちゃんが来てからノースも楽しそうにしている。家族が出来たとでも思ってんのかもな」
「……もしかして、ノースの家族も?」
「そうだな、俺がとっ捕まえた最後の密猟者だった。こっちの巡回ルートを把握してやがったんだから、おかしな話だ」
「それは……協力者がいたということですか?」
「身内を疑いたくはないがな。……それか、協会に不届き者が紛れ込んでいたか」
その言葉にドキリと胸が鳴る。
協会の中に、密猟者と通じている人間がいる?
協会の人たちの顔を順番に思い返していると、ノースが突然、耳をぴんと立てた。
「……ノース?」
「どうした?」
ノースは低く唸り、何かの匂いを追うように鼻先を動かした。次の瞬間、白い尾がぴんと跳ね上がる。
「ガウッ!」
けたたましい吠え声が、静謐な雪山を切り裂いた。シグルドさんが鼻を鳴らして一瞬で顔つきを変える。
「……獣をおびき寄せる匂いが混ざってやがる。嬢ちゃん、後ろにいろ!」
言われるより早くノースが山道を駆け下りていった、その直後だ。
――ぎゃああああああっ!!
悲鳴が、雪の斜面の向こうから響いた。死に瀕した、切羽詰まった人間の叫び声が。
「誰か……襲われてる!?」
「あの辺りはムジカの縄張りだ。急ぐぞ!」
シグルドさんが走り出し、私も転ばないように必死でついていく。
雪原の向こう、木立の影。先行したノースが唸り、何かを激しく威嚇しているのが見えた。
そして、ようやく視界が開けた先――。
そこには、何匹ものムジカに押し倒され、必死に腕で顔を庇う男の姿があった。
男の腰袋には、血の付いた刃物と巻かれた縄。
そして……破れた袋から、白い獣の毛皮の端切れが覗いていた。
指先を赤く染めていた霜焼けはシグルドさんに教わった獣脂の軟膏によって治まり、代わりにボウガンやナイフを握るための硬い「たこ」が手のひらのあちこちに芽生え始めていた。
最初は重くて引き摺るようだった毛皮のコートも、今では自分の皮膚の一部のように馴染んでいる。そのずっしりとした重みこそが、過酷な冷気から命を守ってくれる頼もしい防壁のようだった。
雪の切れ間からのぞく灰色の大地を眺めながら、私は呼吸の仕方から覚え直しているような気持ちでいた。
王都で暮らしていた頃よりも視界はずっと広くて、空は底なしに高い。
けれど同時に、この地の厳しさは容赦なく肌に突き刺さる。
シグルドさんと散策していると、そんな世界の一端を不意に見せつけられることがあった。
「……あれ、なんの骨だろう?」
山小屋の裏手。雪崩の形跡が残る崖の陰に、白く乾ききった骨が無造作に散らばっていた。
「ああ、昔の狼だ。密猟者に牙と皮だけ剥がれて、あとは捨てられたんだろうよ」
「牙と皮だけ、ですか?」
「狼は皮が本命だ。重い肉なんざ持ち帰らねぇから、こうして骨だけが残るんだよ」
ノースが骨に鼻先を寄せ、くん、と短く鳴いた。その声がどこか寂しげに聞こえたのは、決して気のせいではないだろう。
「協会の働きかけで私兵が送られて、そのおかげで密猟者も減ったが……それまでは本当に好き放題だった。牙も毛皮も高値で売れたからな。この辺りにも群れがいたんだが、ほとんど絶えちまった」
「……今でも闇取引が行われていると聞いています」
「だろうな。監視の目は広げているが、どうしても掻い潜られる。白狼ももう滅多に見なくなっちまった。珍しいもんほど真っ先に狙われる。白なら尚更だ。最近じゃムジカが狙われているようだが……」
北部の森を見渡すシグルドさんの横顔は険しく、深い皺の影に悔しさが混じっていた。
「……だから、お祖父様は協会を興したんですよね」
「そうなんだろうよ。あいつは『王家が動かないなら、自分が動くしかない』って本気で嘆いてたからな。……その頃の俺は部族との戦いで忙しくしててな。大した助けになれなかったのが残念だ」
「部族、ですか? ごめんなさい、私、あまり詳しく知らなくて」
改めて問いかけると、シグルドさんは雪を踏み固め、遠い山脈の先へと視線を向ける。
「北方の部族どもは昔っからこっちの領土を狙ってきやがるんだ。王都の連中は『北部の人間は争い好きな野蛮人だ』なんて好きに言ってるらしいが……奴らの侵攻を止めてるおかげで今の平穏があるって忘れてんのかもしれねぇな」
「そんな大変なことを、ずっと……?」
「まぁな。下の世代が育ってくれたおかげで俺はそっちに駆り出されることもなくなったが、代わりにムジカが数を増やしちまってな。後顧の憂いを無くしてやるために猟師に転向したってわけだ」
