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白銀のエチュード
10 お客様
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あの密猟者の男が屈強な猟師たちに引き立てられ、最前線のオルン砦へと送られてから幾日かが経った。
雪山を汚した報いは、あちらでの厳しい労役によって精算されることになるのだと言う。「衣食住は保証してやるんだから優しいもんだろ?」と笑うシグルドさんに、私は苦笑を返すしかなかった。
男を密猟に誘ったのはデイヴに間違いないだろう。王家に訴え出るべきかと悩む私に、シグルドさんは首を振った。
「そんな小物を捕まえたところで尻尾を切られて終わるのがオチだ。……俺が潰したいのは、その背後にいる狐野郎だしな」
そう目を細めるシグルドさんには何か考えがあるらしい。任せろ、という言葉を信じて私は素直に甘えることにした。
そうして宴のあとの静寂が戻った日常で、私はまたシグルドさんから教わる北部の知恵を、一つひとつ噛みしめるように吸収する日々を過ごしていた。
ヴィンターハルトの一年は、そのほとんどが冬だ。
静かに雪が降り積もる冬か、外に出ることすら難しい吹雪の冬。違いといえばその程度なんだとシグルドさんは言う。
そんな吹雪が再び山を呑み込もうとしていた頃、山小屋には珍しくお客様が訪れた。誰かがわざわざここまで訪ねてくるなんて、私がここへ来てから初めてのことだった。
山の斜面を登ってくるのは、シグルドさんのものよりも軽やかで、どこか急いたような足音。
栗色の髪を短く束ね、頬にそばかすを散らした若い男の人が雪煙の向こうから現れた。
「じーさんいるかー? ノース、会いに来たぞー!」
「ガウウウッ!」
その声を聞くなり、薪拾いに付き合ってくれていたノースが大はしゃぎで駆けだしていく。
勢いよく飛びつかれた青年はそのまま後ろへひっくり返り、馬乗りになったノースにべろべろと顔を舐めまわされていた。
「なんだ、ロベルトじゃねぇか。そんなんで尻を着くたぁ、相変わらず貧弱な奴だな」
「うるせぇな、あんたと一緒にしないでくれよ。……ノース、俺に会えて嬉しいのは分かった。分かったから、離れろってば! 顔が涎塗れになんだろ!」
覆いかぶさるノースを押しのけ、ロベルトと呼ばれた青年は勢いよく立ち上がる。
そのとき、シグルドさんの大きな体に隠れるように立っていた私と目が合って、彼はほんの少しだけ頬を引き攣らせた。
「……嘘だろ、おい。村になかなか顔を出さないと思ったらマジで女を作ってたのかよ! いい年して何してんだよ、あんた!」
「ほんの数ヶ月だろうが。それに変に勘繰られちゃ困る。この娘は……そうだな。孫みたいなもんだ」
「言うに事欠いて、本物の孫の前で言うことかよ!」
お孫さん、と心の中でなぞりつつ、私は二人を交互に見比べた。
屈強で熊みたいなシグルドさんに比べ、ロベルトさんは鹿のようにシュッとして知的な印象を受ける。……正直、あまり似ていない。
「あ、えっと。シグルド様にお世話になっております、シーナ・リンドと申します」
「ご丁寧にどーも。俺はロベルト。その脳筋爺さんの孫にあたるわけだが……。あんた、ここいらの人間じゃないんだろ? その立ち居振る舞い……王都から来たのか?」
興味津々といった様子で身を乗り出すロベルトさんに、どこから説明すべきか悩んでしまう。
その逡巡を断ち切るように、シグルドさんがロベルトさんの頭を大きな手でがしっと掴んだ。
「相変わらずきゃんきゃんうるせぇな。で、何か用があったんじゃないのかよ」
「いでででっ! こんの馬鹿力が……! 王都からまた有難い通告書が届いたから、相談にきたんだよ!」
太い指を両手で引き剥がし、ロベルトさんは既に封の切られた封筒を差し出した。
シグルドさんは雑にそれを広げ、ハッ、と乾いた笑いを零した。
