『救済のロジック ~ヤングケアラーの私が、執着系彼氏に全管理される話~』

カタルシスト

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第1章 規律の汚染

帰還と疲労の計測

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帰還と疲労の計測

22時15分。
壁に掛けられたデジタル時計のコロンが、無機質な明滅を繰り返している。秒が刻まれるたびに、この部屋を支配する完璧な秩序が更新されていく。
僕の住むマンションの高層階は、下界の喧騒から完全に遮断された真空のような静寂に包まれている。高性能の空調が吐き出す微かな、しかし一定の周波数を保った駆動音だけが、設定された摂氏24度、湿度50%という、人間にとって最も不純物の混じらない快適な環境を維持するために鳴り続けていた。ここは、重厚な防音壁と気密性によって、あらゆるノイズが濾過された僕の「聖域」だ。

予定時刻より45分の遅延。
想定される遅延要因は二つ。一つは、弟の通うショートステイ先での突発的なパニック発作による緊急呼び出し。もう一つは、今夜の気圧低下に伴う母親のリウマチ症状悪化、それに伴う排泄および入浴介助の長時間化。
今日の低気圧配置と月齢、そして彼女から夕方に届いた短いメッセージの文体を解析すれば、その両方が重なったと見て間違いない。

電子錠が駆動し、重厚な金属音が静寂を切り裂いた。
ドアが開く。廊下の冷たく湿った空気が、暖房で精密に調整された室内へと流れ込み、緻密に計算された気流を乱す。その風に乗って、微かな、しかし決定的な「生活の澱」が僕の領域に侵入するのを鼻腔が捉えた。

「ただいま……。遅くなってごめんなさい、たーくん」

声のトーン、周波数、抑揚。すべてが完璧に制御されている。「待たせて悪い」という謝罪と、「私は大丈夫」という強がりが、コンマ数秒の間にブレンドされ、聞き心地の良い和音として出力されている。さすがだ。彼女のこういう健気さは、生き残るための適応戦略の結果であり、もはや芸術の域に達している。

だが、僕の目は誤魔化せない。
彼女が脱いだ靴は、玄関のタイルの上に力なく放置され、左右の向きさえ揃っていない。いつもなら、強迫的なまでに整えられているはずの「規律」が、今はそのわずかな動作を完遂させる余裕さえ失っている。彼女は靴を揃えるための数秒のエネルギーさえ、外の世界で使い果たしてきたのだ。

彼女が顔を上げ、廊下のダウンライトの下で僕に向けて微笑む。
照明の加減ではない。目の下のクマをコンシーラーで厚く塗り隠しているが、眼輪筋の微細な痙攣までは隠せていない。瞳孔は散大し、視線の焦点が僕の顔の数ミリ奥を泳いでいる。

「おかえり、英里。……ああ、そんなに震えて。君は今日も、世界で一番優しいお姉ちゃんだったんだね。立派だよ」

僕はスリッパを差し出しながら、彼女との距離をゼロにする。抱きしめるのではない。検分するために、間合いを詰めるのだ。
ふわりと鼻をかすめる匂い。彼女が玄関前で急いで振り撒いたであろう、安っぽいフローラル系のヘアミスト。その人工的な甘さの奥底に、隠しきれない本質が潜んでいる。

僕は獲物の内臓を嗅ぎ分ける捕食者のように、嗅覚の感度を最大まで引き上げる。

**成分分析:メントール系湿布薬の残香。特定の柔軟剤(自閉症の弟が固執する特定銘柄)。および、微量のアンモニア臭。**

一般の男なら、眉をひそめるかもしれない。所帯じみた生活感。逃れられない疲労。重たい介護の現実そのもの。
だが、僕の脳髄は、その匂いを感知した瞬間に熱く沸騰する。
彼女は今日一日、自分の人生という貴重な資源を投げ捨てて、他人のために肉体をすり減らしたのだ。そのボロボロになった体臭こそが、彼女が「善良」であろうとした、あまりにも美しく残酷な聖痕だ。僕だけが、この「汚れ」の価値を正しく査定できる。

「でも、ここから先は僕の場所だ。もう、誰のことも気にしなくていい。君を縛るすべての義務から、僕が君を解放してあげる」

<<観測: 呼吸数の乱れ、末梢血管の収縮による低体温。自己犠牲の限界点を確認>>

彼女はまだ、自分が生物的な限界を超えていることに気づいていない。あるいは、気づかない振りをしている。父のように逃げ出すことを罪悪感として恐れ、「私がやらなければ」という呪いで笑顔という仮面を皮膚に癒着させている。
可哀想な英里。君のその強さは、美徳ではなく、自分を殺し続ける自傷行為だ。
だから、僕が教えてあげなければならない。君はもう、自分の意志で立っていることさえ許されないほど、無惨に壊れているのだと。

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