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8.苦くて甘い蜂蜜酒
しおりを挟む「……わかんなくなっちゃった」
「何が?」
ひとしきり笑い終えるのを待ってから、ポツリと呟いた言葉に、彼女は首をかしげた。
まだ温かなカップを両手でもって、その表面をじっと見つめる。
深い蜂蜜色が、微かに揺れていた。
「…青葉君ってさ、私にとったらずっと、友達だって思ってたんだよ。恋に不器用で、自分に自信がなくて、優しくて、気配りのできる、本当にいい子で、私にとってはずっとそうなんだ」
「…うん」
「……それが、いきなり、…男の人になって、好きだなんていうの。今まで他の女の子のこと好きになってたのに、今、私を好きだって言うの。おかしくない?」
揺れているのは、私の指先が震えているからだろうか。
奈美は私の言葉を咀嚼するようにだまって、小さく息を吐いた。
「おかしいとは思わないよ。だって若月君、今は陽菜に恋してるってだけでしょう?」
「だって、私、青葉君が好きになってたような女の子とタイプ全然違うよ。年上だし、可愛げないし!」
「そこが陽菜の魅力だって、若月君が気がついたんじゃないの? いいじゃん、そのまま受け入れて、とりあえず付き合ってみれば」
「…で、できるわけないじゃん、そんな、」
そんな遊びみたいなこと、と口にした声は酷く小さくなってしまった。
私に苦笑して、奈美はカップをテーブルに置いてから、ソファの背もたれに深く寄りかかった。
「陽菜はまだ怖がってるだけだと思うんだよね。確かにあいつのことは忘れられないかもしれないけどさ、甘さに浸ってその傷跡癒してもらうことだってできるのに」
「甘さ?」
「そうだよ。若月君って、好きになった女のこととことん甘やかしそうじゃん。それが陽菜にも、なのかは見てればわかるし。思い切って飛び込むことも大事だと思うけど」
「…そう、なのかな…」
「立ち止まってるより動いてるほうがよくない? 陽菜だって前に進めるじゃん。そもそも陽菜にとって若月君はどういう存在なのよ。友達ってだけじゃないでしょ。じゃなきゃ、あんなふうに甲斐甲斐しくお世話したりしないと思うよ」
問われて、どう答えればいいのかがわからなくて、再び視線を手元に落とした。
揺れる水面に、小さく息を吐く。
あの男の子が、甘いだけじゃない、ずるくて、遠慮なく、私の心に入り込もうとしてくる、男だと知ったのはつい最近だ。
それも優しく、穏やかな空気は保ったまま、素直な心はその表情を素直に変える。
傷つけたと、苦い思いをするのはいつも私だ。
彼を傷つけてしまったと、罪悪感が募って、結局折れてしまう。
優しくて、穏やかで、甘くて、それなのに、後味は、酷く苦い。
「…青葉君は、さ、なんか、蜂蜜みたい」
「は?」
「砂糖ほどは甘くないの。たまにね、本当に仕方ないなぁって思うこともあるし、頼りないなって思うこともあるんだけど。それに、結構ずるいし。…この、お酒みたい」
「陽菜?」
「表面は蜂蜜色で、甘くて、おいしそうって思うんだけど。…でも、飲んでみたら、苦味もあるの。…だけど、くせになるような、そんな感じ」
自分で言っていて、おかしくなってきた。
蜂蜜色の苦い人って、それはどんな表現の仕方だ。語彙や表現力がないのがよくわかる。
眉間に皺を寄せたまま黙り込んだ親友に、「忘れて」と声をかけたが、忘れてくれるだろうか。
なんとなくそのままお開きになった訪問に、帰るとき、親友が真剣な顔をして私に言った。
「―――陽菜、恋をしたいとは思う?」
「……わかんない。幸せになりたいとは思うけど」
「…そっか。…なら、それ、ちゃんと若月君に伝えた方がいいと思うよ」
「それって?」
「陽菜が思ってること、全部」
それができたらどんなに楽だろうと思う。
全部を青葉君に打ち明けて、彼がそのまま、私の友達としていてくれるかどうかもわからないのに。
むしろ、もう身体まで許してしまっているのだ、この先、彼を思い留マラせるためにはどうすればいいのかと考えれば、全部打ち明けるのは間違っているような気がする。
「全部いいなよ。陽菜が怖がってる事も、若月君のことどう思ってるかも。まだ混乱してるんじゃないの? 本質見失ったら、陽菜、きっと後悔するよ」
「…奈美…」
「また会うんでしょう? 私は全部聞いてないし、二人の間に何があったのか全然知らないけど。二人がちゃんと話あったほうがいいってことだけはわかる」
「…そうなのかな」
親友の言葉に迷いはなくて、きっとそれが正しいんだろうと、ただなんとなく思った。
靴を履いて、今日のお礼を口にしてから、そのドアをしめる。
一人、駅までの道を歩き始めると頬に冷たい風が当たって、少し痛かった。
二人共、確信を避けている。
それは自覚してる。大事なことも、大切な確認も、何一つ話してない。
それがお互いにとっての逃げだということも、ちゃんとわかってるんだ。
なんで、青葉君がこのタイミングで、この勝負を仕掛けてきたのかは、私にはわからないけれど。
初めて抱かれたあの日から、まだ1週間も経ってない。
考えるのが嫌だと、まだぐずっていたい。
答えを出さなきゃいけないことが怖い。
彼の言うすぐに答えを出さないでよのあの願いの言葉は、果たしていつまで有効なんだろうか。
明後日、大晦日の日、迎えに来ると言っていた青葉君に会うのが、少しだけ怖かった。
◇◇◇◇◇
「陽菜さん」
「……おはよ」
「…うん」
約束した時間ピッタリにインターホンを押した青葉君に、気まずいと思っていた気持ちのまま玄関を開けてもその顔を見れない。
そんな私を許容してくれたのか、こないだのことを思い出しているのか、彼は小さな声をこぼして、私の手を握った。
「…もう、出れる?」
「…うん」
「なら、行こ。今日は俺の家でゆっくりしようよ。料理もさ、俺すげー頑張るから」
「…いいよ、そんなに頑張らなくても」
そんなに頑張られても困るよ。
その言葉は言わず、声には「そんなに頑張られても、女の私の立つ瀬がなくなる」と乗せて、笑った。
指を絡めて繋がれた手は、車に乗るときに離れたけれど、やけに煩い心臓がほっとしたので助かったと思った。
「今日さ、テレビも年越し特番とかだからどっかでDVDでも借りようかと思ったんだけど、陽菜さんがみたいって言ってたやつあったから、買ってきちゃった」
「みたいって、あの邦画の? あれまだレンタルしてないのに? わざわざ買ったの?」
「うん。あらすじ見たら俺も見てみたいなーって思ったから。まだ見てないんだ。陽菜さんと一緒に見たかったから」
「…そ、そうなんだ…」
「…ねぇ陽菜さん」
「…ん?」
信号に引っかかり、車が静かに止まる。
運転には人が現れるというが、この穏やかで静かな運転は、まさしく彼そのものだと思う。
呼ばれた自分の名前に振り返れば、膝においていた手を握られて、掠めるようにキスをされた。
「―――今日だけじゃなくてさ、三が日も一緒にいたい」
至近距離でぶつかる視線が酷く熱いと思った。
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