「おい、シーナ。いつの間にかオイゲンの協会は、名前が変わっちまったようだぞ?」
「えぇ?!」
慌てて覗き込んだ紙には、確かに『慈獣共生協会』の名と王妃様の署名があった。つまり私は死んだものとして処理され、協会は完全に乗っ取られたということだ。
その衝撃も大きかったけれど、それ以上に目を奪われたのは書状の内容だった。
『ムジカへの殺生行為を一切禁ずる』
ここ北部で暮らすうちに、私はムジカの脅威を何度も目にしてきた。熊の親子があっという間に食い殺される光景を見たときは全身が震えたものだ。それほどの脅威を持つ生き物なのに、何を考えているのだろう。
「『ムジカは愛らしい生き物であり、人間の勝手で害獣扱いするなど言語道断である。ヴィンターハルトにおいてはその残酷な狩猟を即刻禁止とし、慈しみの心をもってムジカに接するべし』。……凄ぇな。王都の連中の頭の中には綿でも詰まってんのか?」
「どうすんだよ。こんな命令されたら、俺たちは村から出られなくなっちまう!」
「村から出られないどころか、家畜も備蓄も、人間だって襲われる。……なるほど。王妃様はムジカのためなら北部の野蛮人は死んでも構わないと。そう仰っているわけだ」
シグルドさんは書状を見つめながら薄く笑った。その笑みは軽く見えるのに、怒りが潜んでいるのが手に取るように分かってしまう。
「……よし、分かった。『承知しました』と返しておいてくれ。『協会の命に従い、北部はムジカからは一切の手を引きます』とな」
「おいおい、そんなことしたら村はムジカに食い漁られちまうだろ!」
「連中を殺さなきゃ文句ねぇんだろ? だったらムジカを近づけない策は好きにやらせてもらうさ。ロベルト、お前が研究してたアレはどうなってんだ?」
シグルドさんに問われ、ロベルトさんは一瞬ぽかんとしたあと、ぱっと顔を輝かせた。
「……それなら! 開発中の『匂い罠』を試したいんだ!」
「匂い罠、ですか?」
聞き慣れない単語につい口を挟んでしまう。
ロベルトさんは待ってましたとばかりに、鞄から濁った液体の入った小瓶を取り出した。
「そう! 獣が本能的に嫌う臭気を出して、特定のエリアに近づけないようにするんだよ。殺すなってんなら、寄らせないようにするしかないからな」
瓶の蓋がわずかに緩んだ瞬間、辺りにに鼻を突くような強烈な悪臭が広がった。ノースが嫌そうに鼻を鳴らし、シグルドさんも顔をしかめる。
「なるほど。南部で使われている匂い袋みたいなものですね」
祖父に連れられて訪れた南部の村では、香辛料やハーブを混ぜた匂い袋が虫除けとして使われていた。きっとそれの応用だろうと鼻をつまみながら頷くと、ロベルトさんが目をきらりと輝かせる。
「それとこれ……トゲミの樹皮を混ぜているんですか?」
「……は? なんで分かったんだよ。トゲミの成分なんて、かなり特殊な処理をしないと臭いに出ないはずだぞ?」
「お祖父様の研究資料にありました。でもそれだけだと揮発性が高すぎて、雪の中ではすぐに効果が消えてしまいませんか? 定着させるために……そうですね。南部のカプサイシの種を粉末にして練り込むといいかもしれません。あの刺激的な匂いも嫌がられるはずですし、油分と混ざれば臭いが長持ちすると思います」
しばらくの沈黙。
やがて、ロベルトさんは今日一番の真剣な目で私を見つめた。
「……シーナ・リンド。あんた、ただの『孫みたいなもの』なんかじゃないだろ」
「ええと……知識だけは、多少はあるかもしれないです」
「面白いじゃん! もっと詳しく聞かせてくれよ! カプサイシの配合比率はどのくらいだ? もっと簡単に持ち運びも出来るようにしたいんだけど、どうするのがいいと思う?」
ロベルトさんが勢いよく私に歩み寄り肩を掴もうとした、その時。シグルドさんの手刀がロベルトさんの手首に落ちた。「いてぇ!」と非難めいた悲鳴があがる。
「おい。話くらいなら構わんが、手を出すんじゃねーぞ」
