夜祭り──風の谷の夜祭りのこと──

あんのーん

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盆がえり

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「ちょっと涼みに行ってくる」
「もう暗いから気をつけてね。あんまり遅くなっちゃだめよ」
 母の声に送られて僕は外へ出た。
 西の空にはかすかに朱が残っている。朱から青、そして天空の残りを覆い尽くす群青。やがて黒へと呑み込まれていく儚いグラデーションは、いつも泣きたくなるほどに美しい。
 鄙びた通りを十五分ほど歩くと家並みが途切れ、川になる。
 遠くの街灯のかすかな光の中、土手には下草のほかに大きな木が見える。あれは胡桃の木だ。神戸で生まれ育った僕は、五年生になった春にここへ越してくるまで、胡桃の木を見たことがなかった。
 川原に目を落とすと、薄闇の中、目指す相手はすぐ見つかった。白地の浴衣がぼんやりと浮かび上がって見える。あの子も気づいて手を振ってくれた。
「買ってきてくれた?」
 近づいてきたあの子が、くりくりした目で僕の手元を覗き込む。白地に赤の花絣の浴衣、牡丹色の帯がとても可愛らしい。僕は胸を締めつけられ、思わず目を伏せた。
「うん」
 僕は頷いて、スーパーの袋の中の花火を見せた。
「それから、これも」
 そう言って、手にしたアイスキャンディをあの子に手渡す。
「え、いいの?」
 驚いた顔でそう言いながらも、あの子は嬉しそうにありがと、とそれを受け取った。
「溶けるから先に食べなよ」
「多井くんのは?」
「オレはこれ」
 そう応え、僕は最後に缶ジュースを取り出した。
「バケツ持ってくるの面倒だったからさ、これ空いたらそこで水汲んで、火の始末に使たらええやん?」
 あはっ、とあの子が笑った。
 転校してきた当座にけっこうあれこれ言われて、気をつけてるけど時々関西弁が出る……だけどあの子は笑っただけで何も言わず、軽やかに数歩進むと振り返り、
「もっと川べりに行こうよ。気持ちいいから」
 と、僕をいざなった。

 川べりにふたりで腰掛けて、あの子はアイスキャンディを舐め、僕は缶ジュースを飲んだ。
 学校でよくやるように膝を立てて座ったから、あの子の浴衣の裾が少しはだけてふくらはぎが見え、ぼくはあわてて目を反らした。女の子のふくらはぎなんて、いつも見てるのにどうして今夜は……長い裾からほの見えたそれがやけに艶めかしくて、僕は戸惑った。
「少し囓ってもいいよ?」
 と、あの子が唐突に、僕の前にアイスキャンディを突きだしてきた。
「え……いいよ。ジュースあるし」
 どぎまぎしながら僕は答えた。
「いいよ。元々多井くんが買ってくれたアイスだし。冷たくておいしいよ」
 そうまで言われて固辞するのもなんだかみっともなく思えて、僕は唇を突き出しアイスキャンディを囓った。さり気なさを装ったつもりだったけど、いかにもおっかなびっくり、という風情になってしまった。
 淡い水色の、ソーダアイス。あの子が口をつけたアイスキャンディ。ひんやりと喉を滑り落ちたそれは、あの子が言った通り、特別な味がした。
「ね、おいしいでしょ」
 あの子は闊達で誰に対しても気さくで、クラスでは間違いなく人気者のひとりだった。僕に対しても、始めから優しかった。ちょっとませたところもあったかもしれない。僕は内心の動揺を気取られまいと必死だったのに、そう言ってあの子は笑いかけると、あっさりと僕が囓ったアイスキャンディを舐めた。
 それからふたり、川べりにほど近いところで花火を楽しんだ。
 僕が買ったのは手持ち花火のセットだった。なにせ川原だから、打ち上げ花火とか、大がかりなものはできない。川面に火花が照り映え、とても綺麗だった。あの子の姿も、闇に光り輝いて見えた。
 最後に線香花火に火を点けた。
「私線香花火好き……。なんだかちょっと淋しくなるけど」
「うん」
 僕も線香花火が好きだった。祭りの後のような、かすかな感傷と寂寞感。
 ぱちぱちと松葉のように弾けた光が、やがて小さな火の玉へと収斂する。じりじりと震えながら光と熱を内側に封じ込め、やがて力尽き、落ちる。
「終わっちゃった……」
 あの子がぽつんと呟くように言った。
 夏の夜のひとときの宴も、終わる時が来た。
「楽しかった……ありがと」
 あの子が顔を上げ、僕を見て言った。
「……うん。オレも」
 僕もあの子の顔をしっかりと見ながら応えた。
「次に会えるの、九月かな」
「そうだね、学校が始まったら」
 僕が辺りの燃えかすを拾ったり花火の始末をしている間、あの子は待っていてくれた。
 土手を並んで上りながら、あの子が言った。
「そうだ、これあげる」
 僕の掌に乗せられたのは、丸くて滑らかなふたつの木の実。
「胡桃だよ。去年拾ったものだけど。多井くん見たことないって言ってたでしょ」
「今年は一緒に拾おうね」
 そう言ったあの子の笑顔は、とても綺麗だった。
「うん」
 僕は短く答えると、それをしまい込む素振りで顔を背けた。本当に今が夜でよかった。僕の表情を見られずにすむから。


 手を振ってあの子と別れ、僕は帰路を辿った。仰ぎ見ると満天に星が瞬いていた。
 ジーンズのポケットには胡桃がある。さっき貰ったものじゃない。これを貰ったのは、もう二十年ばかりも前だ。
 あの夜の約束は、胡桃を一緒に拾うのも九月に会おうと言ったのも、何一つ果たされることはなかった。
 この川から真っ白なあの子が揚がったのは、八月の最後の日。
 僕はあの子にお別れが言えなかった。好きだったのに。恐ろしくて。だからかも知れない。十数年も経ってから、この川原であの子と再会したのは……。
 あの子がいつもここにいるのか、それとも今夜だけ何処いずこからかやって来るのか、僕は知らない。
 あの夏以来、僕はこの川辺を訪れることがなくなった。高校を卒業するとともにこの土地を離れ、帰省するのはせいぜい盆と正月くらいになり、就職してからはそれすら覚束なくなった。あの子のことももうほとんど忘れていたけれど、ふとある時、あの夏の夜を思い出して十数年振りに立ち寄った川原に、僕はあの子を見つけたのだ。そう、あの子と過ごしたあの夜と同じ夜に。
 あの子が僕に向かい、手を振った。そのまま踵を返すことも出来たのに。僕は川原へ下りてしまった。会話はぎこちなくて、何度も僕はつっかえた。だけど毎年あの子に会うたびに、少しずつ僕は思い出したのだ。あの夜に交わした言葉を。あの子の姿もその笑顔も、それにつれて鮮明になった。今ではあの子の息遣いさえ感じるほどに。
 毎夏、今夜だけ川辺へと出かけ、あの子に会い、同じ会話をくり返す。そうするごとに、あの子への思いが蘇る。
 最後の線香花火の火の玉が落ちるのはいつだろう。僕にもわからない。けれどいつか、必ず来るその時まで、僕は小さな追慕のゆらめきを見つめ続ける──。






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