この気候だけではなく、侵略からの防衛に密猟の取り締まり。この地が抱える課題はあまりに根深いものばかりだ。
「だから協会が作られたのはこちらとしても有難かったんだが……困ったもんだ」
シグルドさんはふっと短く鼻で笑い、私にちらりと視線をよこす。
「猟師団は協会から助成金を貰っていたんだが、最近になって急に途絶えちまった。まさか、その王妃様とやらに牛耳られていたせいか?」
「え……? 助成金が、途絶えた……?」
心臓がドクリと跳ねた。
北部の猟師団への支援は、お祖父様が決めた最優先事項の一つだ。当然、私が協会長を務めていた間も予算は一貫して確保していた。……いや、そのはずだったのに。
「そんなはずはありません。北部への助成金は、私が毎月承認していたはずです。書類上は滞りなく支払われていることに……」
そこまで言って、私は自分の指先が冷たくなっているのに気づいた。
事務作業を補佐していたのはデイヴだ。彼は「シーナは王妃様の対応に集中して。細かい計算は僕がやっておくから」と、笑って書類をまとめてくれていた。
――デイヴ。あなた、私の知らないところで何をしていたの……?
沸き上がる不信感を押し殺すように唇を噛む。
「……なるほど。王妃は、少し前に王家入りした女だったな。確か……ダリウス・リーの娘だったか」
「はい。宰相ダリウス様の末の娘、メリンダ様です。私と歳もそう変わらないので……いきなり王妃様だなんて、大変だと思っていました」
私は十九で、メリンダ様はその少し上。本来なら王子妃となるはずが、先王の急な崩御によって若くして国母の座に就かれた方だ。
王宮生活はさぞ窮屈だろう――そんな勝手な同情もあって、彼女が協会に関心を示してくれた時は私も率先して案内役を買って出た。王家の方が私たちの活動に目を向けてくれたことへの喜びもあったけれど、協会が彼女にとって少しでも気晴らしになればと願ったのだ。
「綺麗な世界で生きてきた連中には分からんのだろうな。その点、嬢ちゃんは偉いぜ。北部以外には足を運んでたんだろ?」
「はい。図鑑を眺めているだけじゃ分からないことは多いですから。……きっかけはともあれ、ここに来られたことも幸運だと思ってます」
「ハハッ! そりゃ結構なことだ。だが王都のお嬢さんにとっちゃ、ここでの生活は辛いんじゃないか?」
「確かに大変なことばかりですけれど……楽しいですよ? だって、面倒な御方の相手をしなくて済むんですもの」
一拍の間の後に、シグルドさんが大笑いする。ノースも混ぜろと言いたげに私とシグルドさんの間に割って入って、雪の上に腹ばいになった。
「馬鹿な連中の相手をするよりも、獣の相手をしている方がよほどマシってことか。……嬢ちゃんが来てからノースも楽しそうにしている。家族が出来たとでも思ってんのかもな」
「……もしかして、ノースの家族も?」
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「それは……協力者がいたということですか?」
「身内を疑いたくはないがな。……それか、協会に不届き者が紛れ込んでいたか」
その言葉にドキリと胸が鳴る。
協会の中に、密猟者と通じている人間がいる?
協会の人たちの顔を順番に思い返していると、ノースが突然、耳をぴんと立てた。
「……ノース?」
「どうした?」
ノースは低く唸り、何かの匂いを追うように鼻先を動かした。次の瞬間、白い尾がぴんと跳ね上がる。
「ガウッ!」
けたたましい吠え声が、静謐な雪山を切り裂いた。シグルドさんが鼻を鳴らして一瞬で顔つきを変える。
「……獣をおびき寄せる匂いが混ざってやがる。嬢ちゃん、後ろにいろ!」
言われるより早くノースが山道を駆け下りていった、その直後だ。
――ぎゃああああああっ!!
悲鳴が、雪の斜面の向こうから響いた。死に瀕した、切羽詰まった人間の叫び声が。
「誰か……襲われてる!?」
「あの辺りはムジカの縄張りだ。急ぐぞ!」
シグルドさんが走り出し、私も転ばないように必死でついていく。
雪原の向こう、木立の影。先行したノースが唸り、何かを激しく威嚇しているのが見えた。
そして、ようやく視界が開けた先――。
そこには、何匹ものムジカに押し倒され、必死に腕で顔を庇う男の姿があった。
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