「出すか! ……って、あんたも一歩引いてんじゃねぇよ! ノースまで威嚇してくんな!」
グルルルル、と耳を伏せてノースがロベルトさんを睨みつけている。
その慌てぶりが妙に可笑しくて、私はこらえきれず笑い声を上げてしまった。
雪山を汚した報いは、あちらでの厳しい労役によって精算されることになるのだと言う。「衣食住は保証してやるんだから優しいもんだろ?」と笑うシグルドさんに、私は苦笑を返すしかなかった。
男を密猟に誘ったのはデイヴに間違いないだろう。王家に訴え出るべきかと悩む私に、シグルドさんは首を振った。
「そんな小物を捕まえたところで尻尾を切られて終わるのがオチだ。……俺が潰したいのは、その背後にいる狐野郎だしな」
そう目を細めるシグルドさんには何か考えがあるらしい。任せろ、という言葉を信じて私は素直に甘えることにした。
そうして宴のあとの静寂が戻った日常で、私はまたシグルドさんから教わる北部の知恵を、一つひとつ噛みしめるように吸収する日々を過ごしていた。
ヴィンターハルトの一年は、そのほとんどが冬だ。
静かに雪が降り積もる冬か、外に出ることすら難しい吹雪の冬。違いといえばその程度なんだとシグルドさんは言う。
そんな吹雪が再び山を呑み込もうとしていた頃、山小屋には珍しくお客様が訪れた。誰かがわざわざここまで訪ねてくるなんて、私がここへ来てから初めてのことだった。
山の斜面を登ってくるのは、シグルドさんのものよりも軽やかで、どこか急いたような足音。
栗色の髪を短く束ね、頬にそばかすを散らした若い男の人が雪煙の向こうから現れた。
「じーさんいるかー? ノース、会いに来たぞー!」
「ガウウウッ!」
その声を聞くなり、薪拾いに付き合ってくれていたノースが大はしゃぎで駆けだしていく。
勢いよく飛びつかれた青年はそのまま後ろへひっくり返り、馬乗りになったノースにべろべろと顔を舐めまわされていた。
「なんだ、ロベルトじゃねぇか。そんなんで尻を着くたぁ、相変わらず貧弱な奴だな」
「うるせぇな、あんたと一緒にしないでくれよ。……ノース、俺に会えて嬉しいのは分かった。分かったから、離れろってば! 顔が涎塗れになんだろ!」
覆いかぶさるノースを押しのけ、ロベルトと呼ばれた青年は勢いよく立ち上がる。
そのとき、シグルドさんの大きな体に隠れるように立っていた私と目が合って、彼はほんの少しだけ頬を引き攣らせた。
「……嘘だろ、おい。村になかなか顔を出さないと思ったらマジで女を作ってたのかよ! いい年して何してんだよ、あんた!」
「ほんの数ヶ月だろうが。それに変に勘繰られちゃ困る。この娘は……そうだな。孫みたいなもんだ」
「言うに事欠いて、本物の孫の前で言うことかよ!」
お孫さん、と心の中でなぞりつつ、私は二人を交互に見比べた。
屈強で熊みたいなシグルドさんに比べ、ロベルトさんは鹿のようにシュッとして知的な印象を受ける。……正直、あまり似ていない。
「あ、えっと。シグルド様にお世話になっております、シーナ・リンドと申します」
「ご丁寧にどーも。俺はロベルト。その脳筋爺さんの孫にあたるわけだが……。あんた、ここいらの人間じゃないんだろ? その立ち居振る舞い……王都から来たのか?」
興味津々といった様子で身を乗り出すロベルトさんに、どこから説明すべきか悩んでしまう。
その逡巡を断ち切るように、シグルドさんがロベルトさんの頭を大きな手でがしっと掴んだ。
「相変わらずきゃんきゃんうるせぇな。で、何か用があったんじゃないのかよ」
「いでででっ! こんの馬鹿力が……! 王都からまた有難い通告書が届いたから、相談にきたんだよ!」
太い指を両手で引き剥がし、ロベルトさんは既に封の切られた封筒を差し出した。
シグルドさんは雑にそれを広げ、ハッ、と乾いた笑いを零した。
「おい、シーナ。いつの間にかオイゲンの協会は、名前が変わっちまったようだぞ?」
「えぇ?!」
慌てて覗き込んだ紙には、確かに『慈獣共生協会』の名と王妃様の署名があった。つまり私は死んだものとして処理され、協会は完全に乗っ取られたということだ。
その衝撃も大きかったけれど、それ以上に目を奪われたのは書状の内容だった。
『ムジカへの殺生行為を一切禁ずる』
ここ北部で暮らすうちに、私はムジカの脅威を何度も目にしてきた。熊の親子があっという間に食い殺される光景を見たときは全身が震えたものだ。それほどの脅威を持つ生き物なのに、何を考えているのだろう。
「『ムジカは愛らしい生き物であり、人間の勝手で害獣扱いするなど言語道断である。ヴィンターハルトにおいてはその残酷な狩猟を即刻禁止とし、慈しみの心をもってムジカに接するべし』。……凄ぇな。王都の連中の頭の中には綿でも詰まってんのか?」
「どうすんだよ。こんな命令されたら、俺たちは村から出られなくなっちまう!」
「村から出られないどころか、家畜も備蓄も、人間だって襲われる。……なるほど。王妃様はムジカのためなら北部の野蛮人は死んでも構わないと。そう仰っているわけだ」
シグルドさんは書状を見つめながら薄く笑った。その笑みは軽く見えるのに、怒りが潜んでいるのが手に取るように分かってしまう。
「……よし、分かった。『承知しました』と返しておいてくれ。『協会の命に従い、北部はムジカからは一切の手を引きます』とな」
「おいおい、そんなことしたら村はムジカに食い漁られちまうだろ!」
「連中を殺さなきゃ文句ねぇんだろ? だったらムジカを近づけない策は好きにやらせてもらうさ。ロベルト、お前が研究してたアレはどうなってんだ?」
シグルドさんに問われ、ロベルトさんは一瞬ぽかんとしたあと、ぱっと顔を輝かせた。
「……それなら! 開発中の『匂い罠』を試したいんだ!」
「匂い罠、ですか?」
聞き慣れない単語につい口を挟んでしまう。
ロベルトさんは待ってましたとばかりに、鞄から濁った液体の入った小瓶を取り出した。
「そう! 獣が本能的に嫌う臭気を出して、特定のエリアに近づけないようにするんだよ。殺すなってんなら、寄らせないようにするしかないからな」
瓶の蓋がわずかに緩んだ瞬間、辺りにに鼻を突くような強烈な悪臭が広がった。ノースが嫌そうに鼻を鳴らし、シグルドさんも顔をしかめる。
「なるほど。南部で使われている匂い袋みたいなものですね」
祖父に連れられて訪れた南部の村では、香辛料やハーブを混ぜた匂い袋が虫除けとして使われていた。きっとそれの応用だろうと鼻をつまみながら頷くと、ロベルトさんが目をきらりと輝かせる。
「それとこれ……トゲミの樹皮を混ぜているんですか?」
「……は? なんで分かったんだよ。トゲミの成分なんて、かなり特殊な処理をしないと臭いに出ないはずだぞ?」
「お祖父様の研究資料にありました。でもそれだけだと揮発性が高すぎて、雪の中ではすぐに効果が消えてしまいませんか? 定着させるために……そうですね。南部のカプサイシの種を粉末にして練り込むといいかもしれません。あの刺激的な匂いも嫌がられるはずですし、油分と混ざれば臭いが長持ちすると思います」
しばらくの沈黙。
やがて、ロベルトさんは今日一番の真剣な目で私を見つめた。
「……シーナ・リンド。あんた、ただの『孫みたいなもの』なんかじゃないだろ」
「ええと……知識だけは、多少はあるかもしれないです」
「面白いじゃん! もっと詳しく聞かせてくれよ! カプサイシの配合比率はどのくらいだ? もっと簡単に持ち運びも出来るようにしたいんだけど、どうするのがいいと思う?」
ロベルトさんが勢いよく私に歩み寄り肩を掴もうとした、その時。シグルドさんの手刀がロベルトさんの手首に落ちた。「いてぇ!」と非難めいた悲鳴があがる。
「おい。話くらいなら構わんが、手を出すんじゃねーぞ」
「出すか! ……って、あんたも一歩引いてんじゃねぇよ! ノースまで威嚇してくんな!」
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